四
「戻ってくるって、約束した――」
細く、押し出された声が震える。
それまでファルシオンを覆っていたものは流れ落ち、ただ幼い、五歳の子供に戻った。
「私は――」
ぎゅっと一度、唇を引き結んだ。
零れそうになる涙を堪えて瞳を見開き、声を懸命に絞り出す。小さな背中が丸まるのを、堪えて顔を持ち上げている。
「――父、上が、私に、会いに来て、くださったのだ」
身体の傍に握りしめられた両手は血の気を失い白く、そこに全ての心を押し込めているようだ。
「私は、レオアリスのことを、ち、父上に、お聞き、して――」
でも、と言葉を詰まらせた。
喉の奥に引っかかった言葉を押し出そうとしている。
口にするのは怖い――けれど、一人では抱えられない。
ファルシオンは辛うじて持ち上げていた視線を、足元に落とした。
「でも……、父上が、何とおっしゃったのか――わか、わからなかった……っ」
ファルシオンの喉から嗚咽が零れ、あっという間に激しく泣きじゃくる声に変わった。
膝をついたロットバルトにしがみつく。大粒の涙を零す顔を胸に埋め、それでも抑えきれない声が痛みとなって室内を埋めた。
アスタロトは自分の目の奥が熱を持つのを感じた。
どうして守れなかったのだろう。
共に戦っていたのに。
肩を並べられたはずだ。そうしたら、アスタロトもあの時、ナジャルと対峙していたら。海の中にでも、何でも、構わずに飛び込んでいたら。溺れたって良かった。
あの瞬間、レオアリスが一人でなければ。
そうだったなら、結果は変わっていたのではないか。
(私が――)
また。
王の時とまた、同じことをしたのか。
届く場所にいて。
全身が焼けつくように苦しい。自らの炎に焼かれた時よりもずっと。
「――公」
ロットバルトに呼ばれ、重い視線を持ち上げる。視界が滲んで、淡い光とロットバルトの姿が混じっている。どんな表情でアスタロトを見ているのだろう。
アスタロトは唇の端を無理矢理上げた。
「だ……大丈夫だって、あいつ、今までだって全然、結構やらかしてたけど、そんなの平気だったし、剣士だし、こないだなんか半年も寝てたし……っ」
顎を上げ、喉から声を押して笑う。
「いつものことだもん。平気。戻ってくるよ。私、見つかるまで探すし」
競り上がる感情を抑え込む。
「探すから――、きっと、戻っ」
「公」
もう一度、ロットバルトはアスタロトを呼んだ。
その姿が滲んでいる。
いつだったか、同じ光景を見た気がする。
「私が来たのは、この為です」
その声は静かだった。
強く在らなくてもいい。
ファルシオンと同じ、吐き出せばいい。
この場に、取り繕う立場は無いのだと――
「――う、」
押し殺していた感情が急速に吹き上がり、もう抑えることができず、アスタロトは気づけばぼろぼろと涙を零していた。
床にぺたりと座り込み、両手をついて身体を支え、声を振り絞り出す。
「い――、辛い――辛いよお……」
辛い。
痛い。
苦しい。
今になってようやく、王が戻らなかった時のレオアリスの想いが判る。
どれほど苦しく、そして信じたくなかったか。
どれほどの想いを抱えていたか。
「――帰って来てよ……」
それだけでいい。
たったそれだけのことだ。それさえ叶うのなら――いらない。
(他のことなんてもう、望まないから――)
ああ。
思い出した。
滲む光景を、どこで見たか。
『泣かなくていい――』
ロットバルトはアスタロトへ向けていた視線を落とし、手のひらの下の熱に意識を向けた。小さな身体は感情を迸らせ、震えている。
膨れ上がる感情を少しでも吐き出せば、幾らかは楽になるのだろうと、そう思う。消えてはいかず、ある日不意に甦ってくるものだとしても、今はただ吐き出すことが必要だ。
静かな憤りが自分の中にもある。
どこで、何を見誤ったのか。或いは見落としたのか。
戦略か、戦術か。戦力か。
いいや――
(解っている)
誰しもが命を落とす可能性があり、実際に数え切れない命がこの七か月の間に失われた。
認めたくないだけだ。
戻らない。
その結果だけは無いと、浅はかにも考えていた。
ならばその可能性をも考慮に入れ、対応する手段を用意しておく必要があったのだ。
だが考えるほどに、思考は行き詰まる。
(――どこに)
どこにその札があっただろう。
あの戦場のどこに? 兵を海域に展開させるべきだったのか? 法術士をボードヴィルの防御に回さず、戦場へ注力させるべきだったのか?
「――」
息が詰まる。
今、この状況で考え直してさえ、その選択は無い。国家としての選択だ。
兵達の命を無駄に失わず、そして次代の王となるファルシオンを守ること。いずれが失われても、国は傾く。
これは結果だ。
自ら動かせるもの、動かせないもの、様々な要因が組み合わさった末の、ただの結果に過ぎない。
それがただ、どうしようもなく受け入れ難いだけで――
窓に目を向ける。
通りに響き始めた復興の活気。
四角く切り取られた空は、どこまでも広がり見通せた。
フィオリ・アル・レガージュの人々は、ファルシオンがレガージュを発つ時、幼い王子の姿をじっと見つめ、その言葉に耳を傾けた。
苦難と戦いの日々を労い、そして彼等の守護者へ敬意と敬愛を示すのを。
その傍らに、三月にファルシオンがレガージュを初めて訪れた時にいたはずの、剣士の姿がないことを。
自分達と同じ喪失感を抱える王子を見つめ、向き合っていた。
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