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王の剣士 七

<第一部>
〜見えない手〜

第二章『風姿』


「わぁ! ダメダメ!」
 アルジマールがぱぁんと手を叩く。
 次の瞬間――屋敷は巨大な胃袋が異物を吐き出すように、ユージュやルシファー、まだそこで呆然としていた正規兵達を勢い良く外へ吐き出した。
 ユージュは猫のように空中で身体を捻り、岸壁の草地の上に降り立った。まだ屋敷の中にいるアルジマールをきっと睨む。
「アルジマール、何するんだ!」
「屋敷を壊さないでよー」
 アルジマールは背伸びして、ユージュが消し去った壁の辺りからユージュに声を掛けた。
「屋敷って、……もうっ」
 首を巡らせルシファーを探す。
「どこっ」
「ここよ」
 すうっと風が左肩を撫でた。
 まるで薄い剃刀を入れたように肩の肉が裂けた。血が風に飛び散る。
 痛みが遅れて来た。
「――っい」
 一筋の傷がかなり深くまで切ったのか、左手が痺れて指先が良く曲がらず、どくどくと血が流れ続けている。
 風が吹いた方向には既にルシファーはいない。青い空を振り仰ぎ、草地を見回す。
 風がユージュの周囲を、嘲るように回る。
「どこ」
 視界に捕らえ切れず、どんどん早くなる鼓動を押さえ込みながら、ユージュは半ば瞳を閉じ、懸命にルシファーの気配を追った。
 微かな気配を後方に感じ、剣を横に薙ぐ。 ほとばしった剣風が地面を削り、遠巻きにしていた正規兵の足元まで迫った。どよめきと共に正規兵が後退る。
 ユージュは思わず剣を引いた。
 一歩間違えば正規兵達を斬っていた。
 そうなるように仕向けたのだと、ユージュは頭の片隅で理解した。
「もっと離れてて!」
 荒い息を吐く。
 もう息が上がっている。剣が重い。
 左肩が痛い。血が止まっていない。左腕を伝う生暖かい温度が気になった。
 ユージュの考えを見透かしたように、風がくすりと笑った。
「ねぇアルジマール、その子、回復力はあまり強くないんじゃない?」
「――」
「純血じゃないからかしら」
 ユージュはぎゅっと唇を噛み締めた。
「余計な事言うひとだな。ユージュ、これ使って」
 アルジマールはまた屋敷の二階からひょいと顔を出し、何かを投げた。
 光る小さい玉だ。
 光球はユージュの目の前まで落ちてきて、ぐうっと上下左右に伸びた。ユージュは瞳を瞬かせ、その光の板を見つめた。
「――盾?」
「そう、攻撃に反応して君を守るようになってる。少しは役に立つはずだ」
 一定の間隔で白い光を強めるそれは、見ただけでは脆く頼りなく思える。ユージュは盾を掴もうとしたが、まだ左腕が上手く上がらない。
 ただ、少しずつ傷は塞がりつつあった。
「僕が昨日あげた物は持ってる?」
 ユージュは何の事かと尋ねようとして、昨日アルジマールが来た時に渡された物を思い出した。アルジマールから見えているか判らないが、胸の辺りを押さえ、こくりと頷く。
「ちゃんと付けきた」
「それでいい。無理しなくていいよ。僕が探し出す間だけ、凌いでくれればいいから」
 アルジマールの姿は見えず、声はくぐもって聞こえた。
 ユージュはすうっと息を吸い、吐いた。
 館を維持するのに集中し、たぶんそれほど、アルジマールがユージュを助けるのに力は割けないのだ。
 だから自分を――、剣士を呼んだ。
(本当は、父さんをだったけど)
 ザインはユージュの為に剣を失った。
 そうさせたのはルシファーだ。
 だから、アルジマールから話を聞いた時、ユージュは居ても立ってもいられなかった。
 力の差があるのは始めから覚悟している。ザインから剣の使い方を教わりはしたものの、本当に戦うのなんて今日が初めてだ。
 ずっと鼓動は早鐘を打っていて、呼吸も早かった。
(落ち着いて――、戦わなくちゃ)
 ほんのひと太刀でいい。
 目の前でザインが剣を失った時の、あの焼け付くような眩暈のような怒りと悲しみを、ユージュは今も思い出せた。
(ひと太刀)
「無粋な事は止めてって言ったでしょう、アルジマール」
(いた)
 館の上に浮いている。
 ルシファーは手のひらを館へとかざした。
 ぐぐ、と館の周囲の大気が動いた。
 収縮する。
 大気に圧迫され、アルジマールが無から造り出した館が、まるで木材で組まれた家そのままにぎしぎしと音を立てて軋んだ。
「――っ」
 ユージュは地面を蹴り、高く跳んだ。ルシファーの高さまでは届かず、身体が落下する。
 姿勢を崩しながらも右腕の剣を振り抜く。
 剣風が大気を割るようにはしり、ルシファーを撃った。
 同時に背中から地面に落ちて、ユージュはまだ傷の癒えない左肩に伝わった衝撃に呻いて唇を噛み締めた。何とかこらえて起き上がり、ルシファーを見上げ、彼女の腕に赤い血の筋が浮いているのをはっきりと眼で捉える。
(斬れる――)
 ルシファーは右腕に走った血の筋を眺め、その瞳をユージュへと落とし、笑った。
「困った子だわ。おとなしくしているつもりはないのね」
「!」
 叩き付けるような風が来る。アルジマールの盾が光を増した。
 視界の隅で、風が下草を切り裂き吹き散らし、地面を削り取るのが見える。離れた所では遠巻きにしていた正規兵達が、突風に圧されてたたらを踏む姿が映った。
「――」
 盾のお陰でユージュは傷一つ負っていない。
 けれど一向に弱まる気配のない烈風に盾が一瞬輝きを弱め、ユージュは心臓が掴まれる気がした。
 盾が消えたら――この風に耐えられるのだろうか。
(――父さん)
 呟いてぐっと奥歯を噛み締め、右足を一歩踏み出す。
 盾が風を押し退け、ユージュは切り付ける風の中を一歩一歩館へと進んだ。
 視界を妨げるほど大気を掻き回す風の向こうで、ルシファーは既にアルジマールのいる館に視線を移している。館が再び、今度はもっと大きく軋むのが見えた。根こそぎ宙へ持ち上がりそうだ。
 中のアルジマールはどうしているのだろう。
 盾が消えていないから、問題は無いのだと思った。
 でもきっと、ユージュの助けは必要だ。
(父さん)
 父の剣を思い出す。自分の剣は良く似ている。
(斬れる)
 ユージュは息を吸い込み、声と共に吐き出した。
「やああ!」
 下から上へ、力いっぱい剣を振り切る。
 真っ直ぐに迸った一条の剣光がユージュに叩き付ける風を切り裂き、その先にいるルシファーを捉えた。
 ルシファーが庇うように右手を前に突き出す。
 白い剣光はルシファーの手のひらと、中指と人差し指の間を裂いた。はっとするほど白い肌から、そぐわないとさえ思える赤い血が吹き出す。
 ばくりと切れてぶらさがった右手半分を眺め、ルシファーは暁の瞳を細めて息を吐いた。
「全く――おとなしくしていればいいのに。面倒だから、あなたから先にしようかしら」
 左手で右手の傷を撫でると手は何事もなかったかのように元に戻り、陶器のように白い肌にはもう、一筋の傷も見えない。ユージュはルシファーの姿を睨んだまま、がくんと下草に崩れ落ち、膝をついた。
「――っ」
 呼吸が乱れ、息が上手く吸えない。力が剣光と一緒に流れ出してしまったみたいに思える。
 それほどの力を使ったというのに、ルシファーの傷はすぐに閉じてしまった。
(――ボクじゃ)
 無理だ、という思いが頭の中に忍び入る。
 ルシファーが初めて、ユージュに身体ごと向き直った。暁の瞳が自分に向いているのが判る。
(――硝子みたいだ)
 いや、ただの物を見るような。
 どくりと鼓動が鳴る。
 殺されるのだと、漠然と思った。
「未熟な者を相手にするのは面倒なのよね。ザインなら少しは楽しかったでしょうけど。か弱い女の子を苛めるみたいな気後れもしなくていいしね」
 空中を、あたかも地面を歩くように、ルシファーはユージュの真上まで歩み寄った。
 一歩近付く毎に鼓動を大きくしながら、ユージュは青い空を背景に建つ館を素早く見た。
 先ほどよりも、館を圧迫する大気は弱まり、軋む音も止んでいる。ルシファーの気がユージュに取られているからだ。アルジマールは今なら、外を気にせず探し物に集中で来ているだろう。
(このまま、注意を引ければ)
 ほんの少しの間、持てば。
 ルシファーは地上で膝をつき自分を見上げるユージュを見下ろし、唇に笑みを刷いた。
「安心して、殺すつもりは無いの。ただおとなしくしていて欲しいんだけど、手足を落とすのは可哀想だから、そうね――腱だけでいいわ・・・・・・・
 ルシファーは何か、風を操るような仕草など一つもしなかった。
 そよ風がユージュの足元を撫でる。
 ばちんと革を合わせるような音を立て、ユージュの左足の踝が、切れた。
 支えを失った身体が草の上に倒れる。
 遅れてやってきた痛みが脳に突き刺さり、ユージュは悲鳴を上げた。「ァああ!」
 深く、ぱっくりと割れた踝の傷からどくどくと血が流れる。
 痛い。
 ユージュは盾が壊れてしまったのかと顔を上げた。
 盾はユージュの前に浮かんでいる。
 ぞっとした。
 アルジマールの盾は一つも変わらず光を放っているのに――、いや、まるで反応しなかった事が
 ――怖い。
 優しく、あやすような風が。
「――っ」
 恐怖が突き上げる。
 剣を、闇雲に、必死に振った。
 剣光がルシファーの頬を裂く。黒い艶やかな髪が幾筋か風に散った。
「――」
 ルシファーの唇の笑みが深まる。
 右足の踝が、ぶつりと切れる。
「うぁあああ!」
 西方軍の兵士達は目の前の光景に呑まれたように、声もなくただ茫然と立ち尽くしている。ヒースウッドでさえ、見せかけの為の攻撃指揮すら取れなかった。
 先ほどまで荒れ狂っていた空気が今や凍り付くようだ。
 ルシファーだけが一人、春の陽射しの中にいるように微笑んでいた。館へと顔を傾ける。
「見えているでしょう、あなたの誤算よ、アルジマール。この子じゃあなたが期待するほどは戦えなかったわね。初めからちょっと考えれば分かっていたでしょうに、甘い事だけを言って連れ出して――かわいそうに」
 まるでそうは思っていない声が謳う。
 一つの同情も、容赦も無い。
 今まで一人でも、この存在を信頼した相手がいたのだろうかと、間断の無い痛みの中でユージュはそんな事を思った。
 今のユージュにとってルシファーは、余りに隔たった所にいる敵だった。
 元々、剣士としての能力を半分しか受け継がないユージュが、戦える相手ではなかったのだ。
 ザインから、戦いの時に恐怖を感じたなどという言葉は聞いた事が無い。
 でもユージュは怖かった。
 初めから――、ずっと。
「ユージュ、あなたは剣なんか持たない方がいいわ。あなたが苦しいだけだし、父さんが悲しむ事になるから」
「父、さん」
 呼吸は苦しく、消える事の無い痛みと血を失い過ぎたせいで、頭が朦朧とする。
 父は嘆くのだろうと思うと、胸が苦しくなった。
 黙って出てきてしまったから――きっと起きてユージュがいないのを見たら、ユージュがそうだったように心配して――
 探して探して、ずっと探す。
 それでも見つからなかったら。
 見つかる訳がない。
 だってユージュはここで
(父さん――)
 本当は、後悔していた。
 黙って出て来るなんてしなければ良かった。
「……助けて」
 ルシファーは優しく、幼子の髪を撫でるように微笑んだ。唐突に風が、ユージュの周囲を吹き荒んだ。
 アルジマールの盾が二度ほど明滅し、砕ける。
「その剣は、私が貰ってあげる」
 ユージュの右肘が、誰かが手で掴んだように持ち上がり、ゆっくりと――捻れていく。ユージュの悲鳴は風の音に掻き消された。
 腕の筋がねじ切られる音が身体の中に響く。
 痛みに意識が遠退く。
(――剣)
 千切れる。
 ザインが剣を失った時の、あの光景が甦る。
(父さん、の)
 朦朧とする意識の中で、ユージュは千切れそうになる右腕に、必死に左手を伸ばした。
 ふいに、声が聞こえた。
「何度も言わせないでくれよ、ルシファー。僕が何も用意していないと思うのかって」
 吹き荒ぶ風に乗って、微かな詠唱がユージュの耳にも届く。
 ユージュの襟元から小さな銀板の首飾りが零れ落ち、ふわりと浮かぶと、微かな光を発した。




 舞台ではいよいよ魔物が現れ、主人公や騎士と対峙する。
 これからがこの物語の最大の見せ場、魔物を倒して森の女王を助け出す場面になる。クライフのあざとい演出によって魔法使い役のロットバルトも登場し、客席がますます盛り上がる。
 原作では騎士は主人公を庇って死んでしまう。アスタロトは原作を読んだ時、その場面が印象的で、二、三日ずっと悲しかった。
 観客達もほとんどが筋書きを知っていて、息をひそめて舞台を見守った。
 原作を思い出して胸が詰まる。アスタロトはぎゅっと胸の前で手を握った。舞台でも――、レオアリスが死んでしまう所を見るのは、嫌だ。
(――)
 主人公はまだ勇気を持ち切れず、魔物の恐ろしさに思わず逃げようとする。
 追うように魔物の放った法術が主人公を捉えかけ、騎士が主人公の肩を押し、魔物の法術の前に立ちはだかる。原作通り――客席もアスタロトも、思わず息を飲んだ。
 その時だ――
 騎士の、レオアリスの衣装の襟元から、小さな光が、ふわりと現れた。
 何だろう、とアスタロトは瞳を凝らした。
 演出だろうと思うが、確かそんな場面は原作には無かった気がする。
 物語の結末を変えたのかな、と思った時、光は急に強くなった。


 襟元からふわりと何か小さな光が持ち上がる。レオアリスはつられるように視線を落とした。
「何だ?」
 眉をひそめ、小さく呟く。それは今朝アルジマールから、護符だと言って渡された銀板だった。内側から透けるように光を放っている。
 レオアリスは光る銀板をまじまじと見つめ、今その銀板を取り巻いてうっすらと浮かび上がっている文字を――、それが示す意味を、読み取った。
「げっ」
「上将?」
 近い場所にいたロットバルトが問いかける視線を向ける。レオアリスは唖然とした顔で、銀板を掴んだ。
 光がレオアリスの全身を包む。
「上」
「召喚だ」
 そう言った瞬間、レオアリスの姿は舞台上から掻き消えた。





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