三十八
「ひどいと思わないか? 僕がどれだけ貢献したか、君覚えてないとは言わせないぞ」
アルジマールは閉じかけた扉に片足を突っ込み、それを身体一つ分開かせようとじりじりと肩をねじ込んだ。顔も無理に突っ込んでいるせいで頬が扉の端に押され、唇を突き出したような有り様だ。
容赦なく扉を閉じようとしているのはヴェルナー侯爵家従者のブロウズで、扉に挟まれたアルジマールの後ろでは、部屋付きの王城女官がおろおろと困り果てている。
王城内の、西棟、ヴェルナー侯爵の為に整えられた居室の、寝室の入口。
ロットバルトはブロウズの右斜め後ろ、長椅子に座って書類に目を落としたまま、目も上げずに返した。
「承知しています。確かにここ一年の貴方の貢献には鑑みる価値はある」
「だったら、この彼に、扉を開けるよう言ってくれたまえ……っ」
アルジマールは更にぐいと顔を押し込んでくる。本来繊細な造りの顔が残念なことになっている。
それを前にしてもブロウズは扉にかけた手を緩めていない。ブロウズは表向きは従者だが、ヴェルナー家の荒事を担っている。主人であるロットバルトの指示がなければこの扉は開けず――主人が「締め出せ」と言われれば、法術院長であろうと迷うことなく締め出すだろう。
「ちょっと!」
ロットバルトは手にしていた書類を置いた。
身体を起こし、長い脚を組む。
「貴方の功績は功績として、この場では、まずは誓約して頂かなければ入室許可は致しかねると、そうお伝えしているだけですが」
「君は僕の大将殿に対する真摯な支援の想いを疑うのか?」
ばしばしと右手が扉を叩く。
顔を引こうとしないからずっと挟まったままだ。
「とんでもない。貴方の真摯な想いは疑う余地はありません。しかし現時点の問題は、それがどこに偏っているかです」
「偏ってるだなんて、僕はね」
扉の隙間からレオアリスがいるだろう寝台が見える。アルジマールは更に首を捩じ込んだ。
「大将殿まだ寝てる? 今のうちにお腹切」
うずうずと顔を突き出し、その顔が扉でがっつり挟まった。
ブロウズは能面状態で任務をこなしている。
「いたいいたいいたい! 人でなしか、君は!」
ロットバルトは挟まった顔を見つめ、優美に微笑んだ。
「『眠ってる最中なら腹部切開も影響ないよね? すぐ戻せばいいし治療のついでと思えば』と言った方ほどでは」
一切笑っていない蒼い瞳を見返し、アルジマールはとうとう音を上げた。
「わ――分かった、誓う、誓うよ!」
固定されたように動かなかった扉が緩み、ようやく、アルジマールは扉から顔と肩と足を引き抜いた。
主人の指示がないため、ブロウズは扉の隙間をそのままにしている。
齢四百年、この国随一の大法術士アルジマールは、その隙間から、目一杯愛らしさを演出して顔を斜め四十五度に傾けた。
「誓うから入れて。ほらほら誓約って?」
「許可された術以外は行使しない。この一点です」
「それじゃ僕の目的が達成――」
ロットバルトは流麗な笑みを浮かべた。ブロウズが扉を閉めかける。
「後ほど」
「ちょっ――ちょっと――待った! 待って! お願い入れて! ホントに誓うから! だいたい侯爵のお仕事じゃないでしょこういうの!」
「……」
アスタロトは口を出そうか出してはいけないのか、迷いつつ扉口のやりとりへ首を巡らせていたが、傍らで零れた笑いに瞳を戻した。
笑ったのはセトだ。やや物珍しそうな視線をアスタロトのそれへと合わせ、セトが笑みを広げる。
「賑やかじゃのう。いつもこうなのですかな」
「そんな訳なかろう」
カイルが嗜める口調になったが、
「うん。特にアルジマールはね」
と笑みを返しながらアスタロトは頷いた。
自分を軽く棚の上に上げたが自覚はなく、驚くよね、とまた苦笑する。
「今はちょっと変わっちゃったけど――」
アスタロトは懐かしそうに瞳を細めた。
これまで、こんなふうに他愛のないやり取りが日常的にあったのだ。
今はそれを取り戻したようで、嬉しい。
全てではないけれど。
「ずっと、こんな感じでした。近衛師団は。レオアリスがいたから」
その言葉にセトは笑みを返す。
「なるほどのう」
「ちょっと待ってくれ」
心外な声を発したのは当のレオアリスだ。
レオアリスは重ねた枕に寄りかかり、扉のやり取りからアスタロトに視線を移した。
確かに一見心温まる情景、かもしれない。
しかし「いつもこんな感じなのか」と尋ねたセトに心外だと思ったし、アスタロトにしても「ずっとこんな感じだった。近衛師団は」とか受けて欲しくはない。
「セトじいちゃん、俺は真面目にやってきたから。近衛師団も」
「ほう」
「本当だって。今回はちょっとアルジマール院長が、度を越しかけてるだけで」
「僕が何だって?」
ようやく入室が許可されたアルジマールが、やや捻れた頭巾を手で整えながら寝台のそばに立った。
「あ、起きてる」
眉を上げたアルジマールへ、レオアリスは苦笑した。
「眠れませんよ、あのやり取りしてたら」
「ちぇっ」
「ちぇ……?」
「何にしても、君が無事戻って良かった。ファルシオン殿下の嬉しそうな顔も見れたし、僕もとても嬉しい」
レオアリスは寝台の上で――と言ってももう寝ているというより、寝台の上に起き上がって胡座を組んでいる状態だが――頭を下げた。
「アルジマール院長、本当に、色々とご迷惑をおかけしました。有難うございま」
「僕がね、君を引っ張り出して傷も癒したんだよ。覚えてるかな?」
にこにこと微笑んでいる。
なんか黒い。
「え、ええ……聞いています」
「そうか」
ずい、とアルジマールは一歩踏み込み、寝台の縁に阻まれてなお上体を乗り出した。そのままずぶずぶと寝台にめり込んできそうだ。こわい。
「当然、感謝してるよね? 僕に」
「ちょっとアルジマール、」
アスタロトの援軍にほっとしたのも束の間、アルジマールは振り向いて
「僕、君の無茶振りをいっぱい聞いたなぁ」
と笑った。
アスタロトがぐっと言葉を飲み込む。
あえなく沈黙したアスタロトへアルジマールは何度か頷き、レオアリスへと顔を戻した。
「当然君は、感謝を忘れたりなんかしないし、恩を受けたら返したいと思うよねぇ」
じり、とレオアリスは寝台の上で身体を後ずらせた。
すぐに寝台の背もたれに後退を阻まれる。
「そう、思います」
「良し良し、得たり賢しだ」
それを口に出すか?と思ったが、大人の対応としては笑顔を返した。
アルジマールはゆったりした法衣の中で腕を組んだ。
「それで、これからのことだけどね。僕としては後日、ゆっくり話ができるといいなと思ってるんだ。忙しいかもしれないけど、なに、二、三日時間取ってくれればいいんだよ」
「……いや、まあ」
「いつがいいかな? 明日はあれかもしれないから、明後日とか? 明々後日? 四日後? 五日後?」
「ええと」
「……っ、ロットバルトー! アルジマールが約束破ってるー!」
アスタロトが声を上げ、アルジマールは慌てて首を巡らせた。
「や、破ってないよ! まだ!」
蒼い柔らかな――到底そうは思えないが――視線を受け、アルジマールは渋々と溜息を落とした。
「はぁ。仕方ない、とりあえず今回は諦める」
「付属が多い……」
「ほら、状態見せて」
伸ばされた手は、もう胡散臭さ、いや、危険性は感じられない。
レオアリスが寝台の上をアルジマールへ近寄って座り直すと、アルジマールは束の間レオアリスの右肩に手を当て双眸を細めていたが、ややあってその手を離した。
うん、と頷く。
「いいね。さすが剣士というところかな。もう明日は宿舎に戻って構わないよ。十四侯の協議が午前中にある、その後は近衛師団に顔を出して――まあでも、演習に加わったりするのはあと五日程度見送った方がいいけど」
「有難うございます。本当に」
「気にしないで」
そう言うと、アルジマールはレオアリスの両手を取り、ねっとりと握った。
「僕、毎日お見舞いに行くよ」
「貴方はやるべきことがあるでしょう」
ロットバルトの声は穏やかだ。
「――」
たっぷり呼吸五つ分くらい数え、アルジマールはレオアリスの手を離した。
「うう……」
「よくわかんないけど、俺の腹を割くか別のことをするかでそんなに悩まないでくれますか……」
「何とも、良い関係を作ってきたのじゃのう」
のんびりとセトが笑い、傍らのカイルも嬉しそうにやり取りを見守っている。
アスタロトも何だかんだ同意を覚えつつ、視線をアルジマールと話をしているレオアリスに注いだ。
昨日、レオアリスが目覚めた後の、プラドの言葉を思い起こす。
『話がしたい』
レオアリスに。
『だ、だめだよ!』
咄嗟に、立ちはだかるようにプラドの前に割って入った。
向けられた漆黒の目はレオアリスと同じ色、だが宿る厳しさが異なる。
幾つもの景色を眺めてきたそれ。
四百年以上前にこの国を出て、遠く、想像もつかない場所で『剣士』として戦いながら過ごし――そして、戻って来た。
その目的は一つだ。
『えっと、まだ、レオアリスも体調戻りきってないし、疲れてるし』
『アスタロト、俺は』
レオアリスが答える前にアスタロトは首を振った。
話をさせたら、プラドと共に行こうと、そう思うのではないかと――
今そう考えていなくても、プラドの言葉を聞いたら変わってしまうかもしれないと、そんな不安があったからだ。
『込み入った話は、体調がすっかり良くなってからにして』
余り強く言ったつもりではなかったが、プラドはアスタロトを束の間見つめ、あっさりと頷いた。
『判った』
レオアリスは昨日、ファルシオンが起きた後に二人で話をしたはずだ。
どんな話をしたのか聞いてはいないけれど、でも、ファルシオンと話をしたのならば、もうその傍を離れるとは言わないと思う。
ただ、それでも、あの戦場で目にしたレオアリスとプラドやカラヴィアスとのやり取り、そしてナジャルとの戦いでの彼等の姿に安堵と感嘆を覚えながらも、言葉にならない近寄り難さがそこにはあった。
剣士同士の、言葉では表さない、表す必要のない、その奥にあるもの。
「公爵閣下。どうかされましたか」
目を上げると、カイルがアスタロトへと穏やかな視線を向けている。
ほっとしながら、アスタロトは首を振った。
「何でも――。それより、どうか公爵じゃなくて、アスタロトって呼んでください」
カイルの瞳がより柔らかくなる。
「それでは、お言葉に甘えて、以降はアスタロト様と呼ばせていただきます」
「うん」
頷き、それからアスタロトはもう一つ、欲を言いたくなった。
自分から、アスタロトと呼んで欲しいとそう言った。それは自分にとっての決意の現われだ。
けれどその呼び名ではなくもう一つ――、これまでは敢えて傍らに置いていた名前を、呼んでもらえたら。
その想いは口には出さず、アスタロトはカイルの眼差しに、にこりと笑みを広げた。
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