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王の剣士 七

<第三部>

第八章『輝く青 2』

二十



 シメノスの戦いは既に勝敗を決しようとしていた。
 西海軍の兵は指揮官を失い、分断され、逃げ場を失い、北岸と飛竜からの攻撃にじりじりと数を減らしていく。第一堰、第二堰に分断された区域はもう既に西海兵の動く姿は見当たらなかった。
 力尽きて倒れ、或いは戦う気力を失い、頭上からの攻撃から逃れるように岸壁の足元に身を寄せ蹲っている。
 ベンゼルカは閉ざされた第一の堰を背にし、失った右腕から流れていく血が意識を閉ざす前に、最後の力を振り絞り、叫んだ。
『矛を降ろせ――武器を捨てよ……! 我が軍はこれまでだ!』
 その声を聞く兵も、もう当初の三千のうち十分の一が残っているかどうか。
 終わりは見えている。
 繰り返し声を張る。
『これ以上は無駄死にだ、投降せよ――!』
 無駄ではなかった戦死が果たしてあったかと、その考えをベンゼルカは押し込んだ。
 今はいい。これ以上兵が失われ死んで行くのを食い止めるのが先決だ。
 もう終わったのだから。
 六万の兵達がどれほど国に戻れるか、指揮官としてベンゼルカに残された最大の役割は、今はそこになっていた。







 時刻は午前十刻を半ばほど過ぎ――視界に映る限り、大河シメノス流域の戦いはアレウス軍の勝利で終わろうとしていた。
 早朝七刻前後からの戦いは既に激しさを失い、形勢を決定付けた北岸からの攻撃も今は疎らだ。
 シメノスが蛇行して岸壁の向こうへと消えて行く、その先の流域からも西海軍後陣を押さえ込んだとの報告が伝令使により次々とボードヴィル本陣にもたらされている。
 西海軍はこのボードヴィルの先陣と中央陣だけではなく後方陣もまた想定通り総崩れとなり、シメノスを下りレガージュからの撤退を目指している。
 報告の為、タウゼンはファルシオンの前に膝をつき、各隊から入った状況を一つ一つ丁寧に説明した。
「王太子殿下におかれましては、御心を安んじ奉り、この後の報せをお待ち頂けますよう」
 シメノス河口を封鎖する南方軍から接敵の報告が入れば、それでほぼ、この戦いは終わりだ。
 レオアリスはシメノスの状況へ向けていた瞳を、またファルシオンへ戻した。
 ファルシオンは戦いが始まってからずっと心と身体を張り詰め、戦いの場へ意識を集中させていた。ボードヴィル、北岸、飛竜で戦う兵士達一人一人へ。ここからは見ることのできない北方軍、南方軍の兵士達へも。
 今、小さな身体から、溜め込んでいた全ての空気を吐き出すようにゆっくりと、恐る恐る、息を吐いた。
「これで、終わるだろうか――」
 これ以上、命のやり取りをすることはなく。
常域・・の戦いは、終わりましょう」
 タウゼンが頷く。その視線が城壁寄りに立つレオアリスと合い、そして上空で飛竜から全域を見渡しているアスタロトへと向けられ、だが言葉にはせずにファルシオンへ戻された。
「良かった――あとは」
 ファルシオンは小さな身体を揺らして深呼吸をし、終わらないうちに足元をもつれさせてよろめいた。
「殿下!」
 レオアリスは咄嗟に手を伸ばし、倒れかかった小さな身体を支えた。その軽さに呼吸を喉の奥に押し込む。
 ファルシオンはレオアリスの顔を見て黄金の瞳の色を和らげ、笑みを広げた。
 自らの中――鳩尾の左奥に温かな熱を覚える。レオアリスはほんの僅かそこへ意識を向けつつ、ファルシオンの身体を支えていた手を離すと膝をついた。
「この戦いは決しました。まずは城内でお休みください」
 小さく首を振り、ファルシオンは両足を開いて立った。
「まだ、ここにいる。この戦いは、おわりだけど、でも」
 まだ、この先の戦いがある。
 西海軍との戦いが終わろうとしている今、もう一つ、そして最後の――ナジャルとの戦いはすぐにでも始まるはずだ。
「アルジマールはずっとじゅんびをしてくれている。レオアリスたちが戦うのはこれからだ。兵もみな、まだ命の危険にさらされている。私がひとり、休むわけにはいかない」
 レオアリスは頷かず、ファルシオンの後ろのセルファンへ視線を向けた。セルファンがファルシオンへ、丁寧に促す。
「ナジャルが出てくるからこそ、なおさら殿下は城内へお入りください。王太子殿下を無事お守りしきってこその勝利です。ナジャル出現の際は万が一を考え、殿下は転位陣で王都へお戻り頂きたく」
 セルファンが伴った第三大隊の隊士達、そしてクライフ等第一大隊隊士達はナジャル出現に際し、ファルシオンを何よりも先に王都へと無事帰還させることを任務としている。
 まだファルシオンは首を振った。吹き抜ける風が柔らかな髪をふわりと揺らす。銀色の髪はほのかに輝いている。
 陽射しはすっかり暖かさを増し、戦火の煙もなく剣戟の音も収まった今の情景は、輝く青い空を背景にただ穏やかな冬の入り口の一日に思える。
 けれどここは戦場だ。
 まだ。
「今はここにいさせて欲しい。兵達がずっと戦ってきて、でも私は見ていただけだ。このあとだって――だからせめて、ナジャルを転位させるまでここにいたい」
 レオアリスはファルシオンの黄金の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「駄目です。ナジャルに対し、殿下の御身の安全を保証できる者は、ここには一人もおりません」
 その言葉はレオアリスが自身の力不足を言っているのではない――事実を、ナジャルとの単純な戦力差を述べているのだと解る。
「――」
 タウゼン、セルファンが改めて膝をつく。
「王太子殿下はこの国そのものであらせられます。国の為に、兵と民の為に、御身を第一にお考えください」
「ナジャルが出現すれば兵達はみな退く手筈です。王太子殿下は彼等が心置きなく退けるよう、まず御身からお退き頂きますよう」
 ファルシオンが残ったままでは兵は退けない。
 その言葉にファルシオンは漸く、頷いた。
「わかった。ずっとわがままを言って済まなかった」
 セルファンが頭を伏せ、ファルシオン退去の指示に立ち上がる。
「まずは城内へ。いつでもお使いいただけるよう、王城への転位陣の準備を整えます」
 黄金の瞳を瞬かせ、頷く。
 セルファンの導きで城壁の上を歩き出しかけ、ファルシオンは振り返った。
 レオアリスは同じ場所に立ったままだ。振り返ったファルシオンを安心させるように、頬に微笑みを浮かべる。
 青い空を背にしたその姿が、急に遠く思えた。
「レオアリス――」
 一歩、近寄りかけた、その時。
 ファルシオンへ向けられていたレオアリスの視線が、背後へ動く。
 シメノスへ。
 瞬きののち、レオアリスの身体が青白い陽炎を纏った。
「レ――」
「殿下を、城内へ」
 上空でアスタロトを乗せた飛竜が、一騎だけ前へ進み出た。
 直後――
 ファルシオンは――、タウゼンやセルファン、近衛師団隊士達、ボードヴィルの兵士達、そして空と、北岸に沿って長く布陣した兵士達、全員が、足元から這い上がり全身を絡め取るような気配――悍ましさと凍る恐怖に掴まれた。
 レオアリスが身体をシメノスへ向ける。
「ここか」
 鳩尾へ、右手を当てる。




 シメノスはボードヴィル手前をほぼ二百六十間(約800m)、緩やかな蛇行で流れ、その先で右へ大きく曲がり込んでいる。
 二つの岸壁の間の幅は平均十間(約30m)、大河と呼ばれるシメノスの河幅もほぼ同じだ。
 堰き止められ辛うじて流れる僅かな水と、倒れた西海軍の兵士達の身体と血とで埋まった河面――川底・・が、揺れる。



 川底そのものが持ち上がったかに見えた。
 ゆっくりと。
 凍りつく静寂の中。
 穏やかな冬の入り口の陽射しの中。


 シメノスの河面ごと持ち上がるように、巨大な蛇体が身を起こし、血の虹彩の銀の双眸を持つ鎌首をもたげた。









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2020.12.6
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