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王の剣士 七

最終章

『光を紡ぐ』

八十七




 ファルシオンは少しの緊張と、奥底に流れる熱とを合わせ、その名を呼んだ。
 声の余韻が大広間の列柱の間に流れる。
 応えて床を踏み歩き出す、微かな靴音。
 レオアリスはファルシオンの前に出ると、顔を持ち上げたファルシオンから半間離れて正面に立ち、黄金の瞳を見つめた。
 片膝をつくその動きに、背に纏う漆黒の――今はただ無地の――長布が身を追って落ちる。
 立てた右膝に右腕を置き、左腕を胸に当てる。
 面を伏せたレオアリスへ、ファルシオンは幼い声を微かに振るわせ、ゆっくりと告げた。
「本日、この時を以って――、近衛師団総将に任ずる」
 大広間を覆う空気が密度を増したように張り詰める中、レオアリスは緩やかに身を起こした。
 瞳を合わせる。
「――謹んで、大任を拝命致します」
 アスタロトがぎゅっと唇を噛み締め、少し乱暴に手の甲で目元を拭った。
 参列者の列で、カラヴィアスは僅かに笑みを刷き、プラドは視線を動かさず玉座の前に注いでいる。
 ファルシオンは巻物を収めると一旦スランザールへとそれを預け、レオアリスへ向き合った。
「そなたの剣を、見せてほしい」
 束の間――、その声はレオアリスの中でいつかの、まだとても幼い響きと重なった。
 その響きはすぐに、目の前に立つ少年王へと吸い込まれる。
 レオアリスは片膝をついたまま背筋を伸ばし、ファルシオンの眼差しに応えて微笑んだ。
「御意向のままに」
 左手を持ち上げ、鳩尾に当てる。
 手首まで鳩尾に沈み、それと共に玉座の前へ、青白い光が溢れ、次第に大広間を染めた。
 ゆっくりと、その左手に姿を顕わしたのは、一振りのつるぎ
 大広間の空気が清冽に澄み渡る。
 国賓の席でマリ王国イグアス三世が、ローデン王国のバリエドが、そしてトゥラン皇国ワ・ロウ・イが、耳にはすれど初めてその目に映る剣に、それぞれの驚きに満ちた瞳を向ける。
 アレウス王の剣・・・・・・・と、伝え聞いたそれ。
 次いで、右――
 空気が張り詰める。
 右手が鳩尾に沈み、二振り目の剣を引き出す。
 ファルシオンの黄金の瞳が、二つの剣の青い輝きを映し、滲む。
 青い光を纏う、月の光に浸したような二つの剣――大気を振動させるそれを、レオアリスは切っ先を下にし、身体の前で合わせた。
 大広間の全て――参列者と、あたかも空間そのものが息を飲み意識を向ける中で、二つの剣が光に溶け、一振りの美しい長剣に姿を変える。
「陛下」
 切っ先を下にした剣身を左手に掴み、レオアリスは双眸をファルシオンへと注いだ。
「この剣とこの身を以って、王家と、国王陛下の御身をお守りすることを誓います」
 レオアリスはそのまま、切っ先を自らの胸に置き、剣の柄をファルシオンへと捧げた。
 ファルシオンが手を伸ばし一度柄に触れ――更に数歩、進み出てその指先で、澄んだ剣身にそっと触れた。
 身体を黄金の光が取り巻いて巡り、その雫が指先を伝い、剣に落ちる。



 剣に落ちる、黄金の雫。
 光が剣を波紋のように広がり、刃を握る手を、腕を伝い、心臓へ――そこから血と共に送り出され、身体を隅々へと巡る。
 その光が呼び起こすように、レオアリスは五年前、黒森の故郷の村を出てからこれまでのことが、全身を巡って行くのを感じた。
 自らの奥底にいつもある、理由も知らない、明確に言葉に表すことのできない憧れ、思慕。
 初めて王の前に立った日の鮮明な記憶。
 身が震えるほどの喜び――


 王の前に在り剣を持つことができれば、それだけで良かった。
 その日々の中で、王の傍らから自分を見つめた幼い、王とよく似た金色の瞳。
『ほんとうに、お腹に剣があるのか?』
 剣を見せてほしい、と――
 無邪気に、純粋に寄せられる信頼と、その理由と。
 憧れを昇らせる瞳に映そうとしていた、かつて失われた姿。
『兄上だったらいいのに』
 自分は兄にはなれないのだと、告げるのは苦しく、けれども幼いこの存在を心の底から守りたいと思った。
 記憶の中からファルシオンの姿が浮かんでは消える。
 マリ王国との交渉の場で、幼い身で真っ直ぐに、強い意志と共に国を負い立った。
 王が自分へ、ファルシオンの守護を命ずるのであれば、その意に添い、ファルシオンの願いに添い。
 王が、西海で失われ――その苦しみと悲しみの中で、ファルシオンはまだ何もその手に掴んでいないほどに幼く、それでも小さな身体で自らの責務に正面から向き合い、立っていた。
 西海、ナジャルとの戦いでは兵達と共に、ボードヴィルに身を置き続けた。
 いつからだろうか。
『そなたの剣のもう一振りが、ファルシオンの為にあれば良いが――』
 王の言葉かあるからだけではなく、そのめいの故のみではなく、自らの剣が誰を守ろうとしているのか。
 護りたいのか。
 剣の姿を、意志を、自らの中に明瞭に顕したのは。


 一国を負うということがどれほどのことか、レオアリスには想像するしかない。
 けれど、あの日。


 王が初めて、玉座を立ってきざはしを降りた日を思い出す。
 騒めきの中、最後の一段を降り、王は自らの前に立つ諸侯と、そして降りてきた階の上を見渡した。
『なるほどこれが、そなたらの不安と期待か』
 階上の玉座に戴く絶対的な王への信頼。
 その存在を失うことへの恐れ。
 おそらく王は、自分という存在に掛かる、渾然としたその意識を見たのだろう。
 そして笑った。


『ただこの場へ降りただけの事――何を恐れる』


 ファルシオンを見つめる。
 玉座の前に立つファルシオンは、階下の人々から見た時、あの日王が見て取った『不安と期待』を、これから一身に背負うことになる。
 前を向き、微笑んで。
 けれどもファルシオンの歩む道は、父王とはまた異なる。
 幼く、それでも一歩一歩進んで行こうとするその傍らに立ち、守るという意志が――剣の鼓動が、腕を伝い、自らの中に鳴り、広がる。
 ファルシオンの背負うものが、少しでも軽くなるように。
 その為に自分ができることがあれば、それを為す。


『一緒に行こう』
 そう言ってファルシオンは手を差し伸べた。


 その手を取り、ファルシオンが紡ぐ光――未来を、自分も共に紡いでいく。


 剣に触れるファルシオン指先から広がるのは、柔らかな、暖かい春の日差しのような光だ。
 それは剣の奥に、溶けるように消えた。
 同時に、ファルシオンへと捧げていた剣も解けて戻る。
 張り詰めた空気が解け、息を潜めていた参列者達は、その息をゆっくりと零した。
 スランザールが台座の上の王布を取り上げ、ファルシオンへと差し出す。
 受け取ったファルシオンの手で王布は、参列者達の前にその銀糸で描かれた紋章を現わした。
 揺れる漆黒の長布に宿る、王の紋章――ただ唯一、近衛師団総将のみがその身に纏う、王の守護者である証。
 スランザールがこれまで纏っていた長布を外す。
 ファルシオンはレオアリスへと歩み寄り、片膝をつくその背へと、腕を伸ばし王布を纏わせた。
 一歩、二歩足を引き、静かに息を吐き、そしてレオアリスを見つめる。
 レオアリスはファルシオンへ、深く一礼し、束の間の静寂ののち、王布を揺らして立ち上がった。
 窓から注ぐ陽光の影は、次第に天頂へと昇っていく太陽を感じさせる。
 ファルシオンの斜め後ろへ、初めの立ち位置へと、レオアリスは戻り、再び大広間を見渡して立った。
 先ほどと同じ位置であり、けれど負うものは、ほんの四半刻前のそれとは異なる。参列者達が受ける印象も――
 王の剣士――守護者が、そこに立ったと、参列者達全てがそのことを強く感じていた。
 四公、侯爵等を始めとする貴族達、内政官房、財務院、地政院。正規軍将校達と、近衛師団将校達。王都の商工組合や各地区の代表達。
 参列者達と向き合うファルシオンの表情は先ほどまでとは異なり、穏やかに、誇りと共に凪ぐようだ。
 その面をファルシオンは参列者達へと向けた。
「今日から、私たちは新たな道を踏み出す」
 微かな、確かな微笑みと。
 黄金の瞳が、若々しい光を大広間の隅々まで届かせる。
「みな――私達で、ここに生きる一人ひとりと共に、この国に、光を紡ごう」
 ベールが立ち上がり、それに合わせて、参列者全てがその場に立ち上がった。
 衣擦れの音、その余韻。
 ベールの声が朗々と響く。
「新たななる王、第二代、アレウス国王陛下の幾久しい万歳ばんさいを祈念し奉る。アレウス国の繁栄と、 そしてまた、此度の即位式に参列の栄を頂いたマリ王国、ローデン王国、トゥラン皇国の弥栄いやさかを祈念し奉る」
 万歳を願う唱和、万雷の拍手。
 高い天井と回廊に反響し、それは長く長く続いた。





 王城南正門で行われる国民に向けた姿見式への場へと、ファルシオンがしっかりとした足取りで歩いていく。
 二階の広間から外へ大きく開かれた硝子戸、その向こうの露台の先に、詰めかけた多くの人々の声と熱気が溢れていた。
 そして、降り注ぐ陽光と。
 硝子戸の外に満ちる陽射しの中へ、スランザールとベールが踏み込む。
 次いでロットバルトが僅かに首を傾けて、まだ室内に残るファルシオンとレオアリスへと視線を流し、陽光に消えるほどの笑みを刷き、露台へと出ていく。その後にランゲ。
 アスタロトがくるりと一度振り返り、弾ける笑みを広げた。手招くように手を振り、露台へと先に出る。
 窓の向こうの、視界を白く染めるほどの眩しい光。
 ファルシオンがその光の中に一歩、踏み出し、振り返った。続くレオアリスを。
 銀色の髪、毛先に躍る光。全身を陽光が眩しく縁取っている。
 向けられる瞳の、黄金。
 そこに光がある。
 行こう、と――
 レオアリスはファルシオンの眼差しを受け、その後に続いて硝子戸を抜けた。
 途端に押し寄せる熱気、集う数千の国民が広場を埋め尽くして、眼差しを新たな、若い、彼等の王へと向けている。
 彼等と向かい合い、穏やかな笑みで応えるファルシオンの後ろ姿を見つめ、レオアリスはその後方に立った。
 全身を、王都そのものを包み込むように湧き起こる歓声――




 背に纏う王布が、光と流れる風に揺れた。












― 了 ―







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2022.8.14
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