Novels


王の剣士 七

最終章

『光を紡ぐ』

八十六



 
 誰もが息を飲み、言葉を失い、食い入るように見つめる視線の先へ――
 空から降りてくるのは、帆船だ。
 一隻――いや、三隻。
「ファルシオン国王陛下による治世の初め、この国の、新たなる移送手段――」
 露台との境、眩しい陽光の中に立つアルジマールの声は、どこか滲んでいる。
 参列者達の視線と呼吸を奪い、船はゆっくりとした動きで、大広間の窓の外へ、停泊・・した。
 船体が立てる見えない波が、窓辺へ大きく小さく、寄せるように思える。
「これは……」
「何という」
 幾つもの驚嘆と――唖然とした呟きがあちこちで漏れ、やがて静寂に呑み込まれる。
 五百人を超える参列者、マリ王国を始めとする国賓、西海のレイラジェ等、剣士達、ファルシオンの玉座に並ぶ王母クラウディアや王女エアリディアルも。
 ファルシオンさえも。
 玉座の若い王が込み上げる想いを抑えている横顔を見つめ、レオアリスはもう一度、南面の壁の三分の二を空へ開く窓の列へ、視線を上げた。
「空をゆく船――我々はこれを、飛空艇と名付けました」
 三隻の飛空艇。この飛空艇が、ファルシオンの治世の第一歩となる。
 地上から空へと大きく世界を変え、広げていくそれは、若い未知数の少年王に何より相応しく思えた。
 アルジマールの声が一層、誇らしさと晴れやかさを増す。
「フィオリ・アル・レガージュを始めとする船大工達の造船技術、そして我等が法術の粋を集めた傑作です!」
 王都の街も王城へと降りていく空の船を目にしたのか、風が驚きを含んだ微かな騒めきを乗せてくる。
 イグアス三世やバリエド、レイラジェやミュイル――それからフィオリ・アル・レガージュのファルカン等は、堪えきれず一歩、二歩、その場から踏み出した。
「全長七間(約21m)、船幅は三間。船倉は三層で構成されます。浮上と航行――つまり高度と水平移動ですが、これらを司る媒体を、前後左右、それから安定の為に船底中心とその四方に配置しています」
 深い飴色の板を張り磨き上げた船体、甲板から伸びる大小三本の帆柱、長く美しく舳先を伸ばす船首。
 アルジマールの言葉通り、船首と船尾、そして甲板中央左右には丸く小さな球体が埋め込まれるように配置され、それが陽光の中にも輝く光を放っていた。
 アルジマールが興奮を抑えた口上の間もチラチラとロットバルトを見ているのに気付き、レオアリスは口元に上がった笑みを堪えた。
 ファルシオンへ初めて飛空艇を披露し建造を具申した日、あの出資者は血も涙もない条件を上乗せしていたのを思い出す。
 当時二十間(約60m)だった高度上限を上げること。
 二里(約6km)までだった連続飛空距離は、騎馬の一日の移動可能距離を上回ること。
 船体規模を上げ、三十名だった定員を倍に増すこと。
 アルジマールが息を吸う。
「最高高度三十三間(99m)積載人数は六十五名、最長飛空距離はおよそ三十五里(約105km)、七刻の間連続航行が可能です!」
 どうだ、と言わんばかりのアルジマールにロットバルトが微かに苦笑する。
 飛空艇の開発を託したロットバルトからしても、先月半ばからこの即位式の日までの短い期間に、これほどまでに性能を上げてくるのは期待を上回る成果だ。
 この即位式での初披露は欲を言えばもう少し、ファルシオンの即位を印象付ける為にも厳粛に、かつ劇的な雰囲気のもとに行いたいとロットバルトやベール等は考えていたが、アルジマールがそこまで自制した対応をしただけでも成功だ。
「高い目標値を掲げておくものだな」
 呟き程度を聞き止め、左隣のランゲがやや引き攣って思わず肩を引いた。
 ロットバルトの右隣では、アスタロトが目を輝かせ椅子の中でそわそわと身を揺すっている。肩を一つ軽く押せば飛び出して行くに違いない。
 アルジマールは飛空艇を背に、大広間へ一歩戻った。
 背後からの陽光に滲む瞳の色は、緑に黄と淡い青が混じり合っている。
「ご質問など数多くおありでしょうし、またこの船が本当に人を乗せて飛空するのかどうか、お確かめになりたいお気持ちは抑えきれないものと推察致します。皆様へは国王陛下が明日、試乗していただく場を設けておられます」
 ガタリ、とメネゼスが椅子の音を立てて立ち上がりかけ、微笑んだ主君にはっとして座り直し頭を伏せる。
 イグアス三世は優美な手を持ち上げ、ファルシオンへ微笑んだ。
「まさか、飛空艇とは――海を征く船を空で見ることになるなどと、今日この場で誰が想像していたでしょう。明日の試乗にはぜひ、私どもも参加させて頂きたく存じます」
「ありがとうございます」
 ファルシオンはイグアス三世へ輝く微笑みを返し、参列者へ向き直った。
「まだ漕ぎ出したばかりの取り組みです。けれどいずれ、多くの飛空艇がこの国の空を飛び交い、多くの人と多くの物が、より自由に行き来できる日が来るよう、進めます」
 アルジマールが何度も頷き、それから二度ほど深呼吸して、自分の席へ向かって歩き出す。彼の動きに合わせて開いていた窓は全て、見えない手があるように静かに閉じ始めた。
 その向こうを再び、三隻の飛空艇が緩やかに上昇し行く。
 名残惜しく向けられていた幾つもの視線を、澄んだ鐘の音が引き戻す。
 大広間の四隅、そして玉座の後方に立った近衛師団兵が、手にした儀仗を静かに立てたところだ。五人の儀仗の先には他の儀仗兵と異なって先端が蔓草の先のように優美な弧を作り、小振りの銀の鐘が揺れている。
 ファルシオンの左隣に席を置いていたスランザールが再び立ち上がり、進み出た。
「国王陛下御即位に伴い、空位となった王太子を、新たに宣明頂く」
 玉座後方の隊士が再び儀仗の鐘を揺らす。
「王女殿下――エアリディアル様」
 厳かな声に呼ばれ、エアリディアルが席を立つ。身に纏う衣装は王家の暗紅色を基調に、内側の赤から白へと淡く移ろう、透けるほど薄い布の五枚重ね。華やかで尚、揺れる水面か空の月を思わせる。
 額に絞めた細い、三重の金の鎖と雫に似て揺れる宝石、鎖の下に留めた透ける金糸刺繍の布が、流れる銀の髪を覆い、足首まで揺れている。
 ファルシオンは玉座を立ち、エアリディアルが自らの前に立つのを待った。
 長く引く裾をふわりと揺らし、エアリディアルはファルシオンの前に両膝を下ろし、こうべを垂れるように上体を斜めに伏せた。
 ファルシオンがその頭上に、右の手のひらを掲げる。
「――国王即位初めの勅令として、エアリディアル・ルクルーナ・フィリア=アレウスを王太子とすることを、ここに宣明する。どうかこの先も、拙い私を支えてほしい」
 身を起こし、エアリディアルは澄んだ藤色の瞳でファルシオンを見つめた。
 想いの色を捉えるその瞳は、王として立つまだ幼い弟の姿に、どんな意志を映しただろう。
 花が綻ぶように柔らかく微笑んで瞳を伏せ、エアリディアルは再び身体を伏せた。
「陛下の、御心のままに――」
 ファルシオンはスランザールが差し出した絹織りの厚手の布を手に取り、参列者にも見えるよう広げた。
 新たな王太子旗――艶のある暗紅色の布地に王位継承者を表す銀糸で王家の紋章が描かれ、王太子を示す緑の若草と花が紋章を囲む。若草は希望を表す白小菊とエアリディアルの象徴である白百合。
 エアリディアルは両手を延べ、その腕に王太子旗を受けた。
 もう一つ――細い白銀で編み上げられた首飾りを手にしたファルシオンが、進み出てエアリディアルの首にそっと掛ける。首飾りの中心に置かれた石は、ファルシオンが戴く宝冠と同じ白色虹石だ。
 五人の近衛師団隊士が儀仗を揺らす。
 その澄んだ音色と共にエアリディアルは立ち上がり、膝を曲げてファルシオンにお辞儀すると、席には戻らずその右隣に控えた。
 真紅の絨毯の左右に控える儀仗兵等が、手にした儀仗を回転させ大理石の床を鳴らした。


 儀仗の音の余韻のまま、ファルシオンは玉座に戻らず、面を上げた。
「次に、現在空席となっている東方公並びに西方公を、新たに任ずることを宣明する」
 回廊で待機していた二人の官吏のうち一人が、台座を捧げ持って回廊を歩き、ファルシオンとエアリディアルの斜め後ろへと進み出る。
 絹張りの台座に載せられているのは、二本の細い巻物だ。白地に銀彩を施した装丁の紙が、金の芯棒に巻かれている。
 エアリディアルが手前の一巻きを手に取ると、両手で捧げるようにファルシオンへと差し出した。
 ファルシオンは右手を伸ばして受け取り、目の前に引き上げて開いた。
「ヴィルヘルム侯爵にしてサンデュリア辺境伯、テオバルト・オスカー・ランゲ」
 静まり返った大広間に自らの名が響き、ランゲは緊張の面持ちで、だが粛然と、ファルシオンの前に進み出た。細面のやや痩けた頬は血色良く上気している。
 その場に膝を下ろし、深く上体を伏せ頭を伏せる。
「本日、この時を以って公爵に陞爵し、併せて東方公に封領する。東方域の安寧と発展を図り、驕らず、弛まず、常に利他と協調の精神を持って、国家に尽くし、民を安んじよ」
 ファルシオンは右手を伸ばし、ランゲの額に触れた。
 ランゲが身を起こし、ファルシオンを見上げ、喉を一度動かすと宣誓を述べた。ほんの僅か掠れた響きも、すぐに明瞭なものに変わる。
「国王陛下の御心に従い、課せられた責務と職務を、粉骨砕身、誠心誠意果たさせて頂くことを、我が身と我が心を以って、ここに誓います」
 ファルシオンは静かに頷き、ランゲへ、手にしていた巻物を差し出した。
 両手を頭上に掲げてそれを受け、そのままランゲは深々と礼を向け、立ち上がった。
 ランゲが四公の席に戻るのを見届け、次にエアリディアルはもう一つ、台座に置かれている巻物を手に取った。
 二つ目の巻物をファルシオンが受け取り、巻物を胸の前に開く。
「エセル侯爵にしてイル・ファレス侯爵――、ロットバルト・アレス・ヴェルナー」
 響く声に従いロットバルトが席を立ち、ファルシオンの前に進み出る。
 洗練された仕草で背から流れる長布を左腕にからげ、片膝を下ろした。
 レオアリスはその姿の上に、近衛師団にロットバルトがいた時間のこと、そしてこの一年を思い起こした。
 多くを頼り、その都度、支え応えてくれた。それに返せたかと言えばまるで足りないが、この先がある。
 そして互いに立つ位置は変わりはしたが、この先も、王家を――ファルシオンを支えていくことに変わりは無い。
 ファルシオンの幼く涼しい声が大広間に流れる。
「本日、この時を以って公爵に陞爵し、併せて西方公に封領する。西方域の安寧と発展を図り、驕らず、弛まず、常に利他と協調の精神を持って、国家に尽くし、民を安んじよ」
 巻物を閉じて右手を伸ばし、ロットバルトの額に触れる。
 その手が離れるのを待って上体を起こすと、ロットバルトはファルシオンへと蒼い双眸を向け、静かに微笑んだ。
「国王陛下の御心と共に。我が職務と責務に全力を傾注し、国家の発展に資することを御前に誓います」
 ファルシオンが差し出した巻物を両手で受け、面を伏せる。
 立ち上がったロットバルトはほんの束の間、レオアリスと視線を合わせ、ファルシオンへと再び深く一礼した。
 ロットバルトが四公の席に戻ったのを確認し、スランザールが後を引き取る。
「これを以って四公全てが一年振りに揃い、国王陛下の御世を支える国家の基盤が安定した。その上で、もう一角――」
 深い水の水面みなもを思わせる声に従い、ファルシオンが一歩、玉座へと足を引いて立つ。
 黄金の瞳をそっと閉じた。
「国王陛下の御身の守護を、新たに定める」
 スランザールの声と共に、回廊で待機していた最後の官吏が、台座を捧げ持ち回廊を歩きだした。
 硬い大理石の床を踏む靴音が、静まり返った大広間に響く。
 アスタロトが四公の席から、回廊の列柱を過ぎる官吏の姿をじっと追っている。真紅の瞳の緊張と期待の輝きは、時折瞬きに隠された。
 官吏は回廊を回り、ファルシオンの斜め後ろへと進み出て立ち止まり、両足を揃えた。
 台座の上に載せられているのはこれまでと同じく細い、そして色の異なる巻物だ。
 装丁は暗紅色に銀彩で、銀の芯棒に巻かれている。
 巻物の下に畳まれて置かれた漆黒の布に、銀糸の刺繍が見える。
 ただ一つ、国王が自らの守護者に授ける、『王布』。
 スランザールの皺を刻んだ手がまず巻物を持ち上げ、ファルシオンへと捧げて差し出す。
 ファルシオンは伏せていた瞳を開き、巻物を手に取った。
 胸の前に引き上げて開く。
「――近衛師団大将、レオアリス」











Novels



2022.8.14
当サイト内の文章・画像の無断転載・使用を禁止します。
◆FakeStar◆