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王の剣士 七

<第一部>
~見えない手~

第二章『風姿』

十四

 天幕を出たアスタロトは、強く照り付けてくる陽射しに瞳を細めた。まだ正午を少し過ぎたくらいだが、すごく、時間が経った気がしていた。無意識に息が零れる。
「アスタロト様」
 後ろから呼ばれてどきりとし、すぐに追いかけて来たのがフレイザーだと判って、半分、ほっとした。
 アスタロトは足を止めて振り向き、フレイザーが天幕から芝生を横切って近付いてくるのを待った。フレイザーは少し前で敬礼し、近くにいた隊士に馬車を寄せるよう指示してから改めて近付いた。芝生の向こうの通りへ走っていく隊士の姿を、アスタロトは何となく目で追った。
「総司令部まで馬車でお送り致します」
「総司令部――そうか、うん、ありがとう」
「一旦お屋敷に戻られますか?」
「ううん、総司令部に行く」
 アスタロトは首を振り、ちょうど聞こえてきた石畳を踏む轍の音に顔を巡らせ、先ほど隊士が走っていった方向から早々と近付いてくる近衛師団の馬車を眺めた。馬車が二人の前に止まる。御者台にいた先ほどの若い隊士が飛び降りてアスタロトと、続いてフレイザーへ敬礼すると、素早く踏み台を用意し、扉を開いた。
 アスタロトとフレイザーが乗った馬車は、正規軍総司令部のある南地区へと続く大通りを音を立てて走りだした。
 馬車の中でフレイザーは向かい合って座り、飾り程度の小さな窓の外に視線を向けているアスタロトの横顔を、そっと見つめた。沈んだ顔をしている、とそう思う。
 先ほどロットバルトがフレイザーを呼び止めて告げたのは、アスタロトが何か抱えているようだから、聞けるようなら話を、という意図だった。ロットバルトがどこまで・・・・を指して言っているのかは判らないが、一つには、自分が転位すると強く主張した時のアスタロトの様子を気にしているのだろう。
 クライフやヴィルトールもきっと同じだ。それくらい、アスタロトが普段と違うのは、天幕での様子から判った。
(判ってないのは上将だけかしら――)
 思い返してすぐにいいや、と思う。
(上将は判ってて、だから最後にああ言ったんだわ)
 忘れていた、と。
 二人の間にはいつもとは違う、まるで他人行儀な空気が流れていた。
 忘れていたというのは何の事だろう。それがアスタロトの悩み事だろうか。
 フレイザーはしばらく躊躇い思案していたが、やがて思い切ったように口を開いた。
(何だかこんがらがってるみたいなんだから、ここでぼかしたら余計進まないわ)
「アスタロト様――」
 アスタロトが顔を向け、何、と瞳で問いかける。
「差し出た事をお伺いするようですが、何か悩んでおいでなのでは? 上将との間に何かあったんですか?」
「――」
 思いがけない問い掛けだったのか、アスタロトは瞳を瞬かせた。
 おそらくロットバルトは、そこまでずばりと尋ねる事は考えていなかったはずだ。もう少し様子を見ながら、アスタロトに話す気があるなら、とその程度の極力無難な振り方を考えていたに違いない。
 ただ、そのやり方、アスタロト自身に委ねるやり方では結局、アスタロトは口を開けなかっただろう。
 フレイザーの率直な質問に、アスタロトは破顔した。
 ほっとしたように。
「――ありがとう」
 零れるようにそう言って一度俯き、さっと顔を逸らしてまた窓の外へ向ける。けれど景色を眺めているのではない事は、フレイザーにも判っていた。
 フレイザーは黙って待っている。アスタロトはぎゅっと唇を引いて、湧き起こるものを抑えていた。到底口にはできないと思っていたのに、何かあったのかと、そうまっすぐに聞かれた事で、喉を塞ぐようだった心の支えが軽くなっている。
 まだ少し俯きがちながらも、アスタロトは息を吐き出すようにして口にした。
「――私……、私、この前レオアリスと祝祭に行った時、ファーを斬らないでってレオアリスに言っちゃったんだ」
「上将に?」
 フレイザーがそう繰り返し、アスタロトは束の間、怖くなった。軽蔑されたらと思ったからだ。やはり言わなければ良かったと――。だが返ってきたフレイザーの口調からは、どこも尖ったところは感じられ無かった。
「それで不安だったんですね」
「――怒らないの……?」
「怒るって、何故ですか?」
「だって――私があんなこと言ったから、レオアリスはあんなに傷を負ったんだよ? 私があんなこと言わなかったら、きっと全然」
 フレイザーは少し考えてから、明るく笑った。
「相手はアスタロト様と同じ四大公でしょう、幾ら上将だって無傷で済ませるなんてできませんよ。まあ、あの傷は驚きましたけど、無事戻られたんですし、問題無いと思います」
「でも」
「それにアスタロト様がそう仰らなくたって、アスタロト様と西方公のご関係は良く知ってるんですから、上将は自分から気にしてしまうのじゃないですか? だからアスタロト様が気になさる必要はありませんよ」
「でも」
 もう一度そう言い掛けたアスタロトに、フレイザーは首を傾けた。
「じゃあアスタロト様は、もし上将の親しい存在が西方公みたいにこの国を裏切ったとして、何も気にしないでその相手を討てますか?」
「――」
 例えば、あり得ないけれど、グランスレイやロットバルトが――そう考えてアスタロトは無言で首を振った。
 例えばもし――、あの十八年前の北方での出来事が、今起ったのだとしても。
 できない。
 フレイザーがにこりと笑う。
「上将が何も言わなくても、そう簡単に討てないでしょう?」
「――」
「お互い気にしすぎです。見ていて何だかぎこちなくて」
 普段通りのフレイザーの笑みに、改めてアスタロトは先ほどの自分達の様子を思い出した。何だか二人とも、お互いに目を合わせないように頑張っていた気がする。
 少し、笑ってしまった。
 その様子にフレイザーが微笑む。
「次に上将にお会いになったら、素直にお伝えしてください。それが一番です」
 アスタロトはまた小さな窓の外に視線を向けた。通り過ぎる街並みが明るい。音楽や人々のざわめき、屋台から漂う匂い。祝祭に沸いて、賑やかだ。すうっと息を吸うと、いつの間にか胸が軽かった。
「――ありがとう。変な事言ってゴメンって、今度私から言う」
 窓の外の景色は、そろそろ正規軍の総司令部に近付いていた。すぐに馬車は車体を揺らし、総司令部の門を潜った。総司令部の車寄せが見えた辺りで、フレイザーはもう一つ、これはもしかしたらフレイザーだから気が付いたかもしれない事を口にした。
「それから、アスタロト様、あのユージュというコはついこの間まで、まだ十歳だったんです。それに上将が剣の覚醒を手伝ってますし、だから上将の事をお兄さんみたいに思ってるんだと思いますよ」
 アスタロトはしばらく考え、顔を真っ赤にした。
「――そ、それは気にしてないよ!」



 アルジマールはレオアリスの左胸の傷をちょっと見て、肩を竦めた。
「もう治ってるねー、傷痕も夕方には消えるんじゃない?」
「アルジマール院長」
 ロットバルトから注がれる視線がかなり冷たい。アルジマールは少し唇を尖らせ、だが今後の自分の研究環境の安定について多少の危機感を覚えたのか、もう一度レオアリスの傷を検分した。
「……大丈夫、本当に。まあ念のため軍医に診てもらいなよ」
 今ユージュの腕を診ている軍医を示す。
「王城から戻ったら診てもらいます。けど貴方の見立てで充分でしょう」
 レオアリスは礼を言って立ち上がり、朝着替えて掛けておいた軍服を身に着けた。
「行こう。王城でグランスレイと合流して、準備が整い次第陛下に謁見する。アルジマール院長、貴方も同席をお願いします」
「判った」
 アルジマールが傍らに置いた絵に手を伸ばす。レオアリスからは額の裏の板が見えるだけだ。
「そう言えば、その絵はどういう」
 結果としてこの絵を持って帰る為に、あそこまで大変な思いをしたのだ。この絵を見た瞬間、ルシファーの纏う空気が変わった。そこに何が書かれているのか、ルシファーとどんな関わりがあるのか、それを知りたかった。
「まあ、最初の想定は手記とか、何かルシファーの心情を知れるものが欲しかったんだけどね」
 アルジマールは一度視線を落とし、それから小さな身体で絵を持ち上げ、胸の前に掲げた。
「見覚えはないかい?」
 画布には一人の青年の胸像が描かれている。良く王城や貴族の館に飾ってある肖像画と同じだ。
 青年は二十代中間頃の年齢で、派手では無いが地位の伺える上品な身なりをしていた。古い年代に書かれたせいか、衣装はこの国のものとは少し違う。長い銀髪を背中で一つに束ねていて、整った柔和な顔立ちをしている。
「見覚え――?」
 レオアリスは眉を寄せるようにして絵の人物を見つめた。
 どう見ても見覚えは無い。ロットバルトを見たが、やはり見覚えは無いらしく、首を振った。
 レオアリスはもう一度、絵を子細に眺めた。この国の貴族だとしても、描かれてからもう三百年近く経っているはずで、見覚えと言われても、思いつくのは銀髪くらいだ。王やファルシオンの髪の色と同じで、引っかかる点と言えばそれだけ。
(……銀髪――)
 ぎょっとしたのは、それを指してアルジマールが見覚えは無いかと尋ねたのかと思ったからだった。
 王家の銀――
(まさか)
 いや、王家以外にも銀髪は多い。グランスレイもそうだし、ヴィルトールもそういえなくも無い。隊士の中にも、それこそ王都の住人達の中にも数多くいる。
「無いか。まあ、そうかもねぇ、大戦の初期の頃の人だし、そもそも彼の肖像画なんて滅多に無いからね。――この人はね、」
 アルジマールは絵を覗き込んだ。
 そして、レオアリスの想像を完全に上回る事を言った。
「西海の皇太子。海皇の、第一皇子だよ」




  ヒースウッドは目眩の残る頭を振り、投げ出された草の上に身を起こした。
 周囲に部下の兵士達が倒れている。それは累々たる屍を思わせた。
 ヒースウッドは慌てて這い寄り、一番近くに倒れていた兵士の顔を覗き込んだ。
「――」
 息があるのを確かめると、全身から力が抜けた。
 改めて辺りを見回せば、今彼がいるのは先ほどまでいたラクサ丘と余り変わりの無い、斜面に緑が広がる草地だ。
 波音が聞こえ、視線を平行に向けると草地が切り取られたような青い空が見えた。太陽の位置からもラクサ丘と同じ西海岸沿いだろうと判る。
 斜面と斜面に点在している古い石積みの壁の名残りを見て、フィオリ・アル・レガージュの砦を思い出した。恐らくそうだ。
(レガージュか)
 法術院長アルジマールはレガージュを選んでヒースウッド達を送ったのだ。ラクサ丘からおよそ一里ほどしか離れていない。
 あの戦場はどうなっただろうと、ヒースウッドはラクサ丘がある右手の方角を見渡した。
 凄まじい――、ヒースウッドが今まで見た事も想像した事もない凄まじい世界だった。アルジマールの法術、王の剣士の剣、そして、ルシファーの風。
 あの風――
 ヒースウッドは草の上に震える両手を付いたまま、唇を噛み締めた。
(ル、ルシファー様……)
 信じられない、という思いがヒースウッドの胸の内に確かにあった。
 正規軍に対して全く攻撃が無くては、アルジマールやレオアリスに疑われる――だからルシファーは見せかけだけでも正規軍を攻撃するだろうと考えてヒースウッドは指示をしたが、あの風が吹き荒れる戦場は、ヒースウッドの想定を越えていた。
 ルシファーは本気で、正規軍を攻撃していたのではないのか。
(まさか――我々は忠誠を)
 じわりと不安が首をもたげたとき、倒れていた兵士が一人、呻いて身体を動かした。それが伝わったのか、周りの兵士も次第に目を覚まし始めた。
 顔を上げ、身を起し、ヒースウッドと同じように頭を振り、眩しそうに辺りを見回す。その中に少将ケーニッヒの姿を見つけ、ヒースウッドは歩み寄った。
「ヒースウッド中将――」
 ケーニッヒの顔にもヒースウッドと同じ畏れがある。言葉には出せないが、ルシファーはーーと。
「……点呼を。それから負傷の確認を急げ」
 ケーニッヒは頷き、指示を出しながら兵士達の間を早足に歩き出した。兵士達が自分や同僚の身体を検分する。
 彼等の間を回ったケーニッヒは、何故か呆然とした顔でヒースウッドの前に戻った。
「負傷の状態は、どうだ」
「――」
「ケーニッヒ?」
「負傷者は――いません」
 ヒースウッドは我が耳を疑ってケーニッヒの顔を見返した。
「――いない?」
「外傷のある者も、骨折などをしている者も、おそらく」
「そんな事が……」
 あれだけ激しい風が叩きつけ――ヒースウッドなどは高々と持ち上げられ、落とされたのに――。
 ヒースウッドは自分の手を持ち上げて眺め、身体を捻った。ぽつりと、微かな呟きが洩れる。
「――西方公は、我々を傷付けなかったのか。一人も……」
「どういう事でしょう、これは」
 戸惑った様子の兵士の一人が、ケーニッヒとヒースウッドに尋ねる。
 一方でヒースウッドの中には、改めて――より強固なルシファーへの忠誠心が湧き上がっていた。
 ルシファーは兵士を傷つけなかった。一人も。
 あの激しい戦いの中で。
 胸が震える。たった今まで感じていた不安がより一層、ヒースウッドの安堵に拍車をかけた。
 ヒースウッドはぐっと口を一文字に引き結び、ぐるりと兵士達を見渡した。
 感嘆を抑えきれなかった。
 今ここにルシファーがいたら、ヒースウッドは部下達の目も憚らず、彼の人の前に伏していただろう。
「ルシファー様は、我々に被害を及ぼされるおつもりは無いのだ」
「ルシファー様? 中将、何を」
 騒々と兵士達が顔を見合わせる。
「ヒースウッド中将、それは」
 ケーニッヒが慌ててヒースウッドを見る。
 同志達もまた青ざめた顔をヒースウッドへ向けた。
 だがヒースウッドは、今が部下全員を納得させ引き込む、絶好の機会だと思った。それほど彼は深く感動していた。
「中将」
「驚かず聞いてくれ――」
 ヒースウッドは集まり出した兵士達を一人一人、真っ直ぐに見つめた。
「俺は、今回の事で……いや、以前からルシファー様のお言葉を頂いている」
 全く事情を知らない兵士達は目を剥いてヒースウッドを見つめ、顔を見合わせた。
「な――何ですって」
「中将」
 ケーニッヒの声は狼狽えている。驚きに身を固めていた兵士達が、困惑した様子でヒースウッドを見つめた。
 一体どういうことだ、という疑問の声がぽつりと上がり、そして次第に騒めきか広がった。
「中将は何を言ってるんだ」
「西方公は陛下を裏切って国を出たんだろ、違うのか?」
「違うものか、だからウィンスター大将が捜索を指示されたんだ」
「じゃあどういう事だ、裏切った西方公と、何で」
「それこそ、裏切りじゃないか……」
 ぽつりと呟かれた言葉が、騒めきを貫いて兵士達を打った。
「西方公と、通じてたってことじゃ」
 辺りがしんと静まり返り、波と風の音だけが響く。
 やがて兵士の一人が、おずおずとだが疑惑の色を浮かべてヒースウッドを睨み、声を震わせた。
「あ、あんたはまさか正規軍を――国を裏切っていたんですか――、中将」
「違う」
 ヒースウッドは早口で、きっぱりと言った。
 兵士達の戸惑いと不審を感じていながらも、ヒースウッドの中に新たに生まれたルシファーへの感嘆は、揺るがなかった。
 そもそもルシファーの真実の意図は、裏切りではないのだ。
「裏切りなどではない――我々が一切傷を負っていないのが、何よりの証だ。深いお考えがあるが故――引いては国の為なのだ。それはこの国を守る、我々正規軍の役割でもあるはずだ」
「確かに、負傷はどこも」
「じゃあ中将の言ってる事は本当なのか」
「何を言ってる、おかしいだろう」
「離反したんだ、つまりは裏切ったんでしょう、西方公は」
「そんな、訳の判らない……」
 騒めき、詰め寄り始めた兵士達を押し留めるように、ヒースウッドは声を張り上げた。
「聞いてくれ!」
 良く通る声が、統率に慣れた兵士達の足を止める。
「ルシファー様は……ルシファー様は、王太子殿下をお助けになる為、敢えて陛下に反旗を翻されたのだ! それが最善と考えての事、決して翻意があった訳ではないのだ!」
 声には人の心を打つ真摯な響きがあり、兵士達の口を閉ざさせる力があった。王太子という言葉も、彼らの意識を捉えるのに役立ったようだ。
 兵士達は顔を見合わせ、お互いの表情から次の自分の取るべき態度を探ろうとしている。
 ケーニッヒが唾を飲み込む。まだ兵士達が一気に不審を爆発させる様子はない。
(し、しかし、これは――ヒースウッド中将は、大丈夫なのか)
 ヒースウッドの言葉がそう簡単に受け入れられるとは思えず、ケーニッヒ達は不安に息を潜めた。このままでは彼等の手によって捕らえられ兼ねない。
「西方公が、王太子殿下を」
「考えがあってって」
「しかし、実際離反したから俺達が西方公の行方を捜索してたんじゃないか」
(待てよ、西方公――)
 彼等がまだルシファーを西方公と呼んでいる事に気付き、ケーニッヒは素早く舌を舐め乾いた唇を潤した。
 西方を管轄し、なおかつアスタロトの友人であるルシファーは、これまでも西方軍の信頼を勝ち得ていた。
 ケーニッヒがヒースウッドの右側に歩み出る。兵士達の視線がケーニッヒに集まった。
 ここで失敗はできない。もうケーニッヒにも後がないのだ。
「さ……西方公は、お前達も過去何度か、お姿を見た事があるだろう。とても懐の深い、慈愛に満ちた方だった。先ほどの西方公は、私には、以前と変わり無かったように見えた」
 無理があるか、と冷や汗が落ちる。
「炎帝公とも非常に親しいお方だ。わ、我らが炎帝公は心底、西方公を慕っておられたと聞く。それほどの人物が、ただ離反とは考えがたい。そして我々は、西方公のご意思を伺う事ができたのだ」
「ケーニッヒ少将、あなたまで」
「どういうつもりで」
「何故ウィンスター大将は何も仰らないんです」
「ウィンスター大将には、いずれ俺から」
 ヒースウッドが踏み出す。
「何を揉めているの」
 不意に声が落ちた。その場の混乱とはまるで遠い、穏やかで心をほぐす響きだった。
 兵士達は周囲を見回し、一人が小さく声を上げ、上空を指先した。
 彼等の上の、何もない宙空に、ルシファーが腰掛けていた。兵士達に動揺が走り、ルシファーやヒースウッドを交互に見比べる。
 白い頬を、ルシファーは柔らかな笑みで彩った。
「怪我は無い――?」
「け、怪我?」
 ヒースウッドは兵士達の前で、ルシファーへと膝をついた。彼の内にあるルシファーへの深い忠誠を、部下達に示す為でもある。
「一人も、ございません。貴方のお心の賜物です」
 唖然とする兵士達の中で、まずケーニッヒがヒースウッドの横に膝をつき、それから同志の兵士達が次々と膝をつく。
 ルシファーに対して恭順の意を示したのは、凡そ三十名――残りの兵士達が呆気に取られて顔を見合わせた。
「い、一体」
 急に突き付けられた事態が呑み込めず、言葉が喉の奥に消える。
 立っている兵士達は驚きと、そして自分はどうすべきか、戸惑いの中でお互いの様子を伺っているようだった。
 その中心へ、ルシファーはふわりと降り立った。
 数名の兵士達咄嗟に剣の柄に手を掛ける。ただ大半はどうしていいか判らず、後退っただけだ。
 緩やかな風が丘を取り巻いている。
 ルシファーは剣の柄に手を掛けた数名の視線の中に立ち、束の間――ただ瞳を閉じた。
 それは兵士達が自分を斬るのなら、受け入れると、そう告げているかのように見える。
「ルシファー様……!」
 ヒースウッドが声を震わせる。
 風と波の音が占める草地に、戸惑いと緊張が流れた。
 やがて一人の兵士の剣の柄に掛かっていた手が、戸惑いながらも力なく離された。
 他の兵士もそれをきっかけに、どことなくほっとした様子で手を離した。
 ルシファーはゆっくりと瞼を上げ、兵士達を見渡し、微笑んだ。
「斬らないの――? レオアリスと同じね。……貴方達も彼と同じ意思という事なのかしら?」
「お、王の、剣士と――?」
 瞳を忙しく瞬かせる兵士達へ、柔らかな鈴を振る声が掛かる。
「貴方達に怪我が無くて良かったわ。貴方達を傷付けはしなかったか、それがとても気になっていたの」
 一人の兵士の腕を、白い指先が風に揺れる布が撫ぜるように触れる。
 その隣にいた兵士の腕にもふわりと指先が掠める。
 いつの間にか、兵士達は全員、ただ立ち尽くし、ルシファーを見つめている。捕縛すべき相手だという事を忘れ、半ば陶然と。
 とても美しい。
 ルシファーの仕草も姿も、透明な、ただ草原を緩やかに渡る風を思わせる。
 何の悪意も、私意すら無く――
 風の本質のまま
「貴方達が既に知っているように、私はある理由から王都を出、それ故に陛下は私の捕縛をアスタロトへご命令になった。あの子には辛い想いをさせているわ……」
 取り巻く風は優しく、心を和らげるように芳しい。
「だからこそ、アスタロトの部下である貴方達を傷付けたくはないし、貴方達にはアスタロト同様、私の意思を判ってもらいたいと思う」
 返答のしようがないまま、残った兵士達は自らの身体に怪我がない事を思い出してそっと息を吐き、それから気まずそうに視線を彷徨わせた。
「そして貴方達にはこれから、とても大切で重要な役目を担ってもらいたいの。いずれ事態が明らかになって、その時でしかアスタロトは動けないから」
「炎帝公が」
「わ――我々に、何を」
 ルシファーは彼らの様子を頰笑んで見つめ、密やかに、厳然として告げた。
「王太子殿下を支え、お護りするという、大切な役目を――」
「お……王太子、殿下――?」
 何人かが思わずというように口にして、唾を飲み込む。
「王太子って」
「まさかそんな」
「し、しかし、そういえば、ヒースウッド中将も、さっき、王太子殿下と」
 答えを求めてヒースウッドを見た部下達へ、ヒースウッドは改めて強く頷いてみせた。
「――」
「しかし――何故我々が、王太子殿下を」
「そうです。そんな事、ある訳が……近衛師団は」
 ふと口を閉ざす。ルシファーは先ほど、レオアリスの意思について口にした。
 ルシファーは再び柔らかく微笑んだ。見ている者を無意識に安心させる、そんな笑みだ。
 ふわりと風がルシファーの髪や服の裾を揺らす。甘く、陶然と心地よい風が兵士達の間を渡る。
 先ほど剣に手を掛けた兵士達の顔つきから緊張が解け、ルシファーを見る目から険が消えた。
「王太子殿下を貴方達が守護する理由――それが私が離反した理由よ。この、西海との条約再締結が迫っているこの時期――いいえ、その日を迎える前に」
「条約、再締結……」
「西海が……?」
「まさか、奴ら」
「今はこれ以上詳しくは言えないわ。貴方達の意志が判らない状況では、王太子殿下を危険に曝す事に繋がりかねない。それほどに不安定で厳しい橋を渡っているの。けれどほんの少し、希望が持てるとしたら――先ほどの戦いで、近衛師団大将が私を本気で斬ろうとしなかったこと」
 いつの間にか風は止み波の音も途絶えていたが、誰もその事には気付かなかった。
「その理由が、彼がもうアスタロトから伝え聞いていて……私の真意を汲んでくれているからだったら」
「王の剣士が」
 レオアリスがアスタロトの一番身近な友人だというのは、正規軍の人間なら良く知っている事だ。
 ラクサ丘で見たレオアリスは、言われてみればどことなく迷いがあったようにも、見えた。
 互いの考えを窺うように、それぞれがそっと顔を見回す。
「私は王都を出る時、アスタロトも誘ったの。結局一緒には来なかったけれど、考えてくれていると思うわ。だからレオアリスにそれを告げたのでしょう」
「炎帝公も、ご存知なのか――」
 ケーニッヒが顔を上げる。
「そうだ、先ほど近衛師団大将は確かそんな事を仰っていた。お前達も聞いただろう」
「――」
 ルシファーの微笑が深くなる。心を酔わせるような、芳しい香気が大気に漂っていた。ルシファーは彼等を優しく、見渡した。
「王太子殿下を無事にお迎えする為にも、貴方達にはそれぞれ覚悟をしてもらう必要がある。この先に待つ非常なる困難の中、それでも次代の王の軍となる覚悟を」
「王の――」
「私を信じて。まずは王太子殿下をこのボードヴィルにお迎えするまで――我等の役割は忍ぶ事。それを貴方達に期待する」
 ヒースウッドは打たれたように身を強張らせ、それから叩頭した。ケーニッヒ達も一斉に頭を下げる。
 兵士達はそれぞれ互いの顔を見回し、ヒースウッド達と、ルシファーを見つめた上で――数人が膝をついた。
 引かれるようにおずおずと、その場にいた兵士達は草地に膝をつき始めた。





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