Novels


王の剣士 七

最終章

『光を紡ぐ』

六十四




 ワッツは東に伸びる街道の先を眺め、立っていた。
 背後にはワッツの麾下、西方軍第七大隊左軍第一小隊の兵、六十名が並んでいる。
 街道の先に黒い影が一つ、現われる。
 それは次第に大きくなり、やがては荷馬車の一団だと目視できるまで近付いてきた。
 彼等は半年前、西海の侵攻によりこのクヘン村から避難していた村人達だ。
 あの戦いが始まった直後、第七大隊大将ウィンスターはワッツに、兵を退きながらボードヴィルに至るまでの区域にある村から住民達を避難させるよう指示を出した。
 事実上の敗走の中、ワッツは辿り着いたこの村で、住民達に村を一時離れるよう説得し、避難する彼等を率いてボードヴィルを目指した。
 ボードヴィルが避難民を受け入れるかどうか、それもまた、ボードヴィルの意思を判断する指標とすることを考えていたこともある
 だが結果として、ワッツはボードヴィルへ避難民の受け入れ打診を行わなかった。ボードヴィルに到着した夜の戦闘――あの時初めて、ナジャルが蛇体を現わすのを見た――により、ワッツはクヘン村の住民達を西方第六大隊のエンデへと向かわせた。
 村を出る時、戻る時が来ると告げた。
 自分でそう口にしていて、それを強く信じていたが、その約束を果たせる時が今、訪れていることが信じられない思いもある。
 ゆっくりと村に近づいて来る村人達の先頭は、村長のカーブスだ。顔がもう見える。
 兵達が迎える姿を見て、村人達の足も早まった。
 ワッツは両手を広げてカーブスを迎え、軽く互いの背を叩いた。
「俺が、何と言うべきかな。――良く、無事に戻られた、か」
「あなた方のお陰です。あの時避難していなければ、ナジャルに我々は飲まれていたでしょう」
 五月の避難の時よりも、その後十一月のシメノス流域戦の方がこの周辺に被害をもたらしている。
 カーブスは背後の村人達を振り返った。
「エンデに残ることを選んだ者も少なくありませんでしたが――」
 視線を戻し、今度はワッツと並ぶ兵達の向こうに見える、故郷である村の様子を見つめた。
 村人達の中から懐かしむ声に加え、溜息も溢れる。
「ああ、全く、想像通りの状態だ」
 村は酷く荒れていた。人が住んでいなかったからもあるが、それよりも丸太で組まれた家の内半分ほど――南東――ボードヴィル寄りの十数軒の家は無惨に崩れ、風雨に晒されていた。その奥に残った家の姿がなければ、ここは数十年も経過した廃墟に見えただろう。
 村の家の半数が失われたのはナジャルが最後に放った黒い波に、半ばまで呑まれたからだ。
 その光景は息を呑むものだった。
 ですが、とカーブスが続ける。
「我々は期待と希望を持って帰ってきました。集まった人達の手によってエンデの街が広がっていくのもこの目で見ましたし、何よりあなた方の姿がここに見えたので」
 絶望しないで済んでいます、と。
 初めて顔を合わせた時とは違う、力強い笑みを浮かべたカーブスへ、ワッツも笑みを返した。
「約束通り、村と農地の復興を手伝いに来た」







「レオアリス、この文字は何と読んで、どんな意味を持つのだ」
 執務机に座っていたファルシオンが、開いた本の一箇所に指を置く。
 レオアリスは覗き込んで指先の文字を読み、その内容の難解さに瞳を見開いた。
「これは『議定書』と言って――、例えば、他の国との会議など話し合って決めた内容を記して、署名などをした正式文書などのことですね」
 最近のファルシオンは公務と公務の間、僅かな時間をこうして本を読むことに当てていた。書物から得た知識を自分のものとして、次々吸収していっている。そうした様子を見ていると、ファルシオン自身の非凡さを実感させられた。
 今卓の上に置いているのは、外交手法について記された書物だ。著者はスランザールだが。
「ということは、今回の和平条約も『ぎていしょ』ということになるのだろうか」
 問われ、レオアリスは少し考えを巡らせた。
「そうですね……条約で申し上げれば、条約の内容をもう少し細かく具体的にしたものなどが、議定書に当たるかと思います」
 ファルシオンの黄金の瞳がレオアリスに頷き、また書物に戻る。
「これは?」
 次に指差した先には『批准』とある。
「ひじゅん、ですね。これも、主に条約に関する言葉です。今回の和平条約でも批准書を作るんですが、それによってアレウス国が和平条約を守ることを、対外的に宣言する意味があります」
 まだようやく六歳になろうという幼い子どもが手にする書物ではないが、ファルシオンの負う責務、そして和平条約締結が目の前に迫っていることが、こうした些細なことからも良く分かる。
「私は言葉の意味くらいしか把握していないので、正確なことや、その行為が殿下やアレウス王国、それから相手国にとってどのような意味や影響を持つのかなど、今度詳しくスランザール公に教えて頂くと良いかと思います」
 自分もファルシオンを少しでも支えられるよう、勉強しなくては。以前は大抵のことをロットバルトに教えてもらっていたが、そうもいかない。
 時間を見つけて文書宮に篭ろうと、そう思った。スランザールの講義を夜通し聞くのもいい。
 ヴェルナー侯爵邸の書斎に行きたいな、と思った最大の理由はあの小間――隠れ家ミスティカという空間だ。いつでも来ていいと言っていた。あそこで昼寝したい。いや、趣旨が変わっている。
「スランザールに、明日にでも時間をとってもらう」
 ファルシオンがこくりと頷く。
 その後もファルシオンの質問に答えながら過ごしている内に、二刻半を報せる鐘が鳴った。
 次は三刻から、十四侯の協議が予定されている。
「お時間ですね。議場へご案内します」
「うん。今日は条約締結の儀式の確認だ。しっかり覚えなくちゃ」
 座っていた椅子から滑り降り、ファルシオンは一度レオアリスを振り返って黄金の瞳に姿を写し、扉へと歩いて行く。その背には年齢相応の愛らしさと、ファルシオンの負う責務が伺える。
 レオアリスもファルシオンを追い、扉へ向かった。









「エアリディアル様、お目覚めのお時間でございます」
 寝室に入った女官は、自分の訪れよりも先に王女が目を覚ましていることを熟知している。
 朝の光が差し込み始めた室内は空気がひんやりと沈み、肌寒い。
 視線を向けた先、窓際にエアリディアルが立っている。柔らかな銀色の髪は腰の上まで掛かり、まだ淡い朝の光さえ纏って自ら輝くようだ。
「おはようございます」
 女官が踵を引き膝を少し落としてお辞儀をすると、振り返った王女は花が綻ぶように微笑んだ。




 月華宮――
 王城六階、北棟区画が王妃クラウディア・ローゼマリーと王女エアリディアルの暮らす館だ。
 基調になる白い壁はどことなく青味を帯びていて、それが月光を思わせることから月華宮と名付けられた。
 陽光を呼び込む為、館は丁字形に庭園に張り出していて、王妃と王女の居室はそれぞれ廊下を挟んで扉が向かい合うように配置されていた。丁字型の突き当たりに硝子張りの温室を備え、互いの居室と繋がっている。
 昇り始めた朝日が、夜の間に冷えた王都を温め始め、街を目覚めさせていく。
 この月華宮も館全体が、空を染める陽光に淡く包まれていた。
 エアリディアルは身支度を整え終え、そっと息を吸い、胸の内側から想いを零すように静かに吐いた。
 藤色の瞳には柔らかな温もりが浮かんでいる。
 今日、幼い弟――王太子ファルシオンが六歳の誕生日を迎えた。
 昨年の五歳の誕生日に比べ、賑わいと華やかさは抑えられているが、それでも街にも、王城にも、この居城にも、祝福の空気が満ちている。
 どれほど激動の一年だったかを想う。
 まだ僅か五歳の少年に、その肩と心に、どれほどの悲しみや苦しみ、責務がのし掛かっただろうかと。
 そして周辺の人々、王都の人々、この国の人々に。
 ただ一つ確かなのは、ファルシオンが彼等と共に一歩一歩進んできたことだ。
 六歳を迎え、そしてもうあと七日後にはバージェスで和平条約締結の儀式を迎える。
 その一月後には。
 エアルディアルは両手をそっと胸の上に重ね合わせた。
 国主として立つ幼い弟を――それでももはや、その心は幼いままではなく、立つ地位に相応わしい強さを身に付け始めてもいる弟を、この先しっかりと支えて行くことを誓った。




「姉上!」
 エアルディアルを見れば、ファルシオンはこれまでと何も変わらず、年齢通りの幼さを溢れさせ飛び込んで来る。
 陽だまりのような温もりを帯びたファルシオンの身体を、エアリディアルは両腕で包み込み、抱き締めた。
「ファルシオン――ご立派でした」
 そう言葉をかけると大きな黄金の瞳が喜びにきらきらと輝く。
「さあ、お母様にもご挨拶を」
 エアリディアルの傍から離れたファルシオンは、窓際に立つ母クラウディアへ駆け寄って抱きついた。
 午後も四刻を過ぎたところで誕生祝賀の行事を全て終え、ファルシオンはようやく一息つけたところだ。
 居城に戻ったファルシオンが月華宮を訪ねてきたのは、陽が沈み始めた五刻のことだった。
 お祝いの、私的な晩餐の席を母と共に用意した。
 エアリディアルは柔らかな微笑みを、付き従っていたレオアリスへと向けた。扉の脇に膝を落としている。身を包んでいるのは正式軍装で、背に纏う長布が足元の床にふわりと流れていた。
 漆黒の長布はまだ無地で、何の模様もない。
 彼がその背に王家の紋章を纏うのは、五月のファルシオンの即位の時だ。
 エアリディアルは見つめる藤色の瞳を柔らかく細めた。
「早朝から王太子殿下の警護の任を果たしてくださったこと、お礼を申し上げます」
 居城へファルシオンを迎えてから朝儀、閲兵式、住民達への姿見式、十四侯との昼餐と、幾つもの行事が重なった忙しさの中、レオアリスもずっと傍らに控えていた。
 今は日ごとにグランスレイ、セルファンと交互でファルシオンの警護を担っているが、近衛師団総将に就任した後はほとんどの時間、総将が王を警護し、必要であれば深夜でもその傍に控えることになる。
 近衛師団総将は王の影のような存在と言えた。
「この先、長い任務が続きます。きっとそのことはもう貴方は心を決めていらっしゃるのでしょうけれど――」
 ふと想うのは、それがどれほどの年月になるのだろうかということだ。
 ファルシオンの在位が続く限り――
 そうだろう。
 そしてその長い年月を、この青年はファルシオンの傍らにこうして居てくれる。
 だからファルシオンは、安心して前を向くことができる。
「――わたくしは、以前、貴方に勝手なことを申し上げました」
 レオアリスは覚えていないかもしれない。



『その剣をもって、陛下の御身をお守りくださいすよう』


『ファルシオンの元に、戻ってきてください』


 エアリディアルが願うまでもなく、それはレオアリスの望みであり、悲嘆や苦しみの中でもがきながら、今こうしてファルシオンの傍にいる。
「貴方は進んで来られた。暗闇の中を、手探りをしながら。そのことに、改めて感謝いたします」
 膝をつき顔を伏せエアリディアルの言葉を受けていたレオアリスは、一度頭を下げ、面を上げた。
「勿体無いお言葉です、王女殿下」
 ですが、と。
「光はございました。闇の中に」
 声は静かな響きだが、明瞭に、意志を持ってエアリディアルの耳に届く。
「陛下の――そしてファルシオン殿下の放つ光が、私のしるべです」
 口元に浮かんだ笑みは穏やかで柔らかい。
 瞳の奥に映るのは、澄んだ月の光のような青。
 エアリディアルは胸の奥を掴む遠く触れ難い感情と共に、淡く微笑んだ。
「この先も、ファルシオンの傍にいてくださいますよう――」










Novels



2022.5.1
当サイト内の文章・画像の無断転載・使用を禁止します。
◆FakeStar◆