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王の剣士 七

最終章

『光を紡ぐ』

五十七



「お帰りなさいませ、アスタロト様」
 馬車の前に居並び迎えた執事のシュセールや女官達、従者達の顔を見回し、アスタロトはにこにこ笑みを広げた。
「ただいま! 留守にしてばかりでごめんね」
 アーシアが降ろした衣装鞄を従者が受け取り、階段を運んで行く。
 シュセールは御者が馬車の扉を閉ざしたたのを見て、首を傾けた。
「お荷物はお一つだけですか?」
「うん。明後日にはバージェスへ戻るから。一旦休憩して、明明後日しあさってからまた最後の仕上げに入るんだ。お腹すいた。おやつ食べたい。お風呂入りたい」
 あけすけな物言いにも慣れたもので、シュセールはにこりと笑みを返す。
「まずは湯浴みをなさって旅の疲れを落としてください。軽食をご用意しておりますので、ご夕食までの間に召し上がっていただけます」
 アスタロトならば夕食前に間食をしても、お腹が膨れてしまうということはない。
「ありがとう、シュセール」
 腕を伸ばしてシュセールを抱き締め、アスタロトは女官の前に立って浴場のある棟へすたすたと歩いて行く。
「案内係に仕事をさせてください」とシュセールに嗜められ、アスタロトは素直に女官に道を譲った。
「バージェスの状況はいかがですか」
 そう問い掛けるシュセールにさっと瞳を輝かせる。
「もうね、ほとんど修復が終わってる。みんなが一所懸命やってくれたからさ。ほんとうにきれいな街なんだよ、バージェスは。そのうちみんなで旅行に行こう。水路がね、王都よりも細いんだけど、海藻っていう水草みたいな草が揺れてて、その間を魚が泳いでたり、蟹とか貝がいたり、ずっと見てても飽きないんだ」
 身振り手振り、そこに街があるかのように語る。
「それに海も。バージェスの前、一面海なんだよ。海ってね、ハイドランジアの一番大きな湖よりもずっと大きくて、遠くまでどこまでも続いてて、青くて、沖がうっすら丸いの。そこに陽が沈むんだよ。青かった海が橙色に染まって、黄金みたいに輝くんだ。街並みも素敵でね、水路がたくさん巡ってて、あちこちに色んな装飾の橋が架かってるの」
 いつまでも話止まない勢いでバージェスの様子を語る主人に一つ一つ頷きながら、シュセールは傍を歩くアーシアと視線を合わせ、にこりと微笑んだ。



 長老会――
 が、開かれる。
 アーシアに入浴後の髪をとかしてもらいながら、シュセールの報告にアスタロトはくしゃりと表情を崩壊させた。
「いつ……」
「今夕でございます」
「やだぁ……」
「朝、長老会からお申し入れがございました」
「断ってぇ……」
 アスタロトは座っていた長椅子の枕を抱え込み、ぼふりと長椅子につっぷした。
「――」
 シュセールは黙して端然と立っている。
「――」
 アーシアはまだ櫛を右手に持ち、つっぷしたままのアスタロトとその前に真っ直ぐ立つシュセールを交互に見た。
「――」
 かち、こち、かち、こち。
 時計の針が進む音だけが部屋に流れている。
 アスタロトはつっぷしたまま、やがてぷるぷると震え出した。
「――」
 シュセールは黙ったままだ。
「うわぁぁん! わかったよ! 出ればいいんでしょ! 出れば!」
 アスタロトはがばりと跳ね起きた。
 シュセールが恭しくお辞儀する。
「長老会からお申し入れを受けられた当主としては、謹んでお受けする、とお答えを」
「うわーーーん!」
「その後、長老会主催の晩餐もございます」
 奥の壁に向かってアスタロトは枕を投げつけた。



「バージェスの復興も順調に進んでいるとのこと、お慶び申し上げます」
 アスタロト公爵家長老会筆頭、ソーントン侯爵はゆるゆると顔を伏せた。居並ぶ他の長老達も同時に一礼する。
 ソーントンは伏せた時と同様、ゆっくりと顔を上げた。
 こけた頬と双眸が厳しく気難しい印象を与える。
「本来は」
 渋い響きだ。
 本能的にアスタロトが首を竦める。
「公爵家当主御自身が、王都を二千里も離れた地へ長く滞在されるというのは、公爵家運営上好ましいことではございませんが――」
「長老会を信頼してるから」
 にっこり微笑んでみたがソーントンだけではなく他の長老達にも細い目で見られた。
 必死で過去の成功体験を手繰る。
「ほ、ほら、みんなが庭師、私は庭。みんなが庭を整えてくれるからこそ、安心して花を咲かせられるっていうか」
「あちらこちら落ち着きなく飛んでいく花を育てようと思っている訳ではございません」
 うっと首を引っ込める。
「や――、でもさ、考えてみれば母様も行動全く同じだったかな? て。ていうか母様から見れば私なんてまだまだ芽を出したばっかみたいなもんだよね」
「先代公の放浪癖にどれほど私共が気を揉ませられたかをこの場で語らせて頂いてもよろしゅうございますか」
 うっ。
 とアスタロトは胸を押さえた。息苦しい。
「すいませんでした」
 思わず、というように笑い声を漏らしたのはコットーナ伯爵だ。温和な口元を手で覆っている。
「ソーントン侯爵、どうかその辺で」
 穏やかさが滲んだ声でソーントンを宥めてくれる。
 コットーナ伯爵はこの長老会の良心だ、とアスタロトは独りごちた。
「ところでさ」
 アスタロトはちらりと、コットーナ伯爵の傍らを見た。コットーナの隣には夫人が同席している。
 エレノア・コットーナ。アスタロトの母の伯母、アスタロトからすれば大伯母に当たる。
「今日、伯母上がいるのは、――」
 色々思い浮かぶこと――特に、以前からエレノア・コットーナ夫人の人生の命題のようになっているのではと思う件について――から、アスタロトは敢えて目を逸らした。
「私の帰還を祝ってくれるからかな?」
「アスタロト様。貴婦人の言葉遣いはそのような」
「あーあーあー! ええ、分かっててよ!」
 おほほ。
 アスタロトは手の甲を裏返して口元に当て、楚楚と笑って見せた。
 長老達の目がますます細くなる。
 エレノアは小さく咳払いをし、まだ取って付けたように微笑んでいる当主を見つめた。
「わたくしがここにおりますのは、貴方様のご婚姻のことをお話する為ですわ」
「コットーナ伯爵夫人」
 ソーントンが声を差し込む。
「その件は、後ほど」
 エレノアはふっくらとした両手で優雅に口元を押さえた。
「大変失礼致しました」
 アスタロトはつい零しそうになった息を堪えつつ、ふと、ソーントンの目が普段の彼らしくない気まずさのようなものを含んで自分へ向けられたのに気が付いた。顔を向けるとソーントンの目が泳ぐ。
「?」
 とは言え、議題を後回しにしても今話しても、アスタロトの回答は変わらない。
「いいよ、今話そうよ。先に」
「しかし――」
 また、ソーントンが似つかわしくなく口籠もる。
「気にしないで。今は結婚する気ないから」
「まあぁ、それはいけません!」
 エレノアの声が上擦る。
「公爵家当主として相応しい伴侶を得、そしてお子を得てアスタロトを連綿と繋いでいくのが大切な責務なのですよ。わたくし達がアスタロト公爵家の当主に相応しいお方を探して差し上げますから」
 早口で淀みない口調がいかにもエレノアだと、懐かしさと安堵すら覚え、アスタロトは「伯母上は変わらないな」と苦笑を忍ばせた。
「爵位を継がれてからもう四年も経っているのですよ。そもそも爵位継承の折に、貴方のお相手としてお二人、とても相応しい方がいらっしゃったのに貴方ときたら」
「エレノア」
 傍らでコットーナ伯爵が嗜める。
「そうは言っても、当主のお気持ちが一番だろう」
「まあ、貴方はまたそのようなことを。貴族の、こと公爵家のご婚姻は個人の想いだけで左右できるものではないのを、貴方もよくご存知でしょう。――ええ、ですが、あのお二人も」
 ベルゼビア公爵家のブラフォードと、ヴェルナー侯爵家のロットバルト。
「ヴェルナー侯爵は五月で陞爵なさることとなりましたし、ブラフォード様も……。結局、貴方がどちらも選ばなかったのは、正解だったと言わなくてはなりませんね」
「正解とか、伯母上。私はその言葉は使いたくないよ」
 エレノアははっとして、悄然と頭を垂れた。
「ええ、ええ――ごめんなさい。そのような言葉を選ぶべきではありませんでした」
 ベルゼビア家は廃絶し、ブラフォードは負傷が癒えぬまま、命を落とした。ベルゼビアの後継者として、爵位を返上して。
 アスタロトはふと、窓の外を見た。
 夕焼けが窓を染めている。
 ブラフォードの訃報を聞いたのは昨年の秋、ボードヴィル包囲前の、サランセラムの丘だ。
 あの時見たのは、暮れかけた白く遠い空と、西陽が投げ掛ける輝く朱金と橙色の筋。
 ブラフォードの最後の手紙が、手の中にあった。


『お前はそのままでいればいい』


「――コットーナ夫人の仰る通り、アスタロト公爵家当主として、いずれは伴侶を得て頂くことが肝要です」
 ソーントンはそう言った。
「ですが、今すぐとくこともありますまい。当主は、これから若い王太子殿下――新たな国王陛下をお支えし、国家体制再構築に尽力なさる身。お気を煩わせることは少ない方が良い。それにまだお若い御身に、選択の余地を狭めなくとも良いのでは」
 えっ、とアスタロトは顔を上げた。
「ソーントン……」
 彼からそうした言葉が出てくるとは思っていなかった。
 ついまじまじと筆頭長老を見つめる。
「私のこと、そんなに考えてくれて……ありがとう……」
「わ、私は、全体を考えてのこと――」
 こけた頬に赤味を差し引き攣らせ、ソーントンはひとつ咳払いを落とした。
「とにかく。婚姻は、適切な時期を今後の状況の中で判断すれば宜しかろう」
 ソーントンの提案に挙がる反論はなく、長老会の議題は領地の現況確認へと移った。



「美味しかったぁー! すごいご馳走様だった!」
 満足気に息を吐き、アスタロトは寝椅子に顔から倒れ込んだ。
 羽毛を包んだ絹張りの枕が顔を柔らかく迎えて受け止める。
「やっぱりフランベの作るご飯は美味しいし、マカロンのお菓子は最高だね!」
 長老会が開いた晩餐に対するのびのびし過ぎた感想を、つい先日のレオアリスが聞いたら「さすがアスタロト」としみじみ思うだろう。ロットバルトも。
「宜しゅうございましたね」
 アーシアが行儀を嗜めつつ、そう笑う。
 アスタロトは枕から半分顔を覗かせて頷いた。
「うん。それに、みんな優しくなった……」
 四年前は分厚く高い壁のようだった。
 公爵家当主として相応しくあることしか求められず、ただその型に嵌れと言い、彼等に取ってアスタロト――アナスタシアは取るに足らなかった。
 四年前と今とでは、彼等の顔の印象すら大違いだ。重ねてきた日々の中で、それなりにアスタロトも歩み寄り、彼等の期待に応えるよう努力したと思う。
 その結果と考えていいのだろう。
「エレノア伯母上がいつもどおりでさ、貴婦人がとか結婚が、とかもう」
 アーシアはほんの少し、息を飲み込む。
 アスタロトは寝椅子に腹這いになったまま、両足をぱたぱたと振った。
「そしたらソーントンが口出してくれて、みんなもそんなの今別にいーじゃんって」
 そのような言い方はしていない。
 が、四年前の長老会だったならば、有無を言わさず結婚を推し進めようとしたはずだ。
 信頼関係が築けたからこそ、アスタロトの意思を認めてくれているのだ。
「いろんなことが、すごくいっぱい、あったけど――」
 アスタロトは羽毛の枕に口を当て、肺に溜めた息を吹き込んだ。



「アスタロト様――?」
 唐突に反応がぱたりと途絶えて様子を見れば、アスタロトは羽毛枕に突っ伏したまますっかり眠りに落ちていた。
 こんなところで、と思ったものの、寝椅子でうたた寝する方が、寝台よりも却って気持ち良く眠れたりするものだ。
 ほんの束の間好きなように眠らせてあげようと、アーシアは壁に模した棚から柔らかな掛布を取り出した。




『何もわかってない』


 朝陽が差し始めた長い廊下には、二人の姿しかない。
 言葉は唐突に溢れた。


『レオアリスは、何もわかってない』


 驚いた表情。


『私がレオアリスの事を好きだなんて――考えた事もないでしょ』


 全ての音が消えた気がした。
 身体が震える。
 きっと呆気に取られて――呆れている。
 それでも、膨れ上がる気持ちが止まらなかった。


『好きなんだ』






 ……ぁ あ あ   あ
              あ

「――ぁぁぁあああああああ"あ"あ"あ"あ"!!!!!」
 心の奥底から噴き出した羞恥心の叫びが自分の喉を突いた響きで、アスタロトは飛び起きた。
「ヴあ"あ!!!!」
「ア、アスタロト様?! どうなさいました!?」
 アーシアが血相を変えて駆け寄る。
「大丈夫ですか!」
「だいじょぶじゃない……」
 アスタロトは再び枕に突っ伏した。
 はらはらと心配したアーシアの手が背中を優しくさする。
「どこか、苦しいところとか、痛むところとか……」
「地下にもぐりたい……」
「はい?」
「戻って首絞めたい」
「えっ、えっ?!」
 思い出すと耐え難い。
 王がイスへと発つ、あんな緊迫した時に自分は何を口走ったのだろう、と――
(イスへ――)
 胸が突かれたような気がした。
 そうだ。
 あんな時に。
(どうしよう、駄目じゃないか私)
 すごく駄目だ。
 レオアリスはあの時のことを覚えているだろうか。
『帰ってきたら、話をしよう』
 そうレオアリスが言ったのも、イスに発つ前のことだ。
 全てが始まる前のこと。
 失われる前の。
 どうして今更、あのことに触れられるだろう。
(どうしよう――ええと……)
 明日、王城には行くが、レオアリスと顔を合わせる予定はない。
 そのことに自然と安堵の息が溢れた。
(合わせる顔がないよ)
 体調が戻っているか、無理をしていないかそれが気になるが、もう少し考えてからでないと会えない。
 アーシアが優しく撫でる手を背に感じながら、アスタロトは枕にぎゅっと顔を押し付けた。












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2022.3.27
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