五十八
銀翼の翼が風を逃し、近衛師団第一大隊士官棟の中庭に降り立つ。
レオアリスはハヤテの背から飛び降り、長い首を軽く叩いて彼を労うと芝を踏んで駆け出した。
中庭を廻る回廊の影に入り、硬い石張りの床に靴音を鳴らす。
取っ手に手を伸ばす前に扉が開く。開けてくれたのはヴィルトールだ。
「有難う――!」
ヴィルトールの脇を抜け、執務室に入るとそのまま隣の応接室に駆け込んだ。
「――カラヴィアスさん! プラドさんも――」
カラヴィアスとプラド、そしてティエラと、もう一人も良く覚えている。カラヴィアスの補佐役のトールゲイン。
「怪我は――身体はもういいんですか? 左腕は」
長椅子に座っていたカラヴィアスが立ち上がり、息を弾ませているレオアリスへ苦笑を零した。
「私よりもお前だろう。身体の具合はどうだ、レオアリス」
両腕を伸ばしてレオアリスの背に回し、軽くその背を叩く。
「良く、戻った――」
静かな、深い響きでそう言った。
その響きとカラヴィアスの怜悧な瞳に、ナジャルとの困難な戦いの一場面一場面が胸の内に沸き起こる。
「――はい」
カラヴィアスはあの戦いの中でさえ、レオアリスを導いてくれた。剣の使い方、回復の仕方。ナジャルを転移させられたのは、カラヴィアスが赤竜の宝玉を用いたからだ。
プラドの行動によって、ナジャルが作り出した循環する時を抜け出すことができた。
ボードヴィルを護ってくれたのはティエラと今ここにはいないティルファングで、レーヴァレインもナジャルの吐き出した影との戦いを導いてくれた。
トールゲインを始めルベル・カリマの剣士達がシメノス下流域とレガージュでの戦闘を支えたことで、兵の損害やレガージュの被害を抑えることができた。
カラヴィアスはレオアリスの肩に手を置き、軽く覗き込んだ。
双眸は意識の底へ差し入るようだ。
「身体に不具合は無いか」
「いいえ――、周りに、助けてもらいましたから」
戻って様々な人と顔を合わせる度に改めて感じるのは、彼等の一つ一つの積み重ねがあったからこそナジャルを倒せたということだ。
足を一歩引き、改めて四人へ向き直る。
「本当に、有難うございました。ナジャルを倒せたのはあなた方のお陰です。だからこそ今の平穏があります」
「そう言ってくれるのならば、我々も参戦した甲斐もあったと言うものだ」
カラヴィアスはトールゲインと視線を交わし、微笑んでレオアリスの姿をまじまじと眺めた。
「剣も無事戻っているか。在り方が以前よりも明瞭だな」
「はい」
二振りの剣はカラヴィアスの言う通り、回復した――それとも再生したと言うべきか、砕ける前よりもずっと安定している。
その源が、あの黄金の光にあるのだと、そう思う。
レオアリスは椅子を勧め、五人は低い卓を挟んで座り向かい合った。ヴィルトールが離れた席に控えている。
「ならば良かった。プラド、お前も安心しただろう。レオアリスの為に回復薬を飲まずに取っておいたのだろうが、遠慮なく使うといい。どうせ持って来ているんだろう?」
レオアリスの視線にプラドは肩をすくめた。
「必要が無かった。俺の剣は折れただけで失った訳ではないからな。このままでもその内戻る」
「プラドったら、悠長すぎるのよ。一度こうと思ったら頑固だし」
ティエラはそう言ってレオアリスへ微笑んだ。
「まあでも、私が傍に居るから問題はないわ。プラドの言う通り、剣を失ったんじゃないから気にしなくて大丈夫」
「折れた場合と、砕けた場合と、違うんですか?」
「私もあんまり知らないけど、違うと思うわ。プラドはそんなに眠ってないし」
「そもそも、砕くことがそうは無い」
カラヴィアスの声には諌める響きが混じっている。
「私が知っている例では、剣そのものを失って存えたのはお前と、ザインくらいだ。奴の剣は腕ごと持っていかれたと言った方がいいが」
レオアリスの表情を読み取ったのだろう、カラヴィアスは笑った。
「ザインは剣を失って、一度はお前達に死の淵から引き戻してもらった。そのことにまだ礼を言っていなかったな」
「それは――」
「気にすることはない。奴は己の望み通り生きた。過ぎるくらいだよ」
剣の主を得て、彼女を援け護る為にレガージュで戦い、失った主の遺志を継いでレガージュの繁栄を見守り、二人の子であるユージュを護り、そして街を守った。
「奴といいお前といい、主持ちは――」
呆れを含んだ声は、室内に満ちる陽の光に柔らかく溶けた。
「いずれ、レガージュが落ち着いたらまたユージュに会いたいと思っている。街と交易の復興を頑張っているようだからな」
自分も、と頷く。
「交易船の寄港は以前よりも増えていると聞いています。バージェスが動き出せば、バージェスとの行き来や黒森以北との交易も再会するんでしょうね」
かつて、黒森より北のグラクェニクとラヴィエクという二国とは、大戦前は細々とながらも交易船が行き来し国交があったようだが、それも絶えて久しい。
ファルシオン即位に向けて、三月に入ったら使節を出すと十四侯の協議で決まっているようだ。改めて、黒森以北の国とも改めて友好的に国交を結ぶことを目指している。
海皇が支配していた海域が海路として開けたことにより、取り巻く世界が急速に広がって行くのを感じた。
これまで天然の塁壁と目されてきたミストラ山脈やアルケサス、黒森も、いずれは外へと開いていく道を探るのかもしれない。
「失礼します」
事務官のウィンレットが入室し、卓に温かい紅茶を置いていく。
「有難う、ウィン」
久しぶりに会った事務官は、髭を蓄えた面で笑みを返した。
琥珀色の紅茶を満たした杯から、花に似た香りが柔らかく漂い、室温もまたふわりと温かくなったように感じられる。
「ティルとレーヴさんの状態はどうですか?」
「レーヴァレインはまだ眠っているが、ティルファングはすっかり元気だよ。レーヴァレインにべったりなのは変わらないがな」
レーヴァレインはナジャルの闇の影響を受け、そのまま意識が戻っていない。既に三か月が過ぎているのを考えると、長い。
顔を曇らせたレオアリスへカラヴィアスが笑みを返す。
「まあ、レーヴァレインも命に別状は無い。あれも剣を失った訳ではないからな。ナジャルの闇をアスタロト公爵が浄化してくれたからだろう。機会があれば公爵にも改めてお礼を言いたい」
あの地のオルゲンガルムの存在も良い方に影響している、と続ける。
「この先、そう時間もかからず目を覚ますさ。安心しろ。お前だってついこの間だけじゃなく、去年は半年間寝ていただろう?」
「それなら――」
息を吐く。
「早く起きてくれることを願ってます。そうしたらまた話をしたいし、お礼も伝えたいです」
「必ず報せを送る」
お願いします、と言い、レオアリスは改めてカラヴィアスを見た。
「遅くなってしまいましたが、訪ねて来てくださって有難うございます。王都には何日くらい滞在されるんですか」
「単にお前に会いに来ただけだ。プラドが報せをくれたからな」
視線を傍らのプラドに向け、薄く笑む。
「近衛師団総将への就任を祝いに」
ティエラがほんの僅か視線を上げてプラドを見た。
カラヴィアスはプラドの胸中をどう測っているのか、そのまま言葉を繋ぐ。
「お前の出自を踏まえてもなお、アレウス国がその決断をしたのは大胆なことだ。王太子殿下のお心を尊重するという想いだけではそうした決断はできまい。それについて、我々も敬意をもって受け止めている。ただ」
唇に浮かべた笑みは、その先にレオアリスが負うものを慮るようだ。
「その分お前には、彼らの期待と思惑に応える責務がある。ナジャルを断ったことで今のところは釣りが来るくらいだが、これからの立場を考えれば、いつまでもそれで食い繋げるほどの余剰はない。それに」
カラヴィアスの視線が差し込む。
「お前は、そこを目的としていた訳でもないのだろうしな」
近衛師団総将を。
「だからなおさら、ただ剣の主を守りたいと、その想いだけで済む立場じゃない。自分の意思一つで動けるものでもないだろう。覚悟が必要だ」
レオアリスは自分の両手に視線を落とした。
カラヴィアスの言う通り、覚悟がいる。
近衛師団総将という立場は簡単なものではなく、そこが終着点でもない。
国王としてのファルシオンを護り、かつ王と王家を守護する近衛師団の支柱となることが求められる。
アヴァロンは絶対的な存在だった。
アヴァロンのような存在になるには、十年やそこらでは足りないだろう。
カラヴィアスは前に傾けていた身を起こし、背もたれに寄りかかった。
整った面に面白がる色を浮かべ、斜め前に座るプラドへ、視線を流した。
「そこでだ。正式にレオアリスが近衛師団総将に就く前に、ベンダバールとして答えを出す必要があるだろう。場を設けてやったぞ」
「カラヴィアスさん――」
ティエラがやや慌てた様子でカラヴィアスと、そしてプラドを見比べた。
レオアリスもプラドへ視線を移す。
初めてプラドに会ったのは昨年の十月。西海の王都侵攻の時だ。
ルフト、そしてベンダバールという氏族があることを知った。プラドはレオアリスの母の兄――伯父であり、唯一の血縁――誰も、一人もいないと思っていた、血の繋がりを持つ存在。
『俺と共に、ベンダバールへ戻れ』
向かい合うプラドの瞳の色は、レオアリス自身のそれと確かに同じだ。
「これは、将軍閣下!」
扉前に控えていた近衛師団隊士が背筋を張って踵を鳴らし、総司令部を訪ねて来たアスタロトを迎えた。
「すぐ応接室へご案内致します。御用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」
恐縮した様子で尋ねる師団隊士へ、アスタロトは両手を振った。
「いいんだ、そんな大した用事じゃない。ええと――」
自分の発言を思い出した昨日の夜から、結局ほとんど眠れないまま朝を迎え、余りに居たたまれなさすぎたため、気が付いたら足を向けていたのだ。
ここへ来る道すがら
(一旦ちょっと、無かったことにしてもらおう!)
と後ろ向きにも過ぎる思考に突っ走っていた。
とは言え、いざここに来てみたら、それもどうなのか、というか、そんなことはもう覚えていないのではないかという考えが急速に膨れ上がった。
「閣下――」
隊士が呼びかける声が耳に入り、アスタロトは顔を上げた。何度か呼んでいたようだ。
「え、あっ、いや――」
「申し訳ございません」
「え?」
「大将閣下でしたら、来客があり第一大隊の士官棟へ出ておられます」
「えっ、そう――なんだ」
「連絡いたしましょうか」
慌てて首を振り、括った黒髪が左右の肩を跳ねた。
「いいや、大した用事じゃなくて、ちょっと近くに来たから、顔見に寄っただけだから」
「御伝言を――」
「いいいい、へーきへーき! 仕事の邪魔してごめんね!」
手を振り呼び止められる前に素早くその場を離れる。
一番近い階段へすたすたと大股で歩き、総司令部の扉が見えなくなると、気を張って来た分拍子抜けを覚えつつ――肩全体を落とすようにほっと息を吐いた。
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