五十九
『俺は誰かを、何かを守る為に戦いたい』
そう答えた瞳に宿る光を、遠いもののように見た。
剣士とは、失う者だ。
己の剣により、他者の剣により、その生により。
常に失い続けるのが剣士という種だと。
剣士とは戦う為に在り、剣を身に宿す歪な存在に、それ以外の理由は無い。
そう思ってきた。
『安心してください』
アレウスに来た時、プラドの目的はレオアリスを氏族へ連れ帰ることだった。
遠く離れた地から氏族に伝わった話は、『幽閉』
ならばこの国に置いておく理由などないと。
西海との争いに参戦するつもりは毛頭なかった。すぐに目的を果たし、氏族に戻ることを考えていた。
母や兄、妹を置いてこの国を出たことが、心の片隅にずっと引っかかっていたのだと、自覚したのはいつだったか。
『貴方が背負っているのは、貴方の後悔ですか。家族を置いてこの国を出た』
あの言葉だ。
『祖父は、母は幸せそうだったと言っていました。とても』
『残ることを選んだ人達は、幸せだったと思います。貴方と離れたこと以外は』
自分の目をまっすぐに見て、そう言った。
だから、安心してください、と――
その言葉が、国を出て四百年以上を経て、プラドの意識の奥底に積もり続けた感情を――後悔を、静かに解いていった。
自分がこの国を出たことは自分の意思であり、自分自身が負うものだ。そこに付随するどんな感情も。
それと同様に、彼等がこの国に残ったのは彼等の意思によるものであり、彼等が負うものだ。
後に繋いだ者から見たプラドの家族は、残ったことを後悔してはいなかった。
プラドは、視線を上げた。
「レオアリス。もう一度だけ問う」
自分を見つめ返すレオアリスの姿に、妹の面影を探す。
懐かしさはあるが同じではなく、レオアリスはレオアリスとして、一個の存在としてここに在る。
「――俺と共に、ベンダバールへ来るか」
「俺と共に、ベンダバールへ来るか」
プラドは「もう一度だけ」と言った。
その意図は解る。
レオアリスがどういう答えを出そうと、もう同じ問いを投げかけることは無いのだろう。
自分に繋がる者は誰もいないと思っていた。
プラドはたった一人残された、レオアリスがその手を取ることができる血縁だ。血の繋がりという事実は、何があっても揺るがない。
血の繋がりのある存在がいる。そう思えることはそれだけで、深い安心に繋がるのだと知った。
「ずっと、考えていました」
プラドが現れてから。
彼の存在と、氏族の存在と。
自分と。
幼い頃、祖父達と自分の姿が違うのを不思議に思っていた時期がある。
親は――彼の血縁は祖父達ではないのだと、教えてくれたのはカイルだったか、それとも自分でいつの間にかそう知ったのだったか。
祖父達は愛情深くレオアリスを育ててくれた。だから寂しいと感じたのは、祖父達と姿形が同じではないことの方にだ。
祖父達は時折、危険な黒森の奥に足を運んでいた。レオアリスも一度、連れて行ってもらったことがある。
雪深い森の、ただぽっかりと開けたその場所で祈る祖父達の姿は、幼い意識にも痛ましく、そして触れ難い、深く真摯な想いに満ちていた。
(あそこは父さん達の、ルフトのいた場所だ)
プラドの妹でもある母の――
(父さんはどのくらいベンダバールのことを知っていて、母さんはどう思っていたんだろう)
会いたいと思ったのだろうか。
レオアリスにとってのもう一人の伯父、ゲントは側にいたが、二人の母、レオアリスの祖母は、ベンダバールがこの国を離れて程なく亡くなったと聞いた。
父と会うまで、二人にはもう戻る氏族は無かった。
(俺のことを、どう思っただろう)
今更聞くことはできないが、ただ一つレオアリスにもはっきり分かっているのは、母が最後まで自分を守ってくれたことだ。
『俺達の剣は、自分の望まないものは斬らない』
プラドが、そう言ってくれた。
それが真実かどうか――確かめる術などないが、その言葉があるから、今まで向き合ってこなかった母の存在にも向き合って行ける。
ずっと考えていた、と言ったきり黙っているレオアリスをどう思っているのか、プラドは急かす様子も無い。
浅黒い肌は陽に晒されて来たからだろう。余分な贅肉を削ぎ落とした引き締まった体躯と、落ち着いた鋭い眼差し。多くを語らない姿勢は、長く戦場に身を置いて来たからなのかもしれない。
(この国を出て、四百年以上だ)
ミストラ山脈の東は多くの国が国境線を争って小規模な戦争を繰り返し、安定していないのだと聞いてはいたが、ベンダバールがアレウス国を出て四百年もの間、それが繰り返されているということだ。
(ミストラが無かったら、この国も同じだったかな)
国境沿いは常に緊張が流れていたかもしれない。
ふと考えることがある。そう考えるようになったのは、西海との戦いの終わりが見えた時だったか。
剣士が戦う為の存在ならば、平穏になった国に剣士の居場所は――自分の存在の意義はあるのか、と。
戦乱の場所にこそ剣士という存在の意義があるのなら、平穏を得たアレウス王国を、自分はいずれ離れようと考えるのだろうか。
それが確実な心の流れならば今、ベンダバールと共に行くという選択肢もあるのかもしれない。
四百年前、ベンダバールがそう選択したように。
(――じゃあ、他の氏族は――?)
正面に座るカラヴィアスの面を見つめる。レオアリスの視線を受け止めはしたが、返る答えは無い。
厳しさと寛容さが同居した眼差しに、カラヴィアスの背負うルベル・カリマのことを――氏族のことを考える。
砂漠で見た、赤竜の投影、揺れる炎を思わせる姿。
剣士の氏族には四竜の監視という役割があるようだ。
ルフトとルベル・カリマが長い平穏の続いたこの国を出なかったのは、ベンダバールが監視していた風竜と異なり、黒竜や赤竜の存在が現実的だったからなのか。もう一つ、カミオという氏族は存在そのものが、今回の騒乱を経てもなお、表に出て来ていない。
(でもルベル・カリマは始め、西海との戦いへの協力の意志は無かった)
それは剣士がただ戦いだけを求める存在ではない証左でもある。
(目的が、意義があるかないかか……ここに居る)
レオアリスは息を吐いた。
やっぱり、何度考えて見ても、答えは同じところに行き着くのだ。
目的は何か。意義はあるか。自らの存在が、ここに在ることへの。
自分がそれを、どうつくりたいか。
「――俺は」
ここにいて、どれほどのものを得ただろう。
育ててくれた祖父達は、血の繋がりがなくても自分の家族だ。初めて出会った友人はきっと一生変わらない、かけがえのない存在で、近衛師団は、特に第一大隊で自分の周囲にいて支えてくれた彼等はただ上官や同僚、部下という括りではなく、家族とは異なりながらも家族のように思える。
それから剣の主――王。
ファルシオン。
失ったものは確かに多く、それらは決して取り戻すことはできないけれど、一つ一つの歩みの分、多分、きっと、得たものの方が多いのだ。
これからつくり、紡ぎたいものの方が。
意義も、目的も、与えられるものでも予め用意されたものでもなく、自らが定めるものだと、深く、理解している。
自分の意志で選ぶものだ。
レオアリスは視線を上げ、プラドへと、真っ直ぐに据えた。
「俺は、ここで生きていきます。この国で」
言葉に出したそれは、決意でもあると思った。
向けた眼差しを、プラドは受け止めた。
「そうか」
ただ一言だ。
おそらくプラドにも、返る答えはもう判っていたのだろう。驚いた様子も反対する様子も無く、ただ頷いた。
この人らしいな、と出会ってまだ日の浅い、けれど確実に生死の縁に共に立ったプラドの面を見て、レオアリスは笑みを浮かべた。
プラドの問いに答えたが、レオアリスにも問いかけたいことがある。自分勝手な言種かもしれないが。
「俺は逆に、貴方に考えてもらいたいことがあるんです」
「俺に?」
何を、と問いかける視線を、今度はレオアリスがまっすぐ捉えた。
「この国に、残りませんか。ティエラさんと二人で」
まるで予期していなかった言葉に、プラドが驚いた目を向ける。
ティエラも瞳を見開きレオアリスと、それからプラドを見た。
「ずっとじゃなくても――もう少し。例えばあと一年でも、二年でも」
返す言葉に迷っていたプラドは、「いや」と口籠った。
「俺の役割は」
「この国は貴方の故郷でしょう。役割とは別に考えたっていいじゃないですか。だいたい俺ばっかりどうするか聞かれて、一緒に行かないって答えたらじゃあ帰るって言われてもな」
プラドは呆気に取られている。
その様子が少し面白い。
「俺の希望だって言ったっていいでしょう。貴方は俺のたった一人の肉親だし、俺はこの国に残るし、だったら貴方にもこの国に居て欲しい」
「――そ」
乾いた、心地良い笑い声が弾ける。
黙って聞いていたカラヴィアスはひとしきり笑い、笑みを残したままの面をプラドに向けた。
「いいんじゃないか。お前はどうせまだ剣が回復していないんだ。前にも言ったが、それでミストラを越えようというのは、ティエラと二人であってもあまり好ましくはない」
プラドが眉根を寄せている。
が、提案を厭っているというよりは戸惑いからだろう。「その面は面白いな、気に入った」とカラヴィアスはまた笑った。
「ルベル・カリマの里で暫く暮らしながら、この国がこれからどう進んで行くのかを眺めてみればいい。レオアリスがした決断が何に繋がるのかをな。この先、そう急ぐ生でもないだろう。レオアリスを少しぐらい甘えさせてやってもいいし、剣が安定したとは言えまだ指導者も必要だ。それに」
美しい瞳を、プラドの傍らで固唾を飲んで固まっているティエラに向け、和らげる。
「ベンダバールの長――エンシス殿がティエラを共に寄越した意味も、何かあるんじゃないのか?」
広い窓から差し込む陽射しが空の雲の流れにか、やや移ろう。
磨かれた木の床が陽光を反射して眩しい。
離れた席に控えていたヴィルトールが立ち上がり、「新しいお茶を用意しましょう」と隣室への扉を開けた。
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