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王の剣士 七

<第三部>

第八章『輝く青 2』

十六


 
 第二の堰の水門が降りる。
 重なり合う三枚の格子状の板が横へ広がり・・・、水量調節の開口部を閉ざす。
 堰き止められたシメノスの流れが水門にぶつかり渦巻く。西海兵達は堰を閉ざされた混乱と突然の激しい流れに隊列を大きく崩した。
 だが、激しく渦巻く水に翻弄されたのはほんの僅かのことで、すぐに兵達は足元を取り戻した。
 水に手足のように馴染んだ西海兵達にとっては本来、急流であっても彼等の動きを奪い去るものではない。
 ただ彼等の動きを取り戻させたのは、水への慣れではなかった。
『水が――』
 水そのものが、無い。
 堰の間に取り残された西海第一軍、第二隊中将ガルギルは自らが置かれた状況を把握し、愕然とした。
 河の水がほとんど失われている。
 深い場所では一間はあっただろう河は流れる水を失い、藻を纏わせた大小様々な石が転がる川底をすっかり覗かせていた。
『これでは、使隷も――兵の行動さえも妨げられる』
 フォルカロルは自らが撤退するために、二つの堰に堰き止められた水のほとんどを用いた――持ち去ったからだ。
『閣下――』
 援護を求めて南岸を振り仰いだが、陽光に遮られるまでもなく、そこにフォルカロルの部隊が既に無いことが見て取れた。
 フォルカロルはそのまま去ったのだと、疑いもなく受け止めることができた。
 自らの護衛となる三千程度の兵だけを連れ、取り残された五千近い兵達を顧みもせず。
 いや――取り残された兵は、囮だ。あるいは餌。
 おそらく第一の堰の向こうにはベンゼルカの第一隊が、そして第二の堰の下流にもまだフォルカロルの第一軍兵士が七千を超え残っているはずだ。一万五千近い兵がフォルカロルの逃走を完全にする為に置き去りにされた。
『ちゅ、中将、フォルカロル将軍は――我等は、どのように』
『――何という……』
 ガルギルは歯を軋らせ、手にしていた盾を足元に叩き付けた。
『フォルカロル、あの卑劣な輩め!』
 空気を打ち鳴らす音が岸壁の間に響く。見上げたガルギルの視界一杯に、アレウス国の竜騎兵が編隊を組み迫る姿が映った。
『――撤退……』
 どこへ。
 前後左右、全てが閉じられた。
 水もなく、自由に動くことすらままならない。
 竜騎兵が掲げる光陣が、光の矢――光弾を打ち出す。
 光弾は逃げ場を失った西海兵の兵列へ、雨の如く降り注いだ。





 シメノス北岸に現われたアレウス国正規軍の攻撃を受け、更に第一、及び第二の堰により先陣及び中央陣が三つに分断され、西海軍は混乱を極めた。
 ボードヴィル砦城と北岸から降り注ぐ大型弩砲アンブルストの鉄の矢と、竜騎兵による波状攻撃、光弾の雨。
 第二の堰より下流にあった第一軍の部隊七千もまた、閉ざされた堰の前で状況を把握する手段もなく次々と倒れて行く。
 シメノスの流れはほぼ堰の水門に閉ざされ、足の指先を濡らすほどの僅かな流れが残るだけだ。
『後退――後退だ! 後退しろ! ヴォダ軍と合流――』
『撤退! 全軍、撤退――!』
 声を張り上げる伝令使の言葉は次第に混乱を帯び、統制を失った情報が入り乱れる。
『撤退は不可能だ、堰を越えろ! 本隊が堰の中にいる、合流を!』
『南岸へ退避――』
『後方陣が進軍して来る、それまでここを死守する!』
 闇雲な指示が飛ぶ。
 フォルカロルの指揮が失われたことで兵達は何に従っていいのか分からず、仲間達の恐怖や混乱を拾い、更に膨らませた。
 分断の混乱が続く後方陣へと伝わっていく。
 ボードヴィルに迫っていた西海軍第一軍、取り残された一万五千の兵は、容赦ない攻撃になす術もなく崩れた。




 ボードヴィル砦城の城壁で、ファルシオンは変転していく戦いをじっと見つめた。
 戦場は生き物のようだ。
 僅かなきっかけで姿を変えていく。
 半刻前までは西海軍が優勢に見え、今はアレウス軍の優勢に。
 その流れを自らの手で生み出し操る為に必要な戦略、場を切り開き流れを呼び込む為の戦術。
「どちらが欠けても、だめ――」
 欠ければ自軍の兵達の命が失われる。
 満たせば。
 ファルシオンはぎゅっと唇を引き結んだ。
 満たせば、敵軍の兵の命を奪う。
 閉じたがる瞳を見張る。
 まだ終わってはいない。
「まだ」
 これから――
 今は、この戦いの終結に向けた手順の、ちょうど半ばに至ったところだ。ここを乗り越えなければ戦いそのものは終わらない。
 斜め前に立つレオアリスはまだほんの僅かも気を解いてはいない。
 そして上空のアスタロト。
 敷設した法陣円の発動を待っているアルジマール。
 この戦いを終わらせる鍵は目の前の西海軍ではなく、ナジャル。西海の穏健派、レイラジェが口にしたように、西海兵達を駆り立てる・・・・・ナジャルを倒して初めて終わる。
 次の、一手――
 ファルシオンは緊張を抑えた息を吐き、黄金の瞳でシメノス下流へ、その行き着く先を見透かした。







 波が船の腹を叩く。ゆらりと、揺り籠のように船体が揺れる。
『さてと――漸くか』
 メネゼスは司令官室の机に置いていた両足を木の床に下ろした。
 フィオリ・アル・レガージュの港を出てほぼ一日、二十隻のマリ海軍艦隊は南海の小さな島に停泊していた。
『全艦、出港準備に入りました』
 副官ダビドに頷き、メネゼスは椅子から立ち上がると扉へと向かった。机の上から隼の姿をした伝令使が消える。南方将軍ケストナーの伝令使だ。
 司令官室の扉を開け、狭い階段を登るとすぐ甲板に出る。落ちる陽射しと吹き抜ける風を受け、メネゼスは一つ伸びをした。既に甲板の上はマリ海軍兵達が無駄なく動きまわり、出航に備えている。
『全く、自分の身を餌にするとは、レガージュの覚悟も大したもんだ』
 本国からの帰国命令を受けたと見せかけ、マリ海軍をレガージュから一時離す。
 その目的はフィオリ・アル・レガージュを敢えて手薄にし、西海軍をレガージュからシメノスへ呼び込むことにあった。
『レガージュがアレウス国の防衛の要衝だからこそ、そこを自ら手放すなどと疑う余地を与えない。西海軍は隙を突いてレガージュを落としたつもりになって、シメノスへ全軍の九割を進めました』
 ダビドが傍に立つ。
『アレウス国の本隊がグレンデル平原に展開してりゃ、尚更西海は裏をかいてやったつもりになっただろう』
 つい先ほど訪れたケストナーの伝令使は、西海軍をシメノスに分断、封じたと告げた。
 次の手は、フィオリ・アル・レガージュの奪還、それにより西海軍の退路を塞ぐ。
『大掛かりだが、手堅い戦略だ』
 メネゼスは隻眼の面に、戦いへの期待と笑みを浮かべた。
 小さな島の港を埋めていた二十隻は、それぞれ左右に下ろした櫂を動かし沖へと進んで行く。
 船の航行を制限される岩礁域を抜け、浅海域へ至るとメネゼスは右腕を掲げた。
『全艦転進する! 右七十度回頭! 目的地、フィオリ・アル・レガージュ!』
 動き出した船の船体が、回頭により斜めに傾ぐ。
 メネゼスは帆柱の縄を掴み、回頭していく先の海原を見据え、甲板を踏んだ。
『風を掴め!』











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2020.11.29
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