十五
「割れた」
西海軍前衛は第一堰を越え、上流へ。
フォルカロル本隊周辺は、ティルファングへの攻撃に集中し、ボードヴィル足下へと。
下流に取り残されている幾つかの部隊。
西海軍の陣容が変わる。
タウゼンはシメノスの動きを見て取り、右手を上げた。
側に控えていた伝令使が空気に溶ける。
城壁の物見台の兵達が壁にかけていた喇叭をそれぞれ取り上げ口元に当てた。
数呼吸後、ボードヴィル砦城城壁から、幾つもの喇叭の高い音が空へと響き渡った。
喇叭の響きはシメノスの谷底へ落ち、反響する。ボードヴィルの建つ北岸、サランセラム丘陵へと流れる。
更に数呼吸後――
ボードヴィルの喇叭に呼応するように、シメノス北岸から同じ喇叭の音が起こった。
北岸に身を起こし、ずらりと立ち並んだのは正規軍の兵達だ。
ボードヴィル砦城を挟み、上流へ二百間(約600m)、そして下流へは、視線が追える限り――
十一月二十三日、シメノスでの早朝の戦闘開始より遅れること一刻と少し。
昨日正午の軍議においてタウゼンより反転の指示を受けた西方軍八千、及び、夜間から早朝、グレンデル平原本陣から転位陣、或いは飛竜を用いて転進した東方軍合わせて二万が陣を敷き、大型弩砲を定間隔に並べていた。既に装填された大型弩砲の鉄の矢は引き絞られ、シメノスの西海軍へと向けられている。
居並ぶ兵達はボードヴィル砦城へ――そこにいる王太子ファルシオンへ、短く一度敬礼を捧げた。
タウゼンが再度、右手を空を示すように上げる。
シメノスに束の間、静寂が満ちた。
その手が、下りる。
西方軍第五大隊大将ゲイツ、そして東方軍第七大隊大将シスファン等の手が同様に下される。
ティルファング、レーヴァレインはそれぞれ足場を蹴り、高く跳んだ。滑空した柘榴の飛竜が二人の身体を背に掬い、空へと駆ける。
大型弩砲の歯車が軋り、発条が一斉に、鉄の矢を弾き出した。同時にボードヴィル砦城城壁からも大型弩砲の矢が放たれる。
降り注ぐ鉄の矢を受け、西海兵が次々に倒れる。
フォルカロルは想定外の流れに束の間思考を白く途切らせ、だが矛を回転させ河面を叩くと、頭上前面に使隷の壁を張り巡らせた。
使隷の壁が鉄の矢を呑み込み、絡め取る。
『伏兵――いつから』
岸壁の上には注意を向けていなかった。ボードヴィル砦城、西海軍分断を狙った堰、そして剣士――完全に意識はそこへ集中していた。
苛立つ間にも、大型弩砲の第二波が兵達を薙ぎ倒していく。
フォロカロルは頭上の使隷の壁へ矛を叩き付け、波紋を打ち出した。
北岸の一部を崩す寸前、上空から迸った炎が波紋を打ち消す。
奥歯を軋らせ、フォルカロルは岸壁の向こうの空に悠然と浮かぶ飛竜を睨んだ。
『――ッ』
一瞬にして、不利な状況に置かれたと悟る。
岸壁上に広域に兵を展開され、長く伸びた兵列に面で攻撃を喰らえば、西海軍は逃げ場のないシメノスの中で数を減らしていく一方だ。
フォルカロルは撃ち抜かれていく使隷の壁を補充しつつ、左右へ視線を巡らせた。
「副将軍閣下がボードヴィルへの反転を指示された時は、余りに無茶な戦術に思えたが」
シスファンはシメノスの西海軍を見下ろし、やや苦笑めいて続けた。
「無茶は無茶だが、その価値は高かった」
「昨日の軍議後すぐ転進した西方軍はともかく、我々東方はまあかなりきつい行程でしたからねぇ。今回の戦略、王都の十四侯の場で決まったようですが、立案したお方のお顔を間近で拝みたいですな」
副将イェンセンが整えたばかりの髭を右手で撫でる。
「グレンデルとシメノス、双方組み入れた上でぎりぎり不可能とは言えない戦略とか、どういう神経ですかねぇ。とは言え我々より北方と南方が更にキツイでしょうが」
「そこは我等ミラー閣下の要領の良さだな。閣下に感謝しよう」
笑いつつ、シスファンは傍らの伝令兵を手招いた。
大型弩砲の矢、そして法術士団の光弾を受け、西海兵達が次々と倒れていく。
西方軍第五大隊大将ゲイツは眼下のシメノスを睨み据え、抑えていた息を吐き出した。
「これで借り一つ返したか――」
この状況を作り上げる為であったのならば無茶と思える反転も、特にゲイツの第五大隊にとっては一切苦ではない。
それでも、七月に失ったヴァン・グレッグやウィンスター、グイード、ホフマン、そして兵達の借りには到底足りない。
傷の刻まれた顔をシメノスへ向け、そして対岸、シメノス南岸へその面を上げる。
「まだこの後だ。西海軍を分断し、予定通り追い込む。第七のワッツ等が待っている、いつでも動けるよう隊を整えろ」
フォルカロルは何度も矛で河面を突き、自らの頭上の『壁』の層を重ねた。
だが壁による防御だけでは、このまま削られて行くのを待つ他ない。
シメノス北岸をアレウス軍が埋め尽くし、上流への回避も、下流への撤退も困難だった。
退路は南岸、聳り立つおよそ十間(約30m)前後の岸壁のみ。
完全に追い詰められた状況だ。
(ここまで早く、グレンデル平原から転進するとは)
転進を想定してさえいれば、初めからヴォダの軍をまずぶつけ、アレウス側の消耗を待った。後方から様子を見る時間があれば、伏兵の存在に気付いていたはずだ。
それから総大将であるフォルカロルが最後の仕上げをすれば、フォルカロルの勝利は確実なものだったのだ。戦略立案時にそうした提言があって然るべきだったが、それが無かったことに苛立ちを覚える。
(我が軍には碌な参謀がおらん。この私が何もかも、全て考えなければならないのか。そもそも昨晩の内に強襲をかけていれば今ごろボードヴィルを陥していたものを、あのベンゼルカめがくだらん進言をしおったせいでこの様だ。みすみす奴等に兵を整える猶予を与えてしまった)
怒りが沸沸と沸き起こる。
フォルカロル以外、誰も彼も西海の勝利を真剣には考えていない。忌々しい。
睨んだ上流、ベンゼルカの先陣は堰破壊の命令を無視して転進、更に上流へ進軍した挙句、今は第一堰の向こうに兵列を長く伸ばしている。
堰が閉じていなくとも分断されたようなものだ。
『あの能無しめ、奴の愚策が我が優位を崩したのだ!』
腹の底から昇る怒りが収まらない。
フォルカロルが討たれれば、西海軍は瓦解するのだ。
そんなことはあってはならない。
それをどこまで理解しているのか――
(まるで理解していない!)
憤りを噛み締め、フォルカロルは矛を真っ直ぐ高く掲げた。
南岸――高さはあるとは言え、越えられないほどではない。
『南岸を越え、下流へ抜けて後方陣と合流する』
その後ヴォダの後方陣を追っ手への攻撃に当てつつ、フォルカロルは一旦レガージュへ戻る。
そして再び兵力を立て直し、進軍すればいい。
『忌々しい――!』
フォルカロルは吐き捨てた。
数による利は、まだそれでも西海軍にあった。
ティルファングやレーヴァレインの個の力を用いても、西海軍が防御に徹して陣の密度を維持し、押し上げ、そしてヴォダの率いる後続陣を呼び込むことができれば、総勢六万の軍に抗するアレウス国側の打つ手は限られる。
だがフォルカロルの恐れることは自らの敗北――それ以上に、自らの死だった。
『守りを固めろ! 第三部隊から第四部隊は我が前面、第五、六及び第七、八部隊は左右、九部隊は我が後方を守れ!』
とは言え全ての部隊に同じ行動をさせれば、アレウスの攻撃もしつこく付いてくる。
『第二及び第十部隊、この場で反撃を継続せよ! 最後の一兵まで戦って盾となれ!』
シメノスに広がっていたフォルカロル軍、一万四千がフォルカロルを中心に、緩やかに収縮するように寄り集まる。
密集していく西海軍が次第に流れを堰き止め、嵩を増す。
フォルカロルは矛を二回転させ、気合いと共に石突きでシメノスの河面を突いた。
今壁を作っている使隷に加え、更に二千体がシメノスの流れから身を起こした。合計七千、フォルカロルが生み出せる使隷の限界を超え、波を作り上げる。
「タウゼン閣下」
ハイマンスの呼び掛けに、タウゼンは頷いた。
片手を上げ、前へ出す。
「堰を閉じよ」
「堰を閉ざせ!」
第一堰を守る正規軍西方第七大隊中将エッセンは、ボードヴィル砦城に合図の光が瞬くのを確認し、腹の底から声を張り上げた。
堰の両岸で三十名もの兵達が五つの滑車を回す。
橋の中に格納されている水門が、ゆっくりと、身を滑らせ降りて行く。
高さ一間半、幅のある鉄格子を組み合わせた水門は三枚が引き違いに重なり、三枚それぞれを横に滑らせることで流す水量を調整する仕組みだ。重ねたままでは堰き止める能力は半分ほどだが、最大に広げればほぼ一枚の板のようにシメノスの流れを堰き止めることができた。
『堰が!』
降り注ぐ鉄の矢を辛うじて凌ぎながら、兵達の声にベンゼルカは振り返り、第一の堰が閉ざされようとしているのを見た。
中央、左右の合わせて五枚の水門が降りて行く。
その向こう、フォルカロル本隊の動きは堰の橋脚が邪魔し、明瞭には見て取れない。
『閣下! ――全隊、後退――ッ!』
ベンゼルカの判断は一歩遅く、部隊が動き出す前に第一の堰は閉ざされた。
フォルカロルは第一の堰が閉じて行くのに気付き、鋭く舌を鳴らした。下流を振り返れば第二の堰も同じく閉ざされようとしている。
『急げ! 守りを固めよ! 移動する!』
『お待ちください、後衛が遅れております!』
側近の将校が狼狽えた声を出す。
まだ後方にいた第七から第十部隊は動き出したばかりだ。
その姿が第二堰の橋脚と水門に遮られる。
堰き止められたシメノスの流れが水門にぶつかり渦巻いた。
『愚鈍な――!』
『いかが致しますか』
『もう良い』
フォルカロルは南岸の岸壁に沿い、使隷の波を高く立ち上がらせた。堰き止められたことでフォルカロルの操る水は返って量を増した。
フォルカロルを囲む親衛隊兵達三千を乗せ、打ちかかる波のように一息に高く持ち上げる。
まだ南岸を越えるには至らないが――フォルカロルは矛で使隷の波を跳ね上げ、飛散した飛沫を操った。
飛沫から使隷を生み出し一箇所にまとめ、そこへ移る。
次々に、波の上の岩礁を渡り歩くように、使隷の塊を渡る。
四度目に水を渡り、フォルカロルはシメノスの谷底から逃れ、南岸の岸壁の上に身を置いていた。
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