十八
ヴォダが剣を振ったと見えた、直後、展開が遅れていたアレウス軍の兵達が数十名、音もなく崩れた。
ランドリーが剣の柄に手をかけ、現われた大柄な西海兵――ヴォダを見据える。
ワッツもまた、上空で飛竜を旋回させた。
「援軍か――ありゃ厄介そうだぜ」
北方軍左翼、先陣を担う精鋭の兵を、不意にとはいえ三十近く、一瞬で斬り伏せた。
束の間、静寂が場を支配する。
ヴォダは振るった剣の血を払って手元に戻し、アレウス軍の右翼の向こう、蹲っているフォルカロルを見透かした。
『案の定、逃げ出しおって。貴様を追ってみればこのような場所に現われた俺の落胆、覚悟はしていたがやはり情けないわ』
歯軋りしたフォルカロルの周囲で、蹲っていた兵達が歓喜の声を上げる。
『ヴォダ将軍――!』
『救援だ!』
フォルカロルは羞恥に更に顔を赤くした。
ランドリーは自らの騎馬をゆっくりと進め、鶴翼陣の懐、左右の翼のちょうど中央の位置に置いた。
「貴官が総大将か」
「イイヤ。俺ハ第三軍将軍、ヴォダとイウ。総大将は、ソこのソレだ」
ぎこちなく、ヴォダはランドリーへ答えた。
「ヴォダ将軍。既に勝敗は決している。ここで剣を収めればシメノスの戦いも終わる。兵達の命をこれ以上失う事はない。最善の策と思うが」
「――ソノとおり」
ヴォダはやや細身の長剣を、身体の脇でくるりと回転させた。
「ダガ、結果、コイツらはナジャルに、喰わレる――」
剣を左後方に流すように構え、ランドリーを見据えた。
「可哀想ダろウ?」
「――ならば仕方がない」
ランドリーは騎馬の上で片手を上げた。
上空から光弾がヴォダ等へと降り注ぐ。
ヴォダの傍ら、将校三人が使隷の壁を立ち上げ、防ぐ。
ヴォダは一人、地面を蹴って直進した。
ランドリーへ。
鶴翼陣の両翼から矢が放たれる。ヴォダの剣は数十の矢を悉く弾いた。
更に直進する。
ランドリーへあと十間へと迫った、その間に立ち塞がるように、ワッツは飛竜を降下させた。
手にしていた槍を、横投げに投げる。
一直線に空を切る槍をヴォダの剣が弾く。
ワッツは地面に降り立ち、自らの剣を引き抜きざま、振り下ろされたヴォダの剣と撃ち合った。
激しい金属音――直後、ワッツの身体が弾かれる。
「うぉッ」
数間後方の草地に叩きつけられる寸前、受け身を取ってワッツは数度転がり、素早く立ち上がって体勢を立て直した。首を振り、息を吐いて軋む身体を整える。
ヴォダの足元に竜騎兵が放った光弾の雨が降り注ぐ。
ヴォダは足を止め、ワッツ、ランドリーの三者が鶴翼陣の懐で互いに睨み合った。
「ワッツが容易く弾かれるとはな」
ランドリーは騎馬を降り、自らの剣を抜いた。正面のヴォダを見据える。
二対一。
これ以上人数が加わっても互いの動きを妨げるだけ、だが、ヴォダの剣技と威力はランドリーとワッツの二人を上回る。
「剣速が類まれに速い」
左手を上げ、自軍の動きを制するように開く。
鶴翼陣の兵達は矢を番えたものの引き絞らず、腕を下ろした。
蹲ったフォルカロルの横でバスルが深々と息を吐く。
『ヴォダ将軍の剣速は西海一、閣下、これで安心――』
バスルの声は半ばで途切れた。
フォルカロルの矛がバスルの身体を真っ二つに割っている。
更に周りにいた三人の兵の身体を。
血が吹き上がる。
フォルカロルは矛を回転させ、足元にできた血溜まりを突いた。
『フォルカロル、貴様――!』
フォルカロルの動きと、その目的にまず気付いたのは他ならぬヴォダだ。ヴォダが怒声を発する。
血溜まりの中に、フォルカロルの姿は消えた。
全てを置き去りにし、フォルカロルは逃げた。
部下の血を使い、辛うじて移動する。
苛立ちと羞恥と怒りが全身を爪の先から心臓の奥まで駆け巡っているようだ。
『ヴォダめ、ヴォダめ、ヴォダめ――! この私に恥をかかせおって!』
フォルカロルのこれまでの生の中で、これほどの恥は無い。
『奴が遅いせいで我が兵が全て失われたのだ! いや、奴め、わざとに違いない!』
フォルカロルを陥れるため、水が失われるまで見ていたのだ。
『それを恩着せがましく――』
腹が立つ。ぐらぐらと煮えたち、抑えようがなかった。
手にした矛を折れんばかりに掴む。
『おのれ――』
苛立ちのまま、辺りを見回す。
青い光がフォルカロルの身体を包み揺れている。
その光が、漸くフォルカロルの煮え立つ怒りを僅かばかり宥めた。
海だ。海中――西海の。
目的地も定めず跳んだが、フォルカロルは西海に戻っていた。
『――』
ゆっくり、息を吐く。
怒りに乱れていた髪を撫で付け整えた。
怒りよりも羞恥よりも膨らむ安堵――それを覆って更に膨れ上がる、自信。
『軍を立て直す。兵より使隷を中心に組み、次こそは――』
『戻ったのかね』
声が忍び起こる。
全身を粘つく手で掴まれたように震え、フォルカロルは直立した。
『――』
声も出ず、肩を揺らして大きく喘ぐ。視線を、視線だけを下に向けた。
足元、深い海中から、黒い影が迫り上がってくる。
『――ナ……ジャ、ル――』
悍ましさと、恐怖に、身体が押さえようもなく震え、だが指一本動かせなかった。
黒い影は螺旋状に、ごくゆっくりと、フォルカロルの周囲を上ってくる。
やがてフォルカロルの見開いた両眼の正面に、赤黒い、海溝の割れ目のような喉が止まった。
『ひっ』
喉、牙――ゆるりと動き、赤みがかった銀の双眸がフォルカロルを正面から捉える。
ナジャルは再び囁いた。
『戻ったのかね、フォルカロル』
『……も、戻った――』
喉が息苦しい。
声を押し出すのがやっとだった。
『戦況は。戻ったということは、守備よく運んだのかね。ならばアレウス軍は壊滅であろう。ファルシオンの首はどうした』
『い、いや……違う……いや、だが、まだ負けてはいない、これから――』
口を閉ざせば息が絶えてしまうのではと思えた。息が絶えないよう、言葉を何でもいい、押し出す。
『もう一度兵を、整えて、もう一度向かう。我が兵は、アレウス国の奸計に合い失ったが、まだ、まだ戦う、戦える――兵を補充し、次こそは必ず勝利を、得て』
ナジャルの銀の目が、巨大な顎と、その面が、フォルカロルの周りをぐるりと一回りする。
もう一重。
フォルカロルは動けず、視線だけでその動きを追った。
『必ず、次は、勝つと――』
銀の双眸がフォルカロルの左真横で止まる。
恐怖に喉が鳴った。
『待ち飽きた』
舌なめずりに近い響きが耳から流れ込み、フォルカロルはがたがたと震え始めた。
ナジャルの考えを、変えさせなくては。
どうにかして。
どうにかして。
どうにかして。
『まだ戦いたいのかね』
『た――戦いたい! 私は、最後の一人になっても、私は――』
どうにかして。
どうにかして。
『よろしい』
どう――
死を、悟った。
『許し――』
ナジャルの大顎が、フォルカロルを一息に呑み込んだ。
悲鳴は一瞬も流れず、大顎が閉ざされる。
『それでは我が死者に、そなたを加えてやろう』
身を揺する。
海水が、塊のように揺れる。
ナジャルは銀色の双眸を、上方、光が揺らぐ海面へ向けた。
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