七十七
黒い半旗が通りに、城壁に、そして王城に、低く掲げられていた。
風のない日だった。
昨年の十一月から半年間もの間掲げ続けていた黒一色の旗は、この朝は身動ぎすることなく布を垂らし、悲しみに項垂れているように思える。
街中の鐘楼で、吊り下げられた黄銅色の鐘が身を揺らす。
朝の十刻を告げる鐘の音が、初めの一つを鳴らし始めた。
王都に鳴り響く鐘の音。
街の上――家々、広場、路地の隅々に満ち、石や煉瓦に染み渡っていくように、物悲しく響く。
アレウス国王の葬儀は、四月三十日午前十刻、王城南門前の広場でしめやかに催された。
同時に、昨年の西海との戦いの中で命を落とした兵士達の国葬と。
広場には五千人を超える人々が集まり、王城二階の広い露台へ視線を注いでいた。それだけの人々がいても場はしめやかに、ひっそりと静まり返っている。
それぞれ、思い起こしていたことは色を違えながらも、おそらく同じだっただろう。
昨年、四月末。ちょうど一年前のこの日だった。
王は朝この場所で、西海との不可侵条約再締結に赴く為に、見送る彼等の前に立った。
そのことを。
十回目の鐘が鳴り終えた余韻の中、露台の硝子戸が内へ向かって開く。
迎える歓声は無く、代わりに一人一人、集まった人々の視線はじっと露台に注がれた。
初めに現われたのは、四院の長、内政官房長官である大公ベール、財務院長ヴェルナー、地政院長ランゲ、正規軍将軍アスタロト。
続いてスランザールが進み出て、硝子戸を振り返った。
喪服に身を包んだ王女エアリディアル、王妃クラウディア。
そして、王太子ファルシオン。
人々の上に漣に似た騒めきが生まれ、それも束の間で、再び静まり返る。
ファルシオンが低い石造りの手摺の前に歩み出て、集まった人々を見渡した。
広場に入りきれず通りに立つ人々、王都の家々、窓辺に半旗を掲げている人々。
彼等へ、どんなことを話そうか――ここ数日の間、ファルシオンはずっと、考えていた。
父のこと。
戦いの中で失われた多くの兵達のこと。
人々への想い。
この国に、父王が託したこと。
「今日、我が父――」
ゆっくり言葉を綴る。
「偉大なるアレウス国王と、そして、戦いの中で命を落とした兵達の葬儀に、これほど多くの人々が集まってくれたことに、礼を言う。共に悼んでいる、全ての人々に。
「大切な人を失った悲しみと、その心に寄り添うことに」
ゆっくりと、一つ一つの言葉に心を込め、ファルシオンは話し始めた。
話そうとしていたことは、予め綴り、手元に用意していた。
けれどそれを見るまでもなく、胸の奥から浮かぶ言葉を掴む。
「覚えているだろうか――。一年前、父王は、私たちにこう言われた」
ファルシオンの言葉は、一年前にこの場所に集まった人々に、あの朝の王の姿を思い起こさせた。
王子が立つあの露台に――目の前に立っていた。
あの存在がこの国の、自分達の庇護者なのだという、無意識の安堵。
この王さえ居ればこの先も変わらず国は安泰だと。
集まった人々は確かに、そのことを感じていた。
耳に届く王の声――
『今、改めて大戦を語るとすれば、明けぬ夜のようであった。長く暗い、出口の見えぬ道を行く如きもの。だが今この日を迎えているように、不可侵条約が結ばれる事により、終結を迎えた。それは双方が、平穏と安寧を強く望んだからであろう』
おそらくあの日、広場に集まる人々がその胸の内にも、大戦の混乱と戦場を明確に思い描く事はなかっただろう。
それが自分達の身に起こり得ることだったと。
剣戟や、土と汗と血に塗れた鎧が立てる音、立ち昇る煙の筋と、風に交じる血と焼ける肉の臭い――腐臭。
憎悪、怨嗟、絶望、苦渋、悲哀、悲嘆、渇望、希求。
『人の心には、平穏への強い希求があり、己の信念や理想があり、困難を乗り越えてそれを成す力がある』
王はあの時、人々の上にひと時闇が訪れ、けれども彼等自らがそれを乗り越えることを、知っていたのかもしれない。
『私にも、そなたらにも、それがあろう。おそらくはそれこそが、私が永い時を掛けて目にしてきた価値なのかも知れぬ』
広場に流れていた王の言葉。
人々は身動ぐ事も忘れ、王ただ一人を見つめていた。
ただ一人。
傍らに立つ者も無く、王ただ独りであるかのような、孤高さを。
どれほどの時、どれほどの時代、どれほどの生と死を王が眺めてきたのか。
どれほどの希望を。
『意志や希求に限りはない。実体もなく触れ得ぬが、触れ得ぬが故に如何なる力も意志や希求を消し去る事はできず、如何なる状況、如何なる暗闇に於いても、我等の目は光を探すからだ。そして光は意志に力を与える』
レオアリスはファルシオンが語る王の言葉を聞きながら、その後ろ姿に王の姿を見るように思った。
今、陽光の下に、王は立っていた。
『望み、求め、それを成す。その力が全ての、一人一人の中にある。私はそなたら一人一人が、それを成す事を望む』
ファルシオンは静まり返った広場と、人々の上に風がそっと渡るのを見つめた。
「私は今、一年前の今日受け取った父王の言葉を、ようやく理解できたように思う」
黄金の瞳に、陽光を宿す。
「私は父王の意志を継ぐ。光を、平穏を望み、求め、そして成していく――」
その柔らかく輝く黄金の瞳を人々に向けた。
靡かず項垂れる黒い半旗は、失われたひとを想う誰かの心がそこに表れたようだ。
「戦いで亡くなった人々を悼み、この王都と、そしてバージェスとボードヴィルに、それぞれ慰霊碑を建立しよう。そして毎年、戦いの終わった十一月二十五日に慰霊祭を行い、彼等を想おう」
王城の尖塔の鐘が、音を一つ鳴らす。
身を揺らし、二つ、三つ、と余韻を重ねながら鐘の音は続いた。
ファルシオンが瞳を閉じ、露台に、広場に集まった人々が自然とそれに倣う。
鐘の音は十を数え、広場に満ちた響きはやがて、空と人々の中にあえかに溶けていった。
ファルシオンが再び、瞳を上げる。
「我が父と、そしてこの国を守った彼等に、私たちの手でこの国の平穏と発展を作っていくことを約束することで、最大の敬意と、敬愛を捧げるものとする」
歓声も拍手も、讃える声も無い。
だが集まった人々の視線と意識は、露台に立つ幼く、そして大人びた、彼等の王太子へと向けられていた。
明日になれば彼等を導く王となる、その存在へ。
滑車の乾いた音を立て、掲げられていた半旗が降ろされていく。
それは、この国の長い喪が明けたことを示していた。
厩舎の房の一つに近づくと、気配に気付き銀色の飛竜が首を上げた。
「ハヤテ、寝てたか――?」
深夜にも関わらず、若い飛竜は眠気など微塵も感じさせず、『飛ぶのか』と主へ瞳で問い、銀の鱗が連なる翼を軽く持ち上げた。
早く飛ぼう、と鼻先をレオアリスの頬に押しつける。
レオアリスは両手でハヤテの長い首を撫でた。
「うん、少し飛ぼう」
空には丸い月が浮かんでいた。
白々とした月光が、海原に浮かぶ山に似て、王都を夜の中に静かに浮かび上がらせている。
王都を縦横に区切る大通りに仕切られ整然と並ぶ街並みと、一歩踏み込んだ路地の入り組んだ造り。
上空から見れば、月に照らされた都は冠するその名の通り、花が花弁を広げた姿にも見える。
あちこちに灯る街灯や家の灯りは、花弁に落ちた夜露が光るようだ。
銀翼の翼が夜空を切り、冷えた、けれど五月を迎える芳しい風が身体を包む。
月は明日で満ち、風は季節の移り変わりを含んで王都を包み、路地の隅々を抜けるだろう。
『私は父王の意志を継ぐ。光を、平穏を望み、求め、そして成していく――』
受け継がれ、変わって行く。
ハヤテの背の上で、レオアリスは右手を鳩尾に当てた。
手が鳩尾に沈む。
その奥にある意志を掴めば、形を成して剣となる。
顕われるのは月光に浸したような、冴え冴えとした剣――
手に馴染む感覚と、その意志と。
降り注ぐ月光を見上げ、瞳を閉じた。
月光が落とす雫が、瞳の奥で色を変え、瞼を染める。
王が、剣に触れた。
黒竜と対峙した、自らの剣に呑まれそうになっていた時に。
王の前に剣を顕し、捧げた夜に。
僅か――、ほんの僅か、たった二回のことだ。
けれどその手が剣身に触れ、触れた指先から黄金の雫が、剣を伝った。
全身を血と共に巡り、心の奥、深くへと、行き渡る。
『その刀身を曇らせる事無く、自ら光を纏う剣のようであれと願った。強く、清澄な光を纏う剣のようであれと』
その側にいることができなかった。
その為の剣と定めていたのに、守れなかった。
それでも、もう一つ、王から求められたことがある。
それこそが王の、レオアリスに向けた願いだったのかもしれない。
『その剣のもう一振りが、ファルシオンの為にあれば良いが――』
王の――王個人の願いと、レオアリス自身の意志と。
それが重なった先のまだ幼い黄金の光。
剣が淡く光を増す。
王から自分に向けられた全ての言葉と、その中のひとつの言葉を、決して忘れることはないのだろう。
この先どこまでも、それは自分の支えになっていくのだ。
閉じていた瞳を開ける。
右手に掴んだ剣が、輝きを増す。
滑空するハヤテの背の上で、レオアリスは剣を、空へと振り抜いた。
暗い夜空を、青い光が一条、縦に流れて消えた。
――そなたのような剣を得られた私は、幸運だ
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