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王の剣士 七

最終章

『光を紡ぐ』

三十九


 中庭の水場で、子供達が凍りそうなほど冷たく澄んだ水を手のひらで跳ね上げている。水飛沫と合わせて数人の笑い声が空に弾けた。
 王都中層の建物はほとんどが集合住宅で、一区画ごと、ロの字型に造られた建物の中心に中庭が置かれ、区画の住民達の憩いの場になっているのが一般的だった。
 中庭にある水場は蛇口を持たない煉瓦造りの吐水口で、絶えず細く水を零していた。王都全体に巡らされた水路――いわゆる上水道から止まることなく流れてくるものだ。
 吐水口からの水は炊事や洗濯、共同浴場等に用いられ、排水は水路を通って地下の下水路に流れていく。
 小高い山に似た、斜面で形成された街でありながら上下水道が機能しているのは、王城地下に設けられた地下水の汲み上げ装置によるもので、王が敷設し、地下中心部近くにある黄金の球体により管理されていた。
 王自身が去った今も、その機能は変わらず維持されている。
 上下水道、運河。四方面の主要街道につながる大通り、各地区を繋ぐ『ガルド』。
 そうした都市機構が生活を支える為に変わらず維持され、住民達が平穏の中で自らの日々の暮らしを営んでいくことが大切だ。
 これまでいた誰かがそれらを造り、維持し、そして守ってきたからこそ当然の、受け継いでいくものとして。
 水飛沫が足元の細い水路に落ちて流れを揺らし、再び小さな手が水を跳ね上げる。
 マリーンは午前のまだ早い中庭に響く子供達の笑い声と、窓の外で水飛沫が弾く陽光に目を細めた。
 あの長い戦いを切り抜けたから今の光景があるのだと思うと、自然と息が零れる。
「レオアリスが戻ってきてくれて、街のみんな喜んでるわ」
「そう。私も、そんな風に聞くと嬉しいな」
 マリーンと向かい合い、ティエラは紅茶の器を口元に運んで微笑んだ。
 やや厚めの器だが、丸みを帯びた縁は飲みごごちが良い。王都にある窯で作られた陶器で、若草色の下地に黄色に花びらの模様を散らした、マリーンのお気に入りだ。
 同じ模様の皿には硬貨のような形をした焼き菓子が盛られている。
「私もう嬉しくって、お店に来る人来る人みんな捕まえて話し込んじゃった。ていうか、一人話したら次から次に聞きに来てね、レオアリスが戻ってくれたおかげで、昨日の売り上げここ最近で一番だったわぁ」
 春になったら、黒森に香木を仕入れに行かなくちゃ、とマリーンは悪戯っぽく言ってみせた。
 それからゆっくり息を吸い込む。
「本当に――、帰って来てくれて良かった」
 デント商会がレオアリスと縁が深いのは中層ではそれなりに知られていて、『王の剣士が戻ったようだ』と話が流れてから、どんなふうに戻ったのか、どこにいたのか、どんな状態なのかと聞きにくる客は後を絶たない。
 今も店先で、デントとダンカが熱心な来客と話し込んでいる声が、扉の向こうから時折漏れてくる。
「早く会いたいなぁ、店にまた顔を出してほしいわ。でもまずは会う人達がたくさんいるでしょうね」
「本格的に意識が戻ったのが一昨日だから」
 負傷が重かったのは、ティエラの話で聞いていた。
 確かにまだ起きて二日では動けないでしょうね、と返そうとしたら、ティエラは
「もう今日ぐらいにはそれなりに歩き回れると思うわ」
 と言った。
「剣士って――ううん、いいわ。それなら良かったし!」
 手を伸ばし、皿に盛った小さな焼き菓子を一つ口に入れる。
 小麦粉と卵を使って焼いた菓子はさくりと気持ちの良い歯ごたえを返し、ほろほろと甘く口の中で崩れる。
 こんな他愛のない菓子も、去年は滅多に焼くことはできなかった。小麦も品薄で、そうなると菓子には回せない。
 ほっとする甘さに笑みを浮かべ、それから紅茶を一口飲んだ。
「おじいちゃん達が王都に来たおかげよねぇ。戻ってきて安心したでしょうね。レオアリスとどんな話をしたのかしら。多分会ったのって一年振りくらいじゃないかな」
「プラドがもう少しお喋りだったら、色々聞けるんだけど」
「プラドさんがお喋りなのは想像つかないわぁ……」
 想像するとちょっとこわい。
 それからマリーンは、プラドはレオアリスと何を話したのだろうと、その質問を喉元まで登らせ――口にするのを止めた。
 代わりに素早く、
「街の人達、気が早いからもう次の近衛師団総将は彼だろうな、とか言ってるのよ。なんて言っても西海との戦いに勝った、功労者だもん」
 と言った。
「前に――もう一年前ね、去年の三月にファルシオン殿下の五歳のお誕生日の祝賀行進があったんだけど、レオアリスがすぐ傍で警護してて、私それを見た時、いつかレオアリスはファルシオン殿下の近衛師団総将になるんだろうなって思ったもの。みんな自分こそが最初にそう思ったんだって言ってるけど」
 ティエラが笑ってくれて、マリーンは内心申し訳なさを覚えつつも、安堵を覚えた。
 ティエラ達は――プラドは、レオアリスを迎えに来たのだ。自分達の、氏族というところへ戻るようにと。
 だから、レオアリスはファルシオンの、新たに即位する王の守護の為に近衛師団総将になるのだと、それを王都の住民達も期待しているのだと、もう決まっているのだから仕方がないと、諦めてもらえれば――
「ファルシオン殿下の傍らに、近衛師団総将としてレオアリスがいたら、何だかすごく心が躍る光景だって、街の人たち、よく話してるのよ」
 まだ幼い王子を――王の傍らで護る、若い剣士。その構図に街の人々は明るい未来を見るように思っている。
 ティエラがマリーンと目を合わせ、微笑む。
 マリーンの意図がどこまで伝わったのか、さらりとした黒髪を揺らした。
「この間、カイルさん達と王都へ来た時に、王都の人達がレオアリスに感謝してくれているって知ったわ。ルフトが――レオアリスの父方の氏族ね、そのルフトが失われて、私達ベンダバールはとうに国を出ていた。そんな中でレオアリスはたった一人、孤独だったのじゃないかと、思っていたけれど」
 レオアリスに良く似た黒い双眸は、遠くを見つめるように澄んでいる。
 ふとマリーンは、ティエラ達の方が孤独なのではないかと、そんなことを思った。
「違ったのね。それは、嬉しいことだった」
「――私、」
 何を言うべきかとマリーンは迷い、紅茶の表面に視線を落とした。
 微かな波紋がゆらゆらと広がっている。
 そこに映ったティエラの姿を見上げ、ティエラがじっと卓を見つめているのに気がついた。
 卓の上の、焼き菓子を盛った皿。
 そう言えばティエラはまだ一つも食べていない。久しぶりに焼いたから、ティエラに出すのは初めてだ。
「食べて欲しいんだけど――いかが?」
 若草色の皿をティエラの方へ進める。
 ティエラは瞳を瞬かせ、焼き菓子を一つ、指先に取って、大切そうに口に運んだ。
 とたんに顔を綻ばせるかなり歳上の少女を見つめ、マリーンは微笑ましさを覚えて頬杖をついた。










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2022.1.30
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