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王の剣士 七

最終章

『光を紡ぐ』

五十三




 しんしんと雪が降っている。
 暗い夜空から湧き出すように次々と降りてくる雪を眺めていると、色々なものがその一片ひとひらに乗って心の中に降りてくる。
 故郷の村のこと。そこで過ごした日々と、育ててくれた祖父達の顔。
 黒森の奥に、雪に埋もれたルフトの里。幼い頃の記憶にある、祖父達が祈る姿。
 バインドと剣を合わせた感触は思い起こせばまだ腕に残るようだが、それでも遠く、白い世界の向こうに塗り込められていく。
 白い輝きの中に立っていた父の姿と、力強い笑み。
 それらはこれまで過ごしてきたものであり、過去に置いて来たものであり、一つ一つが今の自分を構成するものだ。
 いつからか、王都に行きたいと願っていた。
 ただ強く――
 焦がれるように。



 思索に深く沈んでいたのか、暖炉の火が伝える温もりにうとうととしていたのか、扉が開く音でレオアリスは目を開けた。
「お待たせしました」
 拙い、と慌てて立ち上がったが、入ってきたのはロットバルト一人で他には誰も伴っていない。安堵に息を零す。ロットバルトが廊下に声をかけたところを見ると、執事か従者はいるのだろう。
 レオアリスの様子と立っている場所を見て、ロットバルトがやや意外そうに笑う。
「本にのめり込んでいるかと思いましたが」
「そんなスランザールかアルジマール院長みたいな……読みたかったけど、勝手に手に取るのもと思ってさ」
 本は一冊一冊、装丁も併せて財産と数えられる。自由に過ごしていい、という言葉の中には本を読むことも入っていただろうが、一応遠慮した。
「それに、この空間が最高で」
 座っていた窪みを指す。
 ロットバルトは頷いた。
「小間という、書斎に多く設けられる空間ですね。私はもう一つの呼び方、隠れ家という意味を持つ『ミスティカ』と呼ぶ方が好みですが」
「隠れ家? へぇ」
 ぴったりだ、と目を輝かせる。
「その場所は私も気に入っています。この館で一番休まる場所かもしれないな」
「俺はこの一角に住みたい。子供の頃だったら絶対ここを隠れ家にした」
 半ば本気で言うとロットバルトは笑った。
「本がこんなにあるのが羨ましいし。ずっとここに籠ってられるよな」
「一階に図書室がありますよ。気になるようでしたら、後でご案内しましょう」
「図書室……」
 これに加えてかと、レオアリスは唸った。どこまでどんな設備があるのだろう。
 でも見せてもらおう。頬に笑みが浮かぶ。
「ロットバルトはここの本、全部読んだのか? これだけでもすごい数だと思うけど」
「ここは父の書斎を引き継いだものですので、爵位を継ぐまで読むというよりここに入る機会がありませんでしたが、ここにある書物は私が暮らした館にも一部ありましたし、大抵は王立文書宮で読んでいます」
「そうか――」
 その言葉は父侯爵との確執が、この館の中でどのように表れていたのかを端的に示しているようだ。
「ファルシオン殿下の近くに控えるようになれば、居城の図書館にも出入りできますよ」
 そう言ってロットバルトは改めて、レオアリスに向き直った。
「今日は長老会の急な招待に応じて頂き、有難うございました」
「招待というか、召喚のような……」
 つい本音が出てしまったのは常に気を抜けない状況だったから仕方がない。
「でも長老会に招いて頂けて良かったと思ってる。ヴェルナー侯爵家には本当に色々と助けてもらってるし、ロットバルトの苦労がほんの少しだけど解った気がしたしな」
 あんな毎日を送ったら、それは周到な性格にもなるだろう。アスタロトがそうならなかったのははなはだ疑問だが。
(アーシアがいたからか)
「それと、前に礼儀作法を一通り叩き込まれてたおかげで、今日は多分何とか耐えられたと思う。助かったよ」
 ロットバルトは以前を思い出したのか、それともレオアリスの辟易した表情にか、可笑そうに笑った。
「充分相応しい対応でした。それに貴方は今後、近衛師団総将としてこうした場に接する機会も多くなるでしょう、いい予行演習と考えて頂ければ」
 ロットバルトは暖炉前の長椅子の肘置きに無造作に腰掛けた。
 長老会や晩餐の場では一分の隙も無くヴェルナー侯爵家当主として完璧な振る舞いだった分、近衛師団時代を彷彿とさせる。
「いや、任務は警護だから直接そういう席には着かないだろう。大丈夫だって」
「そうは行かない時もあるでしょう。それに席に着かずとも、所作一つが貴方への評価であり、引いてはファルシオン殿下への諸侯の眼差しに繋がっていきます」
 レオアリスはぐっと口を噤み、それから観念混じりの溜め息を零した。
 それはいつもレオアリスが、自分の行動で王の威信を損ねないようにと考えていたことと同じだ。
「解った」
 ロットバルトが椅子を改めて勧め、暖炉の側に斜めに向かい合う椅子に腰掛ける。
「そうだ。会ったら言おうと思ってた。クライフとフレイザーが結婚するんだ」
 ロットバルトのこの種の驚いた顔を初めて見たように思う。
 一拍の間があった。
「それは、フレイザー大将から……?」
「いや、クライフからだよ」
 どれだけ及び腰と思われているのかと、レオアリスは苦笑した。
「一昨日、結婚を申し込んだ」
「驚いたな」
「率直過ぎる」
 もう一度笑い、「俺もちょうどその場にいたけど、フレイザーが頷いた後のクライフの喜びようは見ててこっちまで嬉しくなったし、二人の結婚自体も本当に嬉しい。結婚式、まだ日は決まってないけど招待するってさ」
 今度はまた別の驚きを瞳に乗せ、ロットバルトはその面を和らげた。
「それは、嬉しい知らせですね。楽しみにしていると伝えてください」
「二人とも喜ぶだろうな」
 深く頷き、それからレオアリスは長老会前の応接間での出来事を思い出した。
「あともう一つ――昼間、前侯爵夫人が訪ねて来られた」
「ブロウズから聞いています」
 ロットバルトは軽く目礼した。
「礼を失したようで、恐縮です」
「いや、俺の方こそ対応が失礼じゃなかったか、気になってたんだ。それにあの場にブロウズさんがいてくれて良かった。その後ルスウェント伯爵も来て……」
 思い出すと今更ながら背筋が突っ張りそうだ。
「適切な対応をして頂きました。そもそも家内の問題を来客の前に持ち込むことが、まず心得違いなのですから」
 ロットバルトは笑みを浮かべて返したが、言葉選びはやや厳しい。
「父が亡くなったことで彼女は後ろ盾を失っている。その不安は解らないではないんですが、主張の仕方が受け入れ難い」
 意外だな、と感じる。近衛師団にいた頃はほとんどヴェルナーに、特に感情面から触れることは口にしなかった。
(珍しく、迷ってるのか)
 独白に近いのは、考えを整理しているからなのかもしれない。
「父との間の娘――私にとっては異母妹がいます。無碍にするつもりは無いのですが」
 距離を感じる言い方なのは相変わらずだ。父侯爵だけではなく異母兄であるヘルムフリートとも年に数回顔を合わせればいい方だと、そう言っていたことがあるから、妹も同じかそれ以上に顔を合わせていないのかもしれない。
 ヴェルナーが複雑なのか、それとも貴族にはそれなりにあることなのか――これだけ大きな屋敷が当主の為のものであり、子息は別の館で暮らしていることが隔たりを生み出しているのは解る。
 そこを埋める行為がなければどうしても隔たったままだ。
 自分がどこまで踏み込んでいいのか迷うところだが、滅多に無いことを口にしているのなら、第三者の意見があってもいいのだろう。
「時間が取れるなら、いや、時間を取って話をしてみるといいのかもな。妹さんとも。結構離れてるんだっけ? 年齢は?」
「たしか十三――、十四歳か――」
(胡乱過ぎる……)
 突っ込みを飲み込む。
 ロットバルトは「来年は社交の場に出る年齢だな」と呟き、その瞳を暖炉の火に向けた。
 レオアリスも暖炉の中で揺れる炎を見つめた。
 揺らぐ炎は窓の外に見た雪と正反対でありながら、同じように幾つかの記憶を思い起こさせる。
 生まれた時に周囲を焼いていた炎で有り、剣が纏う炎でもある。
 アスタロトを象徴する清廉で清烈な炎――それはまだ顔も合わせる前、暗い夜に空から一直線に降ったものだ。
 それから赤竜の焔。風竜の白い骸を浄化したそれと、ナジャルを焼いた苛烈な焔と。
 降りしきる雪を見るごと、揺らぐ炎を見るごとに思い起こされる記憶に、これまで過ごし積み重ねて来た時間を感じるのは多分、今が思いがけず訪れたような、転換の前の穏やかな時間の中にいるからかもしれない。
「――この後、五月まで一層忙しくなるんだろうな。ちょっと俺寝過ぎてたし、気持ちを入れ替えないと。現状をもう少し詳しく教えてもらってもいいか」
 目が覚めた後、王城で療養している間に話を聞きはしたが、ロットバルトの方がまとまった時間は取れていなかった。その為の今の時間でもあるのだろうし、これを逃すとロットバルトからゆっくり話を聞ける時間もそうは取れない。
「では、地図でも見ながら話をしましょうか」
 ロットバルトは立ち上がり、壁を埋める書棚の一段から幅の広い革張りの書物を一冊、引き抜いてきて文机の上に置いた。一抱えはある表紙を開くと、通常の項ではなく紙が折り畳まれている。広げるとそれは一枚の国内地図になった。
「便利だな」
 感心しながら覗き込むレオアリスへ、ロットバルトは指先でまずボードヴィルを指した。
「まず、ボードヴィル。ここは現在、一時退避した住民達も戻り、破損した砦城や街の修復をほぼ終えています。周辺、シメノス河川域やサランセラム丘陵についても、戦闘により受けた損壊は七割方戻っていると報告を受けたところです。一点、西海戦で破壊された上下の堰はこれからの作業になるでしょう」
 続いて、正規軍第六大隊軍都であるエンデについては、避難民の内定住した者と帰農を選んだ者とがあり、エンデが以前より都市として活性化している分、第六大隊の役割として治安維持に比重が大きくなっていること。
 シメノスを降って、河口のフィオリ・アル・レガージュはマリ、ローデン、そして東方の大国トゥランからも、交易船が以前より多く寄港するようになったこと。
「この三国は五月のファルシオン殿下の即位式に当たって、国賓として招待状を送っています」
 国賓を迎えることができるのも、西海の脅威が無くなったことが大きい。
「バージェスはアスタロト公が指揮を取り、復興が八割方進んでいます。公がバージェスにいたからこそ、貴方を戻すことができた」
「うん。感謝してる」
 それはとても、心の中に響いた。何よりアスタロトが前を向いているのがわかる。
 あの時・・・――バージェスから、イスから戻ったアスタロトに対しては、何を言えばいいのか、判らなかった。
「バージェスは復興後、王家直轄領になります。ちょうど『一里の控え』の内側ですね」
 西海との戦い、泥地化の影響で『一里の控え』――不可侵条約締結の際、双方の軍配備を制限していた区域だ――を表す指標石は泥に埋もれた。指標石は戦いの爪痕を後世に遺し戒めとする為に、半分土に埋もれた現状のままにするのだという。
 ロットバルトは指先をバージェスから東方ヴィルヘルミナへ移した。
 十月のベルゼビアとの戦い。ヴィルヘルミナの街は直接的な被害を受けなかったこと、その後王家直轄領となったことから、賑わいを保っている。
「ヴィルヘルミナは五月の、ランゲ侯爵の陞爵後、公爵領に戻されます」
 ヴィルヘルミナが東方公領、フィオリ・アル・レガージュは自治領的性格を有するものの属するのは南方公領、ボードヴィルやエンデは西方公領に含まれる。いずれも街や農作物等を通じた税収、利益の一部は各公爵へと入る。
 一方、領地内にフォアなどの中規模な街を有しつつも、農作物の生産量としては他地域に遅れを取る北方公に対しては、王都周辺に領地を多く配分され、また唯一『大公』の称号を与えられていた。
「戦乱で荒れた土地も正規軍がその土地の農民達と協力し、整備や新たな開墾を行っているところです。春――もう来月には各地で種蒔きが始まるでしょう。北、東の辺境部では魔獣の流入が収まり、各地の交易も活性化しています。今後、国内の物流をより一層活性化していく方針ですが」
 地図上を動かしていた指先が王都近郊に止まる。
 北西、森林が広がる辺りで、王都からは馬で半日ほどの位置だ。
「そこは?」
「明後日、アルジマール院長がファルシオン殿下に面会することは聞いていますか」
 返ったのは直接的な答えではなく、レオアリスはどんな流れになるのか首を傾げつつも頷いた。
「聞いてる。城外に出られるご予定で、場所までは聞いてないが俺も警護に同行する。そこが関係するのか?」
 ロットバルトはやや含んだように笑った。
「そうですね。大公も同席された上で、アルジマール院長からファルシオン殿下にお見せしたい物があるんです。貴方にもとても面白い内容だと思いますよ」
 こういう物言いをした時は、これ以上聞いても答えは出てこない。
 話の流れから国内の物流活性化に関連する案件なのだろうと判るくらいだ。
(街道整備――アルジマール院長が絡むんなら、転位陣の活用かな)
 魔獣の流入で、大切なことを思い出した。
「一つ、頼みがあるんだけど」
 そう言いながら時計を確認する為に顔を上げ、『隠れ家ミスティカ』の窓の向こうに気が付いた。
 夜の中、白い雪が止まることなく降り続けている。
「雪が強くなってるな――」
 更に確認しようと立ち上がり、ミスティカの床に手をつく。
 手のひらと体重を適度な弾力が受け止め、ここで昼寝したいな、とまた思う。雪景色を見ながらも良さそうだ。ロットバルトも傍らに立った。
「雪がだいぶ積もってる。王都でこんなに降るのは珍しいんじゃないか? 俺が王都に来てからは、ここまで降ったことがなかった」
 吐いた息が窓硝子を白く染める。そこに雪の粒が降り、繊細で精巧な結晶を束の間覗かせた。硝子を伝わる室内の温度にか、結晶はじわりと溶けて形を崩していく。
「これだけ積もると馬車も移動は厳しいでしょう。客間を用意させましょう」
 確かに、窓から見える庭園も、植え込みと通路の違いが分かりにくくなっている。一刻前は歩いてもいいかと思っていたが、さすがに正式軍装で、この雪の中を官舎まで一刻近く歩くのは億劫だ。
 ちょっと鈍った気がするが。
「そうさせてもら――えっ」
 頷きかけてから、レオアリスは重大なことに気が付いた。
「長老会の方々も、いらっしゃるよな?」
 ちらりとロットバルトを見上げる。
 残念ながらあっさり肯定が返った。
「あの後談話室に移っていますので。彼等も今から馬車は出さないでしょうね」
「ってことは明日の朝も、まさか」
 あの顔ぶれの重苦しい雰囲気の中に座ることになるのだろうか。
「安心してください。さすがに朝からあの空間は私も遠慮したい。朝食の席は別に用意します」
 ロットバルトの言葉にレオアリスは心底ほっとした。
 となればここ・・で寝たいな、ところりと調子よく考え隠れ家ミスティカを見回す。
「それで、頼みとは」
 そうだ、とレオアリスは顔を戻した。
「お礼を言いたい人がいるんだ。黒森での、魔獣の対応に」
 カイルとセトが、今日ここに来る時に、くれぐれも礼を伝えてくれと言っていた。





「エイセル、御館様の御用件は何だった」
 書斎から戻ったエイセルがどこか驚いた様子をしているのを見て、ブロウズは注意深く問いかけた。半刻ばかり話をしていたようだ。用件で呼ばれたにしては長い。
「近衛師団大将閣下からお礼の言葉を頂きました。昨年の、秋の対応で」
「ああ」
 ブロウズは注意深く見ればそれと判る程度、笑みを浮かべる。
 表向きは従者だが、二人とも間諜や荒事をこなすのが本来の役割だ。
 辺境部の魔獣流入が激しかった時期、エイセルは黒森で、カイル達の村の周辺を警護する任務に当たっていた。白毛と呼ばれる現地に元から生息していた魔獣もあり、なかなかの経験をしたのは聞いている。
「それで驚いていたのか」
「いえ、それもありますが、お言葉自体は大変有り難く、拝領致しました。黒森での話などもさせて頂き、カイル殿とセト殿が王都へいらしていることも、僭越ながら嬉しいと」
 ブロウズの視線にエイセルは「珍しいと思いまして」と言った。
「珍しい?」
「御館様があんなふうに笑っておられるのは」
「ああ」
 王城の居室に控えていたブロウズにも、エイセルの言いたいことは判る。
 レオアリスと話している時は、ヴェルナー侯爵としての顔とは纏う空気が異なった。
 他家であれば、次男の立場として問題なく――言い方はあまり適切ではないが――重責に縛られない生き方ができただろう。
 今、状況だけを見れば、物事は在るべきところに進んでいくのだとは思うが。
「前の御館様はヴェルナーを強固に安定させてこられた。その上でロットバルト様に代替りされ、足元が動き出した感があるな」
 そもそも前侯爵であれば、相手が望んだとしてもエイセルの立場で客人の前に立つことは考えられないことだ。
 エイセルは上階を透かすように見上げ、頷いた。
「色々と、喜ばしいことばかりではありませんでしたが、やはり御世が動いているのだと実感しますね」









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2022.3.13
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