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王の剣士 七

<第三部>

第七章『輝く青』


 
 再び瞳を開けると、室内はもう暗く沈んでいた。
 時計の針が刻む音が規則正しく聞こえるが、寝台の上からだと時計は見えない。
 ただ、ここにいる間時を意識したのは初めてだと、どことなく新鮮な思いを抱いた。身を起こすと少し、身体が軽くなっているように感じられ、それが時間に意識を向ける余裕に繋がっているのかもしれない。
「今は……」
 試しに出してみた声はやや掠れているが、昼間よりも――今日の昼間だ、カラヴィアスと話をしたのは。おそらく。――楽に発声できる。
 レオアリスが目を覚ますのを待っていたかのように、軽い音で三回、扉が鳴った。続いて扉が開く音に首を巡らせる。
 足音でロットバルトだと分かる。レオアリスは身を起こし、寝台に置かれた枕からやや硬めのものを引き寄せ、それに寄り掛かった。
「何度も世話になって、悪いな」
「お目覚めでしたか。悪いとは、何がです」
 ロットバルトはそう返し、寝台の足元に立った。
「俺がここで寝てたら、お前ただでさえ忙しくて館に帰ってないのに、王城でさえ寝てられないんじゃないか」
 今、楽な体勢を探して落ち着いた人間の言う言葉では無いかもしないが。
「慣れているので問題はありませんよ」
 そう返ったことに呆れる。
「慣れるって――寝台で寝ないってことにか。慣れるのは駄目だろう」
 もう一人、扉口から重い足音が続き、ロットバルトの答えの代わりに太い声が返る。
「全くだ。戦場じゃ草の上でも石の上でも寝るけどな、せっかく王城のこんだけ豪華な部屋にいて、床に寝るとかねぇわ」
「誰が床に寝ていると?」
 レオアリスは寝台の上で身を乗り出した。
「ワッツ!」
 ロットバルトの横に立ったのはワッツだ。
「王都に帰ってたのか」
「レオアリス、久しぶりだな、元気にやってたか――」
 ワッツは口を閉じ、「じゃねぇな」と唇を歪めた。
 寝台横の横に置かれたままになっていた椅子に腰掛ける。本日二人目の使用者に対し、優美な椅子はやや迷惑そうに軋む音を立てた。
「体調はどうだ。アルケサスでぶっ倒れたまま王都に運ばれたっつうから心配してたんだぜ」
「もう問題無い――」
 ロットバルトの視線を受け、「まあ、一応安静にしてろとは言われてるけど、大丈夫だ」と言い直す。
「大丈夫ねぇ。全く信用ならねぇ言葉だな。幾ら剣士だって、そうそう頻繁に大怪我するもんじゃねぇだろう」
「ワッツも頻繁に怪我してるんだろ。体調は?」
「すこぶる問題ねェ」
 ぐるりと厚い肩を回して見せる。正規軍の軍服がぎしぎしと窮屈そうな音を出すのがワッツらしく、レオアリスは嬉しくなった。
 半年前と変わらず――いや、筋肉が増したように見えるが。
「王都でまた会えて良かった――」
 しかも今は軍服だ。良かった。
 春の祝祭の出し物の記憶はアレだった。
「俺もだぜ」
「シアンとはもう会ったのか?」
 ワッツの妻で、かつては正規軍法術士団少将だった法術士だ。ワッツが「まあな」と返す。ぶっきらぼうな口振りだが響きは嬉しそうだ。
「西方軍に復帰した時点で無事は報せてたが、やっぱ顔を直接見るのはほっとするな」
「良かった」
 もう一度、そう息を吐く。
 ワッツは分厚い掌で首の後ろを撫でた。
「後はヴィルトールの奴を、妻子に会わせてやりてぇって思ってる」
 レオアリスはワッツを、それから寝台の柱に肩を預けているロットバルトを見た。
「――そうだ」
 ヴィルトールに王都に戻ってもらいたい。
 今、彼のいる場所は。
「ヴィルトールは、戻れる状態なのか?」
 今度はワッツが視線をロットバルトへ動かす。ロットバルトは頷いた。
「戻れる。そんで、戻る時奴に一枚、手札を持たせたい。西海との和平交渉を始める為のものだ」
 ワッツは言葉を飾らず、そう言った。ワッツが何のことを指して言っているのか、判る。そもそもロットバルトがワッツを伴ったことで、何を話題にする為かは判っていた。
 ワッツはレオアリスの表情をじっと見ている。レオアリスは視線をやや逸らせたが、
「西海との和平に、反対するつもりはない」
 そう言い、二人の顔を見て「本心だ」と付け加える。
「国の最善は解ってる」
 ワッツはそれでも束の間レオアリスを見据え、それから掌で首をまたさする。そのまま剃り上げた頭へ滑らせる。指先が剃り具合を確かめるように頭部を擦った。
「俺も、ヴィルトールも、イリヤを助けてぇ。ボードヴィルにいる間、あの坊主を見ててそう思った。イリヤの命を保証する唯一が、西海との和平交渉をイリヤの名で持ち込むことだ」
「イリヤを助けたいのは俺も同じだ」
 今度はワッツは、ニヤリと笑った。
「あの坊主だって嫁さんにも会わせてやりてぇしなぁ。知ってるか? 子供が生まれたって」
「聞いた。ファルシオン殿下もお喜びになる」
「そのとおりだ」
 ワッツが振り返る。
 ロットバルトは肩を預けていた寝台の柱から離れ、座っているワッツの横に立つとレオアリスを見た。
「明日、ボードヴィルの裁判が大法廷で開かれます」
 レオアリスは驚いて顔を上げ、それから、自分の驚きに対して苦笑した。今更だと、そう理解している。
 イリヤが関わっている以上、ボードヴィルに関する国の判断は余計な思考、視点を挟む余地がないよう、速やかに行われると。
「一年前と同じ方向性か」
「貴方も考えている通り」
 一年前、やはりミオスティリヤの存在を掲げようとした時と同じようにだ。
「今回も、イリヤ・ハインツはイリヤ・ハインツのまま法廷に立つことになります」







 イリヤは剥き出しの石壁を見回した。
「またここに戻ってくるなんて、懐かしいって言うべきなのかな」
 この赤の塔、王都の一級監獄塔へ。
 前に入った部屋と同じかはわからないが、石壁の無機質さは変わっていない。裁判を待つ身であることも。
 一つだけ大きく異なるのは、あの時と、自分の心は全く違うということだ。
 父王をただ憎もうとしていた自分は、振り返ってみれば悲しい存在だったと思う。
 誰かから見てではなく、自分自身にとって。
 “もし”
 それはとてもむなしい言葉だが、それでももし、あの時自分が違う意志を持ち、違う行動をしていたならば、今この状況の中でもっとファルシオンを助けてやれたのではないかと、そう思った。
 そうしてやりたい。
 幼い弟が、国王代理という重過ぎる責を背負っているのならば、少しでも軽くしてやれることを、何か。
(ああ、でも、そうだ)
 イリヤが西海と繋がりを持ったのは、一年前のあの時ミオスティリヤとして父王の前に立とうとしたからだ。
 自らの出生について知れば、イリヤはやはりあれ以外の道を取らなかったと思う。
 自らの出生を知らなければイリヤはきっと今も、生まれ育った小さな街で、母を看取り、ラナエと結ばれる為にはどうしたらいいかとか、そんな年相応のことを悩んで生きていた。
 駆け落ちとかしていたかもしれない、と考え、それはつい半年前の状況とほとんど変わらないと苦笑する。
 いずれにしても後者であれば、イリヤは今ここにいて、戦乱を終わらせる為に、そして幼い弟を助ける為に自分は何をすればいいのかなどと、――自分にできることがほんの僅かでもあるなどと、思い悩む機会など無かっただろう。
 だからこれでいい。
(明日か――)
 いきなり死罪という結果だけは避けたい。
 自分なりに足掻きたい。
 ファルシオンを助ける方向に。
(ヴィルトール中将は、どうしているだろう)
 ボードヴィルでワッツに会いほっとした。
 もう一人、自分を助ける為に自らの命を掛けてくれたヴィルトールにもう一度会って――いや、会えなくてもいい、彼の家族のもとに無事戻ってくれたなら、それでいい。
 そのことは西海との和平の先行きとはまた別に、どうしても知りたかった。
(明日か)
 もう一度呟く。
 不思議と不安は無い。
 イリヤは硬い寝台に横になり、それでもボードヴィルにいた頃の不相応に豪奢な寝台よりはずっと気が安らぐと、そんなことを頭の片隅で考えながら、鉄格子を嵌め込んだ細い窓から、切り取られた星空を見上げた。







 小さな、親指ほどの小瓶が二つ、寝台脇の小振の卓に置かれている。
 瓶の中は黄金色のとろりとした液体で満たされていた。
 カラヴィアスは概ね五日で剣が戻ると言っていたようだ。


『貴方は今は、一つのことの為だけに動けばいい』
 ロットバルトは隣室へ戻る前に、そう告げた。
『幼いファルシオン殿下を支える為に』


「殿下――」
 まだ父の膝の上で甘えていい歳でしかないにも関わらず、ファルシオンは前を向こうと努力している。
 そうせざるを得ない状況に否応無しに置かれ、懸命にそこに立っている。
(――そうだ、今は)
 誰よりも苦しい立場にいるファルシオンの為にも、西海に勝ち、ナジャルを倒し、戦乱を終わらせなければならない。
 小瓶を一つ手に取り、差し込まれていた硝子の栓を回して引き抜く。細い瓶の首から除く液体は、予想に反して涼やかな香りがした。
 黄金の液体を喉の奥に流し込む。
 微かな苦みが舌の上に広がる。
 一呼吸後――喉の奥に流れ込んで行った液体を逆に辿るように、熱とも痛みとも判然としない感覚が競り上がった。







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2020.7.12
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