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王の剣士 七

<第三部>

第七章『輝く青』

二十四

 
 温室から戻ると、既にエアリディアルが窓際の椅子に腰を下ろし、ファルシオンを待っていた。
「姉上――!」
 ファルシオンが駆け寄り、立ち上がったエアリディアルに抱きつく。
 エアリディアルは両手を広げて小さな弟を受け止め、柔らかく抱きしめた。
「お会いできて、嬉しいです! 母上は?」
「お母様は時間通りにいらっしゃいます。わたくしはつい少し早く来てしまったの」
「嬉しいです」
 それから、温室の入り口で一度膝をついたレオアリスへ、上気した顔を向けた。
「今日は、レオアリスが来てくれていたんだ。お話をしていたの」
 再び首にかけた青い石を、ファルシオンは大切そうに両手に包み込んだ。
「それは、嬉しいことですね、殿下」
 その石に気付いて微笑み、エアリディアルはレオアリスへ向き合うとふわりと銀の髪を揺らし、一度上体を伏せた。
「レオアリス様。先日のこと――母とわたくしを助けてくださったことを、改めて御礼申し上げます」
 レオアリスもまた、膝をついたまま身を伏せる。
「そのようなことを仰られるには及びません。半年前に果たせなかった、近衛師団としての当然の役目を果たしたのだとお考えください」
「いいえ。どのような立場でも、助けていただいて当然とは思いません」
 エアリディアルはそう言い、そして束の間、温室の入口のレオアリスへ藤色の瞳を注いだ。
 もう陽はすっかり傾き、雨曇りの薄闇は夜の闇と混ざり合っている。
「殿下。少し、彼と二人でお話をさせていただいてもよろしいですか」
「レオアリスと? はい。では、私はお隣でお待ちしてます」
 ファルシオンは嬉しそうに瞳を輝かせた。
 ハンプトンに誘われてファルシオンが隣室へ入ると、エアリディアルは改めてレオアリスに向かい合った。
「座ってお話を致しませんか」
「いえ――恐れながら、そのような立場にはありません」
 答えは予め判っていて、エアリディアルは唇を綻ばせた。
「ではせめて、お立ちください」
 レオアリスは戸惑いがちに、それでも身を起こし、立ち上がった。
 雨の音が耳に届く。
「――あの時、誰もが自分に課された役割を十分に果たせたとは言えません。貴方だけではなく、わたくしも――いいえ、わたくしこそが、果たせなかった――」
 半年前のことだ。
「王女殿下に、あの件に関しての責任など」
「いいえ、あるのです」
 レオアリスはエアリディアルの瞳を見た。
「貴方がわたくしには責任はないと仰ることは、わたくしを想っての言葉であると同時に、それはわたくしから責任という一つの意味を奪うことでもあります」
 レオアリスが瞳を僅かに開く。
「――そのようなつもりでは――失言を申し上げました」
「いいえ」
 再びエアリディアルは首を振った。
「責めるつもりではないのです。ただ、あの時――今も――、誰もがこの国に対して責任を負っています。自分が立っているその立場としての責任を。自分の想いの中での責任を。ファルシオンはファルシオンとしての。わたくしはわたくしの。アスタロト様も、兵士達も、戦場で戦うわけではない文官の方々も。そして貴方も」
 月の光を思わせるような微笑みを、その頬に浮かべる。
「わたくしたちは、一人ひとりが負える分を、それぞれが背負えば良いのではないでしょうか」
 その言葉をどう受け取ったのか、ただ頭を伏せたレオアリスをエアリディアルは柔らかな微笑みのまま見つめた。
 一度瞳を閉じ、再び上げる。
「もう一つ、貴方にお願いしたいのです。聞いていただけますか。これは貴方自身にしかできないことなのです」
「――私に叶うことであれば、なんなりと」
「叶います」
 柔らかな響きのまま、きっぱりと言い切る。
 自分に向けられた双眸へ、エアリディアルは微笑んだ。
「弟の――ファルシオンのもとに、戻ってきてください」




 雨が窓を流れて行く。
 次第に雨脚を増し、窓を止めどなく伝う滴の筋が室内の灯りを纏って落ちる。
 エアリディアルはその向こうに、もう一つ別の光を探した。
 青白く澄み、けれど不安定な光。
 以前のレオアリスは、丸く澄んだ光に見えた。特に王の前で、その光は青白く輝くようだった。
 それが今は半面が欠けたように見える。
 欠けた月のようだ。
(けれど、ファルシオンのそばに立っている時は)
 それが以前のように少し、丸く――以前よりも柔らかく、輝くように見えた。






 滴が筋を引く窓へ、ロットバルトは視線を向けた。
「敷設の状況は如何ですか」
 王城内のヴェルナーの執務室だ。
 静かに雨の音が滲み入る室内は壁と天井の蝋燭の明かりに揺れ、それを映した窓には今は室内ではなく、違う光景が揺れている。
 その中にいるのはアルジマールだ。
 雨の音に混じり、遠く、風が吹き抜ける音が聞こえている。
『君が呼び出したから、ひとまず中断したよ。どうかしたのかな』
「外部から中断しなければ、貴方は平気で数日眠らずに作業に没頭するでしょう。いざ開戦した時に充分に動けないようでは困る」
『それ、僕の身体そんなに気遣ってないよね?』
 アルジマールはいつも通り目深に被った被きの下からじろりと視線を送って寄越した。
「気遣っていると思いますが」
『そうかなぁ。大将殿と同じくらい気遣えとは言わないけどさ。まあいいや。君の方はどう? 順調?』
「順調ですよ。最終局面での戦術の一つとして、選択肢に加えることはできるでしょう」
『それも僕がやるんだよね』
「私にはそれを可能にする手段はありませんので」とロットバルトはさらりと言い、窓の中でアルジマールはうう、と唸った。
『重労働だ……いや、過重労働だ。僕の歳費は絶対に上げてもらうからね。ヴェルナーからの投資でもいいけど』
「さすがに、お約束します」
『さすがにってなんだ……』
 それからアルジマールは窓の中で首を傾げた。
『大将殿の剣は?』
 まだ不明だ、と答えると頷く。
『わかった。それも考慮に入れておくよ』
 ゆらりと窓の映像が揺れ、ついで室内の蝋燭の灯りに浮かぶ光景に変わる。
 ロットバルトは窓から視線を外し、それを一度、部屋の扉へと置いた。










 夜半まで続いた雨はすっかり上がり、高い空は雲を全て拭い去ったように青く輝いている。
 十一月二十一日、八刻。
 王都西街門の、三階部分に張り出した小さな露台に、ファルシオンは立った。
 西方へ出兵する正規軍各方面の第一、第二大隊の兵達と、そしてファルシオンの護衛の任につく近衛師団隊士。法術院の術士。
 王都守護に残る正規軍と近衛師団、内政官房、財務院、地政院の文官達。
 そして多くの住民達が、街門前の広い平原に集まり並んでいた。
 彼等の向こうに、西へと伸びる基幹街道がどこまでも続き、その先に横たわる森の緑の線に消えている。
 王都外周にある軍の演習場の内、最も広い四つの演習場には西への転位陣が敷かれ、兵士達を運ぶ術式の完成を待っていた。


 ファルシオンは一度、背後に高く連なって行く王都の街と、そしてその頂上にある王城を振り返った。
 ほとんど全ての窓が開け放たれ、そこにも、そして通りにも多くの住民達の姿がある。
 王城の窓には、きっと母と姉の姿があるのだろう。
「――」
 再び正面へ、西へ、瞳を戻す。
 良く見知った顔、初めて見る兵士達の顔。
 出兵する兵士達の列の、最前列に立つレオアリスの姿を見つめる。
 風が吹き、無数に立てられた軍旗と、そして王家の旗と、ファルシオンの王太子旗を空に靡かせた。
 ファルシオンは一歩前へ進み出て、胸の奥から、声を張った。
「今日――この場に集まってくれたみなに、礼を言う。そして、これから共に西方へと向かうもの達へ――」
 風に乗り、ファルシオンの幼い声は凛として、居並ぶ人々の上に届いた。
「私たちは、西の地で、西海との最後の戦いを行う。きっと激しい戦いになるだろう。傷つくこともある」
 今まで、ファルシオンがずっと耳にし、受け止めてきたことは全て自らの中にあり、用意された台本がなくてもファルシオンの中から、自然と湧き上がった。
「それでも、私たちはこの戦いを最後にする。そう、約束する」
 黄金の瞳が陽光を受け、輝く。
「必ず、ここに帰ってきて――そうしたら、みんなで、また安心して暮らしていけるようにしよう」




 朝の光が銀色の髪を柔らかく照らしていて、見上げる者達はその眩しさに瞳を細め、彼等の王子の姿を見つめた。
 この幼い王子が生まれて、まだたったの五年しか経っていない。
 五年前、産着うぶぎに包まれた小さな姿を、同じこの王都で、喜びとともに見上げた者も数多い。
 王の腕に抱き上げられた生まれたばかりの王子は、その存在そのものが未来への鮮やかな希望だった。
 王の存在があり、そして世継ぎである王子がいれば、この国はますます安泰で、栄えていくだろうと。
 わずか五年後に、彼等の前に王の姿はなく、小さかった王子が戦いの総大将として立つなどと、誰が想像しただろうか。
 成長の喜びと、痛ましさ、その両方がファルシオンを見上げる者達の中にあった。





 レオアリスは露台の上のファルシオンへ、その瞳を向け、黄金の瞳と風が撫でる銀の髪を見つめた。
 静かに息を吐き、自分の内側を意識する。
 そこに、ぽっかりと空いた空洞。
 埋まっていかないそれを、埋めたいと願う。



 ただ、自分でも気付かないままに、青く輝く滴はゆっくりと、その底へと一粒落ちる。










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2020.9.27
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