六十八
太陽は薄い雲に隠されているのか、頭上を覆う硝子の天井絵は柔らかく光を含み、水盆の広間を淡い色に染めている。
その中にメネゼスが読み上げる声明が流れる。
声明はアレウス王国、西海、両者が共に綴ったものだ。
「此度の戦いにより被害を被った地、人々、そして命を落とした全てのものに、深い哀悼の意を捧げる」
ファルシオンとレイラジェが、目を閉じ黙祷する。
二人に倣い、列席者はみな同じく黙祷した。国主の警護を担うレオアリスとアルビオルのみは目を伏せず、哀悼を示して姿勢を正し、凪いだ水面のように静まった広間と列席者へ視線を配る。
「我等西海の民は、我欲により他国を武力を以て侵略し、土地を、人々の生命を踏み躙った事実を、決して許されるものではないと、底心より慚愧し、その責を自覚し、二度と同じ暴挙を起こすことのないよう、自らを固く戒める」
声明はメネゼスの代読に託されていたが、レイラジェを始め西海側の列席者は同文を唱和した。
天井絵から落ちる光が淡く移ろう。
メネゼスの声が一人続く。
「此度の侵略行為によって、西海に於ても多くの兵の戦死者を出す結果となった」
ファルシオンが柔らかな銀髪に淡い光を纏わせ、面を伏せる。
「我等アレウス国の民は西海に対し、我欲極まる侵攻した責を深く自覚、自戒すること、二度と同様の暴挙を起こさないことを強く求めるとともに、それでも失われた兵一人一人の命は悼まれ、魂は安んじられるべきであり、そう願う」
(そうか……)
意識は広間内に張り巡らせたまま、レオアリスはまた知らず握っていた手を開いた。
この声明が蟠りを消せるほど、戦乱の爪痕は浅いものではない。
けれど、今回の和平条約締結は、その感情を溶かしていく為の一つでもあるのだと――
メネゼスの声が束の間途切れ、列席者達は伏せていた目を開き、顔を上げた。
「双方、失われた多くの命を悼み、その犠牲を忘れることなく、二国間の恒久的不戦と平和を願い、ここに和平条約を締結するものとする」
メネゼスは書状を絹張りの台座に戻し、一歩引いた。
続いて二人、アレウスは内政官房事務官、西海は文官の一人グンニルが、それぞれ一巻きの細い文章を載せた絹張りの台座を、ファルシオンとレイラジェへと捧げ持つ。
ファルシオンとレイラジェは、台座から巻物を取り、上部を持った腕を引き上げ胸の前に開いた。
「アレウス国、西海、二国間において締結する和平条約全文を、ここに示す」
幼く柔らかなファルシオンの声、そして深く静かなレイラジェの声が、一つの文章を同時に唱和する。
広間は静寂に張り詰め、二人が読み上げる声に耳を傾けた。
「アレウス王国及び西海は、両者が二国間の平和を維持する為に、双方が共有する誠実な理念のもと、友好な国家関係を構築することを決意する。アレウス王国及び西海は、本和平条約の定めを遵守し、信念と尊厳とを以ってこれを維持することを誓う」
条約前文は双方の意志を謳い、第一条以降が双方で共有し遵守する意志を定めるものだ。
「第一条――両国間における恒久的平和及び不戦を宣誓する」
ファルシオンとレイラジェは、それぞれ声を揃え、条文を読み上げていく。
第二条、武力による侵略行為の禁止。互いに侵略を行わないこと、平和を恒久的に維持すること。
第三条、平和的解決。今後、紛争が想定される状況になった場合、両者誠意を持って対話し、平和的解決を目指すこと。
第四条、西海による請求権の放棄。この戦いにおける損害に関する請求権を、西海が恒久的に放棄すること。
第五条、賠償。アレウス王国の賠償請求権と、その期限。
第六条、国交の樹立。国交を樹立し、親睦し、相互理解を深めること。
第七条、安全保障。互いの領内における相手国民の安全を保障すること。
第八条、通航権。アレウス王国が西海領海を通航する権利を定める。
第九条、交易。交易活動とその保護を定める。
第十条、関税。交易における関税を定める。
第十一条、領事館の設置。その目的と役割。
第十二条、慶賀使の再開。その目的と役割。
第十三条、効力。条約は恒久的に二国間で維持するものであり、王位並びに評議会評議長の継承があってもその効力は失われないこと。
重なっていた声が、最後の一文を読み上げる。
声が消え、ぴんと張った静寂の中、二人は条文を記した巻物を手の中で巻き取り、両手で水平に捧げ持った。
ファルシオンは右足を開き、裾を揺らしてレイラジェへ、身体の向きを変えた。
レイラジェも同様に義足の左足を開き、ファルシオンへと身体を向ける。
二人は半間開けて向き合った。
互いの瞳を合わせる。
「宣誓を」
メネゼスが促し、二人が左手を上げる。
レイラジェが口を開く。
「西海評議会初代評議長として、西海の民を代表し、アレウス王国との間に本和平条約を締結し、誠実なる心と誇りを以ってこれを遵守することを誓約する」
ゆっくりと綴る声の響きが、淡く白い光に烟るような広間に溶ける。
続いてファルシオンが口を開こうとした時、まるで風が吹き抜ける音を聞くように、硝子の天井絵から陽光がいっぱいに差し込んだ。
中天に昇った太陽が、硝子絵の向こうで光を放っている。
ファルシオンやレイラジェの足元に鮮やかな色彩を落とす。
白い光に沈んでいた広間は、硝子絵に拡散された輝く光に満ち、列席者達を包んだ。
ファルシオンはその光を瞳に映し、再び口を開いた。
「――アレウス国国王代理として、アレウスの民を代表し、西海との間に和平条約を締結し、誠実なる心と誇りを以ってこれを遵守することを誓約する」
二人は互いの正面に置かれた一つの台座に歩み寄り、そこに条約を記した巻物を、再び開いて並べた。
全く同じ二通のそれに、レイラジェがそれぞれ署名し、西海評議会議長の印を押す。
ファルシオンもまた、二つの書面に署名し、国王の御璽を押印した。
双方一通、初めに持っていたものを交換して手に取る。
巻物の上部を手に持ち、するりと落として広げ、列席者へ掲げた。
メネゼスの声が再び、朗々と響く。
「立会人として、マリ王国国王が、アレウス王国と西海、二国間における和平条約の締結を確認した」
一呼吸を置き、誰ともなく拍手が起こる。
それはすぐに広間を埋める拍手に変わり、凪いでいた水盆の水面を揺らした。
半円広場の海沿い、そして広場中央に建つ条約の館には、昨日からアレウス王国の国旗と、条約締結の立会人であるマリ王国国旗が翻っていた。
和平条約の締結を受け、翻る旗の下に控えていた領事館員達は領事館就任後初めての仕事として、用意していた旗を空へと上げ始めた。
青を基調とし、中心に海に浮かぶ街と輝く光を意匠として描いたそれは、西海の新たな国旗だ。
イス・ファロスの名に込められた、新たな西海の国家体制と、領民達の標となる意志を表した旗。
初めに上がっていた二つの旗に並び、青い旗は空と風に靡き始めた。
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