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王の剣士 七

最終章

『光を紡ぐ』

七十一



 バージェスでの和平条約締結を終えたファルシオンが王都に戻ったのは、四月二日の午後のことだ。
 街に溢れる祝祭の賑わいを遠目に眺めながら、王城の日々は次の国葬、そして新王即位に向け、慌ただしさを増していった。
 それでも祝祭最後の日、僅か数刻のものだったが、ファルシオンは王城で園遊会を催した。
 園遊会は王城一階の大広間や幾つもの部屋、中庭を会場にして開かれ、和平条約締結に向けた調整への労いの意図も含め、王城に勤める者ならば誰でも、その家族まで含め招待された。
 午後の二刻から日没の六刻までの間、いつ入っても帰っても自由だったが、どの時間帯も参加者は千人を降らなかっただろう。


 大広間の一角で奏でられる音楽は賑わいや活気を歌うより、ようやく訪れた平穏を慈しむような調べで、ゆったりと広間の隅々に満ちていた。
 広い窓から注ぐ春の穏やかな陽光と、光に混じり合うように揺蕩たゆたう楽の音は、ずっと慌ただしかった王城全体が、短い時間ながらも一度息をつき、気持ちをほぐすように感じられた。
 園遊会の初めにはファルシオンへの挨拶を待つ人々が、それとなく集団を作っていた。ファルシオンへの挨拶を終えると今度は、次に挨拶すべき相手へと集団が移っていく。
 アスタロトもまた挨拶攻勢の連続に目が回る思いをしつつ、ようやく一息つくことができたころには園遊会開始から早くも二刻が過ぎていた。
 とは言え今回ファルシオンに次いで挨拶を待つ人々が多かったのは、五月に公爵に陞爵するヴェルナーとランゲだ。
 途中見かけたロットバルトは相変わらず男女、特に女性に囲まれながらも物凄く人柄良さそうに微笑んでいて、ランゲはランゲで六十代男性の希望の星のように囲まれ、終始にこにこしていた。いずれもアスタロト視点だ。
 この時間でも二人の前はまだ挨拶を待つ姿が途切れていない。
(休みなく……すごいな。私はもう無理……)
 もうこれ以上は頬が引き攣りすぎて崩壊しかねない。よろよろと料理が飾り付けられた卓へ近付く。
 手の込んだ美しい料理の数々が、白い布を敷いた卓上に輝きアスタロトを招いている。
「お腹……すいた……」
「どうぞ、閣下」
 すっと取り分けた料理を差し出してくれたのは、今日一日付き従っていた南方第一大隊大将アルノーだ。
「ありがとう……!」
 両手で受け取り、美しく盛り付けられた五種類ほどの前菜をペロリと平らげる。
 野菜を炙って一口大の肉と合わせたものや、小さな硝子の杯に淡い色彩の寒天を口当たり滑らかな擦り流しに重ねたもの。串に刺した焼き物。どれも片手でつまめるように作られている。
「おいしいぃぃ。生き返ったぁぁ」
「閣下、作法を」
 タウゼンが低く嗜める。
「みんな挨拶に気を取られてて見てないよ」
「人目があるかどうかではございません」
「いいっていいって」
「閣下――」
「良いではありませんか、タウゼン閣下。実に公らしいというもの。久々にこうしたお姿を目の当たりにできて感無量でしょう。なあミラー」
 豪快にケストナーが笑い、振られたミラーも苦笑混じりながら微笑んでいる。
「ケストナーいいこと言うよね。アルノー、次ちょうだい!」
「アルノー、一番美味しそうなものをどんどん取り分けて差し上げろ。なんなら他の卓から頂いてくるか」
 甘やかしすぎるな、とランドリーがケストナーを睨む。
 西方のゴードンと他の第一大隊大将等はまだ遠慮がちにその会話と、次々とアスタロトの喉の奥に消えていく上品で宝石のような料理を眺めている。
「おかわり」
 何皿目か、満面の笑みでにょっきり手を伸ばしたアスタロトは、その手をぴたりと止めた。
 アルノーが渡しかけたお皿から手を引っ込める。
「閣下?」
 タウゼンまで訝しんだ。
 アスタロトの視線の先、ファルシオンとスランザール、ベールが会話しながらゆっくりと歩いてきて、大広間の階段下に立ち止まったところだ。
 その側にグランスレイ、セルファン、そしてレオアリスの姿がある。
 そこへ――
「王妃殿下――王女殿下」
 クラウディアとエアリディアルが、階段下で待つファルシオン達へ、降りてくる。
 気付いた参列者達はそっと声を抑え、次いで大広間には拍手が湧き起こった。
 王妃クラウディアは一時期憔悴し、ヴィルヘルミナから救出され王都へ戻った後もあまり表には姿を現さなかった。
 今日は顔色も良く、柔らかな微笑みを浮かべている。
 傍らを降りるエアリディアルは、春めいた若草色と濃い緑を重ねた装いが階段に裾を引き、淡い銀の髪は光を纏うようだ。
 春の精みたいだ――と、アスタロトは階段を降りるエアリディアルを見つめた。
 エアリディアルは微笑みを大広間に向け、アスタロトと目が合って一層柔らかく笑った。
(かわいいぃ……)
 お友達になりたい。今までそういう機会があまり無かった。まあアスタロトがこうした園遊会や夜会に好んで出ていなかったせいもあるのだが。
 見つめる先で、王妃とエアリディアルはファルシオンの前に立ち、ファルシオンは母と姉に、幼いながらも恭しく礼をして、手の甲に額を近付けた。再び拍手が湧き起こる。
 抑えられていた楽の音がまた広間へ満ちるように流れ出し、参列者達の間にも会話のさざめきが戻った。
 けれどアスタロトは、まだ階段の前から目が離せないでいた。
 王女とエアリディアルに対し、スランザールやベールも軽く膝をつき、手の甲へと額を寄せて礼を捧げている。
 グランスレイとセルファンも。
 それから――
 レオアリスもまた王妃に礼を捧げ、次にエアリディアルの前に立つと、長布を揺らし片膝を落とした。
 そっと伸べられた手を取り、額を寄せる。
 光を纏うようなたおやかな王女の前に膝をつく、黒衣の青年将校の姿は一服の絵のようにも見えた。
 アスタロトは自分の装いを見下ろした。
 今日選んだのは正規軍の正式軍装だ。それでいいのだけれど。
 分かっていても、自分との違いがとても鮮明だ。
「――公」
 タウゼンの遠慮がちな声も、アスタロトはどことなく上の空で「うん……」と返事ともつかない返事を返した。
 その横でケストナーが目を輝かせる。
「王女殿下はまことお美しい! 我等が公は炎の美しさですが、まさに対比的な美しさですなぁ」
 朗らかに言った直後、ミラーの肘が鳩尾に入り、ケストナーは呻いて蹲った。
「公――」
 言葉を探すタウゼンの後方から、「アスタロト公爵」と声が掛かった。
 歩み寄ってくるのはロットバルトと、ランゲだ。
 ロットバルトはアスタロトの様子をどう思っているのか、ファルシオン達のいる階段下へ視線を向けた。
 ランゲがアスタロトへ目礼を向ける。
「両殿下へ御挨拶に伺うところです。アスタロト公爵、ぜひ貴方から先に」
「次に挨拶をしたい方々もいらっしゃるでしょう」
 ロットバルトが視線で周囲を示す。
 アスタロト、それからヴェルナーとランゲが挨拶を終えてから自分達も、と考えているのが判る。それがこうした場のしきたりでもある。
 あの場に行くのはほんの僅か――いや、もう少し、自分に喝を入れる必要があったが、アスタロトは表面に出さないよう頷いた。
 歩く傍ら、
「国勢が落ち着いたら、エアリディアル王女のご縁談の話も出て来るのだろうな」
「国外――例えば今なら、マリ王国などへのお輿入れもあるのかもしれない」
「降嫁されるとしたら、国内であれば」
 そう囁き交わす聞こえた。




「それでは、本日はこれで退出させて頂きます」
 レオアリスはファルシオンの寝台の前に膝をつき、上体を伏せた。
 時刻はもう夜の十刻に近く。普段であればこの時間に起きていると、ファルシオンはハンプトンから就寝しなければならないと注意されている時刻だ。
 顔を上げ、寝台に座るファルシオンの向こうに、熊のぬいぐるみがぴょこんと耳を出しているのを見て微笑む。
「ごゆっくりお休みください」
「うん。レオアリスも――朝からずっとありがとう」


 ファルシオンはレオアリスが退出した扉を束の間見つめ、それから寝台に潜り込んだ。
 ぬいぐるみのジェイクをぎゅっと抱きしめ、毛足の長いふわふわのお腹に顔を埋める。そうすると全身の力が解け、ふわりと身体が浮かぶように思えた。
「おやすみなさいませ」
 ハンプトンが掛布を整え、柔らかく微笑んで隣室へと下がると、一人きりになった室内は穏やかな静けさに包まれた。
 眠気がゆっくり上がってくる。
 ファルシオンは一つ、息を吐いた。
 今日も色々あって、目まぐるしく、それでもとても――そう、しっかりと前を向いていられた。
 一年前のこと、この一年間のことをどうしても思い起こし、ふと湧き起こる悲しみがありながら――ひとつひとつを自然と自分のそばに置いていられるような気持ち。
 父王と同じ役割を自分が務めているのだと思うと、父王がそばにいてくれるような気持ちになった。
 もう一つ、小さく息を吐く。
 ファルシオンはそのまま、柔らかな眠りの中にゆっくり沈んでいった。




 夜の風が柔らかく肌を撫ぜて行く。
 まだ四月上旬の風は夜も遅くなると冷え込み、触れる体温を少しずつ持ち去るようだ。
 レオアリスは風が抜ける庭園を、足元の玉石を僅かに鳴らして歩いた。
 王城東側に広がる庭園は、低い埴栽と玉石を敷いた白い小道が円や方形の美しい幾何学模様を描き、夜の中に溶けるように広がっている。所々に立つ園灯の火が、ほんのりと夜を浮かび上がらせていた。
 庭園の先、賑わっていた街は灯りを落とし、斜面を緩く吹き昇ってくる風に乗る声も、今夜は無い。
 背後の王城も幾つかの灯りだけを残して寝静まり、聞こえるのは自分の靴底が踏む玉石の、互いに擦れあって鳴らす音だけだ。風が背に纏う長布と、背中に一筋だけ伸ばした黒髪を揺らす。
 空に架かるのは欠け始めた月。
 小道に沿ってしばらく歩き、レオアリスは足を止めた。
 視線の先で植栽の道が開け、丸い広場になっている。中央に立つのは白い柱と屋根を持つ四阿あずまやだ。
 止めた足をもう一度進め、ほの白い四阿の数歩手前で、また立ち止まった。
 園灯と月の光が屋根の影を、誰もいない白い床の上に斜めに落としている。
 一年前――ここで、王とただ二人向かい合い、話をした。
 自分に向けられた穏やかな声の響きを覚えている。手の温もりも。決して忘れることはない。
 静かな夜の中で、風の音に耳を傾ける。
 ひとつひとつ想い起こす。与えてもらったもの全て。
 長い間、ただそうして立っていた。











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2022.5.29
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