七十三
陽射しが暖かい。王都の斜面を吹き上がる風も心地よく柔らかかった。
春の祝祭が終わって五日が過ぎ、王都の街は翌月の即位式典まで、一旦落ち着きを取り戻したところだ。
今日はファルシオンは午後の三刻まで居城を出ない。警護の任務は三刻に居城でファルシオンを迎え、そこから開始する。
午前中の会議も、演習の視察も終え、今、部隊を持っていないレオアリスはこの時間がぽっかりと空いていた。
だからほんの少しばかり欲を出し、久しぶりに昼休憩中の昼寝を楽しもうと、昼食を早めに終えて総司令部の裏庭に出たのだ。
総司令部だけあって、裏庭も隅々まで手入れされている。煉瓦造りの花壇と、花壇に至る細い道。
「もっとこう、寂れた感じがあると休みやすいんだけど」
第一大隊士官棟の裏庭が懐かしい。
しょっちゅう呼びにこられたけどな、とブツクサ言ったレオアリスは、自分が隙を見てはしょっちゅう裏庭に抜け出していたことを棚に上げている。
芝生の上に足を投げ出すと、芝と土から立ち昇る香りが近い。
寝転がり空を眺める。そうすると空に包まれるように思えた。
全身に陽射しを浴びれば、近衛師団の黒い軍服が熱を吸収することもあり、すぐにふわりとした眠気が漂う。
一旦落ちかけた意識に――、風を打つ羽音が滑り込む。
目を上げると空を過ぎる飛竜が二騎。ここ、総司令部手前に降りたようだ。入口付近が少し騒めいている。
黒鱗でも赤鱗でもない。太陽に鱗の色はぼかされていたが、緑鱗かそれともやや黄味がかった鱗――だろうか。後者だと王城の官吏が良く使っている。
(呼ばれるかな)
まずはグランスレイが対応してくれるだろうし、自分に関係のある案件なら誰か呼びに来るだろう。どうせ居場所は把握されているのだし。
それまで寝ていよう。
目を閉じ、すうっと息を吸い、吐く。
棟の入口の騒めきももう聞こえなくなっていて、レオアリスは思考を移した。
二月の頭に王都に戻り、気付けばもう四月だ。この一日には恙無く西海との和平条約締結を終えた。
春の祝祭の期間もあっという間に終わり、もう十日――四月も半ばに入っている。
「早いよな」
レオアリス自身のことも。
一昨日の八日で、また一つ歳を取った。
一昨日はクライフと、フレイザーと、グランスレイが店を用意してくれて、誕生日を祝ってもらった。
去年の時はいたヴィルトールとロットバルトがいないことに淋しさを覚えたが、今は仕方がない。落ち着けばまた、第一大隊の面子で集まることもあるだろう。
特に来月の、フレイザーとクライフの結婚式は。
それはさておき。
「俺、もう十九か……」
レオアリスは寝転がったままやや呆然と呟いた。
十九歳だ。いまいち自覚がないのだが。
王都に来て、五年が過ぎたことになる。
振り返ってみれば一つ一つ、色々なことがあり、特にこの二年は目まぐるしいほどに過ぎた。
ただ――
閉じていた目を開き、空を見上げる。
「十八歳の記憶がほとんどないぞ」
この一年の内の十か月近くは寝ていたように思う。一日の内二十時間寝てました、みたいなノリだが。
「本当にびっくりだな……」
「言葉にしてみると改めて、驚きますね」
「うわぁ」
思わず驚きと呆れ半々の声が出た。
起き上がって視線を向けた先、ロットバルトが芝を踏み、歩み寄ってくる。手に箱を一つ、持っていた。
「ここ来るか?」
もう半月後には公爵の立場だというのに。
「何でこの場所が分かったんだ」
鋭すぎる。
「グランスレイ殿がここだと」
「あ、そうか」
今はこっそり昼寝をしている訳ではなかった。
ロットバルトはレオアリスの前に、片膝を立てて腰を下ろした。
「その服で芝の上に座る?」
服に無頓着だなあ、とまた呆れつつ、レオアリスは芝の上に胡座をかいて向かい合った。グランスレイがここを案内したというが、ロットバルト一人だけでグランスレイの姿も、ヴェルナーの従者の姿も無い。
「案件は――?」
「近衛師団で誕生日を祝われたとか」
重要な案件があるのかと思ったのだが、他愛の無い雑談の続きのままで、レオアリスはやや首を傾け、頷いた。
「うん。一昨日。去年と同じだな。ロットバルトがいなかったのが残念だけど」
「クライフ中将からお声掛け頂いていて、時間を作ろうと思ったのですが、財務院会議が詰まって終わらず――すみません」
「今、軍部以外は相当忙しいだろう。まあ師団と正規も即位式に向けて式典や警備の配備計画と再確認とかあるけどな。あと翌日の御前演習と演武か」
即位式の午後は半日かけて、王都の主要大通りを東西南北の四方面、ファルシオンの祝賀行進が予定されている。
その翌日は御前演習を近衛師団、正規軍合同で行う。
近衛師団全隊が動くのだ。
「俺達はもう大枠は決まってるし、後は細部を詰めていくだけだからいいけど」
「財務院も細部の詰め程度ではありますよ」
ロットバルトは笑い、手にしていた細長い木箱をレオアリスに差し出した。
箱の装丁も差し出し手に相応しく、優美で品がある。
「これを」
「これは?」
「誕生日の祝いの品です」
「いいよ、そんな気を遣ってくれなくても……」
「ハヤテ用の新しい手綱を」
レオアリスは両手を伸ばし、細長い箱をがっしりと掴んだ。
「有り難う。この礼は必ず」
開けていいか、と尋ねて木箱の蓋を開くと、光沢のある布を貼った上に、ハヤテの銀色の鱗によく似合いそうな青と黒に染めた革紐を編んだ手綱が収められている。
レオアリスは瞳を輝かせた。
「ハヤテも絶対気に入る。早速今日から使うよ。いや、即位式当日におろした方がいいか」
「不具合があっても良くありません、即位式で使って頂けるなら、事前に換えて確認しておくのがいいでしょう」
「それもそうか」
ロットバルトの目線で選んだものに不具合があるとは思わないが、早速使いたいレオアリスには異論はない。
視線を上げたレオアリスの目を、蒼い双眸が捉える。
「先日、イリヤと面会しました」
レオアリスはロットバルトの顔を見返した。
思わず周囲を見回し、二人の他に誰もいないことを確認する。
そもそも総司令部の裏庭だ。そこに不安があるはずがないが。
「イリヤ――」
その名を繰り返す。
ロットバルトがわざわざ、多忙な職務の時間を縫ってまで、ここに来た理由が腑に落ちた。
何の目的で会ったのか、様子は、と問う前にロットバルトは普段と何ら変わらない口調で続けた。
「恩赦が出ます」
レオアリスは今度こそ膝をついて身体を浮かせた。
「恩赦、いつ――イリヤに?」
「彼一人だけではありません。王太子殿下の御即位に伴う慣例的なものです。五月一日、即位式に於いて、恩赦が宣言されることになります」
慶事の際には恩赦が出される。
最近はほとんど無かったが、ロットバルトの言うとおり慣例だ。
「――そうか……」
ファルシオン殿下が喜ぶな、と、小さく呟いた。
イリヤを、公の場で兄と呼ぶことは、できないけれど。
(――陛下も)
「彼は贖罪を望んでいます。彼の妻であるラナエ・ハインツも。彼女が今、ロカ郊外で孤児院を運営しているのは以前ご説明したことがありましたね。引き取っているのは皆、ボードヴィルの戦没者の家族で、身寄りを失った十歳以下の子供達だと」
「ああ」
恩赦が出れば、量刑が二段落ちる。イリヤに課された量刑は赤の塔での幽閉。
量刑から『無期限』は外れたが、期限が示されてもいなかった。表立っては明言されなかったが、その後の状況によって判断が泳げる範囲を広くする為にだ。
今回、まず期限が示され、それが更に短縮される、とロットバルトは言った。
「早ければ、ファルシオン殿下の御即位と同時に赤の塔での幽閉が解かれるでしょう。その後一般監獄に移ることは、彼の立場上有りません。私もそのように働きかけているところです」
イリヤの表向きの立場、『ヴェルナー侯爵家親族の妾腹』としても一般監獄入りはほぼ無いが、伏せている真実の立場――王の遺児、次期国王ファルシオンの異母兄としても、どんな人物が接触するか分からない一般監獄はあり得ない。
「別の贖罪が課される方向です。彼自身が望んでいることを聞き、司法庁で判断しますが、戦没者の遺児の保護と育成が課されることになると考えています」
レオアリスは陽射しの落とす影を見た。
自分達の影。
芝生の細い葉、一つ一つが作り上げる影。
「イリヤが赤の塔を出て、ラナエさんのところに戻って――」
また一から、子供達と向き合うことになる。
親を失った彼等と。
「簡単なことじゃないよな」
「そう思います。けれど彼はそう望んでいる」
レオアリスはつかの間、ただ思考を巡らせた。
ややあって顔を上げる。
「それを伝えに来てくれたのか」
「いいえ」
ロットバルトはにこりと笑って立ち上がった。
「十九歳を祝いに」
|