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王の剣士 七

<第三部>

第七章『輝く青』


 
 部屋に入ると、寝台の横にいた医師と思しき老齢の男が振り返り、この部屋の主人であるロットバルトと、そして二人の来客の姿を見て立ち上がり顔を伏せた。
 アスタロトは室内を見回した。
 王城の北西棟四階にある、ヴェルナー侯爵のために整えられた一角だ。アスタロトにも同じように部屋を一角用意されているが、何が何でも館に帰りたいアスタロトはほとんど使用していない。
 ただ、アスタロトのそれと空気がやや違うと感じられた。
 廊下からすぐの前室を含め、居間と私的な執務部屋、水場、寝室で主に構成されているのは同じだが、ヴェルナーの場合通り抜けてきたばかりの居間を初め、書棚が壁の七割近くを占めていて、全体的に書斎然としている。
 ただこの寝室は明るい日差しが窓から差し込み、重厚感のある木の床と青と銀の糸で織り上げられた複雑な色合いの敷布の上に、窓の格子の影をくっきりと落としている。
 広い部屋の奥に置かれた寝台は四隅の柱と天蓋があり、流れる濃紺の布が周囲との時間を遮っているようだった。
 室内を満たす柔らかな光に踏み込むと、傷を癒すのに適した場所だと、そう感じられる。地下の球体の部屋ではなく。
 本当ならばそこがおそらく最も傷を癒せるはずだが、ファルシオンはそれを躊躇った。もしかしたらまた長く眠ってしまうのではないかと。それは周囲の懸念でもあった。
 医師がロットバルトへ歩み寄り、ちょうど終えたばかりの診察の結果を報告している。
「外傷はもうまるで残っておりません。この分であればもう半日もすればお目覚めになるかと」
 医師はロットバルトが頷くのを確認し、それからアスタロトとそしてもう一人、医師が初めて見る背の高い女――カラヴィアスへ礼を向け、部屋を出て行った。
 眠っている、という言葉にアスタロトはほっと息を吐いた。同席したがったが控えたファルシオンへ、後で報告しようとそう思う。それから、やはり目の色を変えて同席したがりロットバルトに退けられたアルジマールにも。
 ただ、まだ眠っているのならばカラヴィアスに出直してもらうべきかどうか、口にする前にカラヴィアスは歩を進め、寝台の傍らに立った。
「半日か、それをここで待っているのもな――私のやり方をして良いかな?」
 アスタロトはロットバルトを見た。
「貴方の剣士としての御判断にお任せします」
 ロットバルトがそう答えると、カラヴィアスは頷き右手をレオアリスの喉元、ちょうど鎖骨の上あたりに置いた。
 軽く押したようにだけ見え――ほんの僅か、カラヴィアスの腕が赤いほのかな光を帯びた――ふた呼吸ほどの間を置き、レオアリスの胸がゆっくりと一度、呼吸を溜める。
 ごく自然な流れで、閉じていた目蓋が開いた。
「――レオアリス!」
 アスタロトは寝台に飛び付き、枕元に手をついた。かかった体重で寝台がやや沈んでしまい、慌てて手を離す。
 何度か瞬きを繰り返し、レオアリスは次第に焦点の定まった視線の先に、まずカラヴィアスを捉えた。
 跳ね起きる。
「――風竜――、近衛師団は……!」
 アスタロトが咄嗟に手を伸ばしかけ、止める。レオアリスは寝台の上で身体を起こし、ただ上体が定まらず肩を揺らした。
 その様子を見下ろし、カラヴィアスは伸ばしていた右手を戻すと両腕を組んだ。
「風竜は灰になり、そして昇華した――と言うべきかな。お前の部下達も今は王都だ。思い出せるか?」
 柔らかく耳朶に馴染む響きだ。僅かに、呼吸で揺れていたレオアリスの肩が、揺れを収める。
「王都――?」
 顔を上げ、レオアリスは室内へ巡らせた。カラヴィアスと、反対側の寝台横にいるアスタロトと、足元にやや離れて立っているロットバルトと。
 光が差し込む窓に一度顔を向け、眩しさにか瞳を細め、それを戻す。
「そうだ、風竜は――」
 空へと登っていく青い鱗が、窓の向こうに見えた気がした。
 それを目蓋の奥に押しやり、レオアリスは再びカラヴィアスへ瞳を向けた。
「貴方は……あの炎の竜を連れてきた」
「道案内、というものでもなかったが。改めて自己紹介でもしよう。私はカラヴィアスという。南の氏族、ルベル・カリマの長だ」
「ルベル・カリマ……以前会った二人の氏族ですよね。確か――いえ、まずは、助力に感謝を」
 寝台から降りようとしたレオアリスの肩を、カラヴィアスの手が押さえる。
 その仕草はさり気なく、他愛無かった。
「一歩間違えば全滅だったな」
 がらりと趣の異なる声。
「レオアリス!」
 アスタロトの声がしたと思った次の瞬間には、視界はカラヴィアスの顔と天井の白い格子を捉えていた。
 喉元に手が当てられ、肩と背中は寝台に半ば埋まっている。右腕一本――剣は彼女の右腕に顕れてもいない。
 まるで動けなかった。
 そして、動かない。
 カラヴィアスは右腕でただ軽く上から押していると見えるだけ、だが喉元に抜き身の鋭利な刃を突きつけられている感覚があった。
 カラヴィアスが口元にうっすらと笑みを刷く。
「将軍閣下、それから、侯爵。話をするだけだ」
 咄嗟に身構えたアスタロトと一歩踏み出しているロットバルトへ、カラヴィアスはレオアリスを押さえたまま笑みを向けた。隣室の扉が開き、控えていたレーヴァレインとティルファングが入ってきたことに苦笑する。
 その瞳を再び落とす。漆黒の瞳は双方、ほとんど同じ色だ。
「あの戦い、お前は自らの背負っていたものをきちんと理解していたのか」
 レオアリスは返す言葉を音にできず、唇を引き結んだ。
「――」
「命だ。あの場にあったのは千、百か。その状態でお前は死にかけ、あのままならば全て失われていただろう。風竜は制御を失ったまま空へ飛び立った。となると今頃、どこかの街ひとつ――ひょっとしたらこの王都が壊滅していたかもしれないな」
「長」
 レーヴァレインの静かな声にカラヴィアスは肩を竦め、腕を引いた。
 レオアリスは息を吐き、一度、何かを堪えるように眉を寄せると、今度はしっかりと起き上がった。カラヴィアスと向かい合う。
「俺の力が足りていないのは、理解しています」
「その通り。だがそれだけでは無いのだがね」
「それは」
「そうだ! 大体お前! 力が足りなかったとかじゃなくて、生き延びようとしなかったからだろ!」
 反対側からアスタロトが片手をついて身を乗り出し、もう一方の指をレオアリスへ突き付ける。
「アスタロト?」
 束の間呆気に取られたものの、突きつけられた指から顔を逸らしつつ、レオアリスは安堵まじりの笑みを浮かべた。
「お前、無事で良かった。ボードヴィルはどう」
「ボードヴィルはじゃない! ていうかボードヴィルは私とアルジマールと正規軍とできっちり片を付けた! 今問題にしてるのはお前のことだ。生き延びようとしないとか――、大馬鹿極まりない!」
「ティルファングとどうも、似ているな?」
 カラヴィアスがレーヴァレインへ首を傾げ、アスタロトとティルファングが「似てません!」「似てない!」と瞬時に否定する。カラヴィアスは瞳を細めた。
「とにかく、まずは帰ってきて良かったけど、お前には言いたいことが色々――」
 扉が叩かれ、ティルファング達と同様に隣室に控えていたタウゼンが入室する。
「失礼致します。ご歓談のところ恐縮ですが閣下。軍議のお時間です」
「歓談してるように見えた?」
 アスタロトはぷくりと頬を膨らませまだ言いたりなさそうだったが、それでも突き付けていた指先を素直に下ろした。
「レオアリス、命拾いしたな」
「命拾い? お前さっき生き延びろとか」
「もう私行くけどちゃんと休めよ! それから反省しろ。心の底から」
 そう言い置いて、くるりと身を翻す。それからつと、足を止めまた振り返った。
「レオアリス。まだ西海との戦いに向けた動きについては何も決まってない。今の戦力とか、西海の動向とか、いろいろ考えて決める。でもそんなに日数は空けないはずだ。そしたら、また出なくちゃいけない。今度は相手はナジャルだ――総力戦になる」
 それでも全ては、この十一月中にかたが付くだろうと――アスタロト自身の纏う空気もぐっと引き締まった。
 のも束の間、再び指を突き付ける。
「この機会にカラヴィアスさんに一から剣を教えてもらえ! 頼んどいたから! 判ったな! カラヴィアスさん、よろしくお願いします!」
 そう言い置いて、アスタロトは途中レーヴァレインに会釈するのも忘れず、「長に気安くものを頼むな、ふてぶてしい」と毒突くティルファングへ舌を出し、部屋からすたすたと出て行った。
「長、何だよあいつ。あんな無軌道な奴の頼み事なんて聞く必要ないし」
「賑やかでいいことじゃないか」
「賑やか? あれは」
「ティル。ここはアレウス国の王城で、ヴェルナー侯爵のお部屋だよ。御好意で我々も入れていただいている、君がまず礼儀正しくしなくちゃね?」
 レーヴァレインに諌められ、ティルファングは不承不承ながらも口を閉ざした。
「ティルファングとアスタロト公は気が合いそうだがな――さて、もう少し話をしてもよろしいか、ヴェルナー侯爵」
 ティルファングの抗議の視線を流し、ロットバルトへそう尋ねると、カラヴィアスは窓際にあった椅子を引き寄せ背もたれを前にして寝台の横に置き、背もたれに両腕を掛けてレオアリスと向かい合った。
 再び、黒い瞳が覗き込む。
「レオアリス。私が押さえつけた瞬間、お前は剣を出そうとしたはずだ。そのつもりで気を向けたからな」
 レオアリスは黙っている。
 たった今アスタロトが崩した緊迫は、もう最初のものに戻っていた。
 カラヴィアスの声は穏やかだが鋭く、切り込む。
「だが出さなかった。正確には出さなかったのではなく、出せなかったのだろう。剣を出すことすら苦痛が伴う、と言ったところが現状か」
「――今は、もう問題は」
「誤魔化してもいいことは無い。というより碌な結果を招かない」
 レオアリスは諦めて頷いた。
「少し。ですが、貴方には害意があったわけじゃなかった。出せなかったのではなく、出す必要がなかっただけです」
「意外と粘るな。意地を張ってもいい事はないぞ」
「そういう訳じゃ」
 言いかけ、抗弁を重ねているだけだと、レオアリスは息を吐いた。
 出す必要がないと感じたのは事実だが、気を向けられた瞬間は咄嗟に剣を出そうとしたのも事実だ。カラヴィアスが見抜いている通り、痛みは消えていない。
 傷そのものは塞がっているのにだ。
(戦う中で都度開くのは仕方がない。けど、傷が開いてない状態でも痛むとなると)
「一度、戦い方を考え直すんだな」
 投げ込まれたその言葉に、黒い瞳が上がる。そこに浮かんでいるのはやや戸惑った色だ。
「戦い方――?」
「そう。根本から叩き込んで欲しいとアスタロト公は言っていたが」
 アスタロトの言葉らしいと少し笑い、レオアリスは自分の両手に視線を落とした。
「俺の戦い方は、貴方から見て問題がありますか」
「風竜戦を見ただけだ、一概には言えんが――」
 カラヴィアスは一度思い起こすように視線を流し、再び戻す。
「そうだな。やはり先ほどアスタロト公が言ったことは的を射ているだろう。生き延びる気がない、というヤツだ。まあ無いとまでは言わんが、薄いな」
 カラヴィアスは椅子の背に置いた腕に顎を乗せたまま、瞳を細める。
「そういう思考は剣にすぐ表れる。我等の剣は正しく自らを映し出すものだ。精神、意志、在り方。生き方そのもの――それが刹那的であれば、どれほど研ぎ澄まされた剣であっても容易く折れる」
 窓の光を背に、カラヴィアスの双眸が光を含む。
「俺は」
「限界まで、折れても構わないと戦うのは、ただの自殺行為と変わらないぞ」
「そういう、つもりは――ありません。風竜は、今の俺の力では限界まで力を引き出さなくては勝てないと思った。実際そうしたところで勝ててはいない。結果、あなた方に救われたのだから」
 レーヴァレインが初めて、レオアリスへ直接言葉を向ける。
「さっきもアスタロト公が言っていたけど、この先君達はナジャルを倒さくちゃならないだろう? その為には君の剣に依るところはやはり大きいと思う。俺達はそれを好ましいとは思わないけどね」
 後半の言葉は寝台の足元に立つロットバルトへ向けられたものだ。非難というよりは要望といった響き。レーヴァレインは視線を戻した。
「あの強大な存在と、君はどう戦うつもりなのかな。あれは風竜とも違う」
 ティルファングが瞳を細める。
「喰って喰って喰って、喰い尽くした末に尚欲する怪物だ。膨れ上がり過ぎて僕らの剣も通りにくい」
 普段の彼との印象の違いが、よりナジャルの存在に陰をもたらすように思える。
 レオアリスは返答に窮した。
 答えがない訳ではない。
 ナジャルを倒す為にやるべきこと。
 風竜と戦い、それはより鮮明になったと思っている。
 けれどこの場で口にできないのは、カラヴィアスの言葉がそこへの思考そのものを否定しているからか。
「まあ戦い方を根本から叩き込めと言われても時間がないが、風竜戦を見ていた上で幾つかの助言はしておこう」
 カラヴィアスの言葉にレオアリスは顔を上げた。
 レオアリスの視線を受け、カラヴィアスは言葉を継いだ。
「まずは限界を理解しろ。お前に最も欠けている点だ。限界を前提に戦うのではなく、そこに至る前に勝負を決するように考え、動け」
 両腕をかけていた椅子の背もたれから身体を離し、立ち上がる。
「もう一つ――剣に頼るな。それはお前の一部に過ぎん」
 レオアリスの顔を見て苦笑する。
「考える時間はしばらくあるだろう。それと、剣に頼るなとはいえその状態では心許ない。ザインの渡した薬はあるな?」
「頂いてます。ここにはありませんが――」
「届けてもらって今日にも飲め。飲んですぐに戻るような都合の良いものじゃあないからな。最終戦を考えれば、今飲んでおいた方がいい」
 そう言い、カラヴィアスはロットバルトへ顔を向けた。
「状態に異常が出る。我々も数日はこの王都に滞在させてもらう。何かあれば呼ぶといい」
「王城に部屋をご用意しましょう。この西棟か、少なくとも同じ階に」
「お気遣いは無用――と言いたいところだが、我々が目の届かないところにいても気を揉むか。お言葉に甘えさせてもらおう」
「そう捉えていただいて、ご滞在ください。取り敢えず、部屋の用意が整うまでは隣室ででもお待ちください」
 ロットバルトは笑みを返し、一足先に扉へと向かった。
 レーヴァレインがティルファングを促して、隣室へ戻る。
「まずは剣を戻すことを考えて、身体を休めろ」
「はい。有難うございました」
 まあ剣を戻す間は身体を休めるどころではないかもな、と不穏なことを言う。
「ザインも相当苦しんだようだ」
「――そう言えば」
 ザインの名を聞いて、レオアリスはふと笑った。
「ザインさんも、出会い頭に剣を抜いたのを思い出しました。レガージュで初めて会った時、俺の剣を見たかったと言われて」
 隣室の扉へ歩いていたカラヴィアスの足がぴたりと止まる。
「ザインと、同じ――?」
「そうですね。やっぱり同じ氏族だけある――」
 カラヴィアスの眉根に皺が刻まれた。
「……腹が立つな」









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2020.7.5
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