三十七
「ファルシオン殿下、そろそろお目覚めになってください。殿下?」
ハンプトンの声が優しく呼んでいる。
なんだかすごく心地よくて、起きるのがもったいないと思った。
それに、背中に当てられた手がとても温かい。
「ファルシオン殿下」
もう一度名前を呼んだのはハンプトンではなかったが、大好きな声だ。
温かくて芯の響きは力強い。ずっと聞きたいと願っていた声。少し笑っている。
「これ以上寝ると、夜眠れなくなってしまいますよ」
大好きな――
ファルシオンはぱちりと目を開いた。
手を伸ばし、指先が触れたものを掴む。
夢が消えないように。
「レオアリス」
ぎゅっと右腕を掴まれたレオアリスは、一度驚いたような目をして、それから微笑んだ。
「目が覚めましたか?」
夢ではない。
部屋には今はレオアリスと、ハンプトンと、ファルシオンしかいない。
もうすっかり日は暮れているが、寝台も、寝台の天蓋から流れる艶やかな深い青の布も、同じ色の窓の日除け布も、壁も天井も、さっき見たものだ。
王都の、王城の、ヴェルナーの居室。
この部屋を訪れて、レオアリスが目を覚ますようにと手をしっかり握っていて――そうしたらバージェスで一度眼を開いてから二日ぶりに、目を覚ましたのだ。
夢中で飛びついて、すごく安心して、身体全部が暖かくなった。
それから。
それから――どうやら眠ってしまったようだ。
レオアリスはファルシオンの背に当てていた左手で、もう一度背中を撫でた。
「もう七刻ですよ。良く眠っておいででしたね。まあ俺も殿下のことは言えませんが」
そう言って笑ったレオアリスを見つめ、ファルシオンは両手を伸ばしてその頬に触れた。
温かい。
ここに確かにいる、その証の温もりだ。
ファルシオンは胸の奥から、そっと息を零した。
「レオアリス、本当に、目が覚めたのだな。もう大丈夫なのだな?」
「はい。ご心配をおかけしました」
まだ幼い黄金の瞳に涙が滲む。
「良かった」
今度は深く息を吐き、けれどファルシオンはもう泣くことはせず、代わりに陽光が差すように笑った。
「良かった――」
レオアリスは微笑み、それからファルシオンの手を頬からそっと外させると、寝台から足を下ろした。
ファルシオンが見つめている間に立ち上がる。
目が覚めたばかりなのに、とファルシオンは手を伸ばした。
「レオアリス、まだ無理は」
指先は触れず、寝台の縁から離れる。レオアリスは僅かに身体を傾がせたが、すぐにまっすぐ立つと寝台の上のファルシオンと向かい合った。
そのまま緩やかに、膝を下ろして右膝をつく。
「御身の前に、再び戻りました。長きに渡る不在をお詫びいたします」
臣下の礼を取る姿は凛として頼もしく、けれど少しだけ遠く感じられた。
「そんなのはいいんだ。まだ身体が」
支えようと飛び降りたファルシオンの前に、更に上半身を伏せる。
「ファルシオン殿下」
静かに、呼ばれ、ファルシオンは立ち止まった。
その声はファルシオンを止めようというものではなく、距離を置こうというものでもない。
ファルシオンを「呼んだ」ものだ。
その響き。
向かい合ったレオアリスが背を伸ばし、漆黒の瞳が黄金の瞳を静かに捉える。
鼓動が一つ鳴る。
どちらの鼓動か――ファルシオンの胸の奥のものか、それともレオアリスが鳩尾に当てた左手の下で、青く零れる、澄んで綺麗な光が揺らすものか。
見つめる瞳の中で左手が鳩尾に沈む。
幾つもの蝋燭の光が柔らかく照らす室内に、青い光条が差す。
空気が澄んで、ぴんと張る。
息を飲み、目を見張るファルシオンの前に顕れた、レオアリスが手にした、一振りの剣――
月の光に浸したような。
出会ったばかりの頃、何度も剣を見せて欲しいとねだり、けれどレオアリスは剣を抜こうとしなかった。
わかっていた。父王の剣士であり、父王の為の剣だから。
けれど何度となく――
その剣はファルシオンの為にも現われた。
西海の三の鉾、ビュルゲルとの戦いで。
レガージュの海、マリ海軍の船の上。
夜の王都、侵攻した西海軍を前にした時。
そしてサランセラムでの戦いの、ボードヴィルで海皇の影と向かい合った時に。
何度もその剣がファルシオンを護り、助けてくれた。
今、目の前に現れた剣の光は、そのどの時とも同じで、そして異なる。
レオアリスは顕した剣の柄を逆手に握り、切っ先を自分の胸に向けた。その恭しい仕草をじっと見つめる。
鼓動がゆっくりと、深いところで鳴る。
「この剣を以って、ファルシオン殿下――」
青く剣の内から滲む光と、その向こうの瞳。
「御身を、お護りします」
「――」
温かな血が巡る。
ファルシオンは全身を掴む感情を堪え、唇をきゅっと結んで、手を伸ばした。
指先が柄に、レオアリスの手の傍に触れる。
消えてしまうのではないかと、こわごわと。
更に手を伸ばし、冴え冴えと澄んだ剣の身に触れた。
冬の夜気に似て冷え、それなのに暖かい。ほっと落ち着き、安堵して、その光が自分を包むように思う。
まだ淡い黄金の光がファルシオンの指先から溢れ、剣に落ちる。
ファルシオンは導かれるように応えた。
「そなたの剣を、我が傍に」
ほんの束の間、室内からは呼吸の音さえも消えたように思え、それから抑えた嗚咽が一つ、その中に落ちた。
嗚咽を堪えきれずこぼしたのは、離れて立っていたハンプトンだ。口元を両手で押さえ、優しげな目を赤くしている。
ファルシオンはハンプトンの様子に微笑み、ようやく、息を吐いた。
自分が息を止めていたのだと気付き、頬を伝った涙に気付く。
「レオ――」
剣の光が揺らぎ、レオアリスの手から溶けるように消えた。
ぐらりと上体が傾ぐ。
「レオアリス!」
右手を床につき身体を支えたレオアリスの肩に、ファルシオンは手を伸ばした。
「大丈夫です、殿下」
室内の様子に気付いたのか、扉を軽く叩く音と共に隣室にいたロットバルトが顔を出す。レオアリスはファルシオンの手を軽く押さえ、ロットバルトへ顔を向けた。
「ちょうど良かった、ロットバルト、悪いけど手を貸してくれ」
「――全く」
ロットバルトは息を吐き、特に問うこともなく膝をついているレオアリスへ近寄ると、まず心配そうなファルシオンに微笑んだ。
「御心配には及びません。外傷は癒えていますし、体力も今が一番落ちている状態で、これからは回復していくだけですから」
身を屈めて手を貸し、立ち上がらせる。
「助かる。思った以上に筋力が落ちてたし、体力もだな。半年寝てた時より」
「それはそうでしょう。積み重なったものがあります」
寝台に腰掛け直したレオアリスの膝に、ファルシオンは両手を置いた。
「無茶をするものではない。私はレオアリスがここにいてくれることが嬉しいのだ」
「すみません。もう少しいけると思っていました」
苦笑したレオアリスを大きな瞳が咎めるように見上げる。
「今は、身体を休めて早く元気になるのだ。これからいろんなことを、たくさん、一緒にするのだから」
レオアリスは自分の身体を確認するように一度目を閉じ、それを開いて、ファルシオンに頷いた。
「いろんなこと、ですか」
「そうだ」
ファルシオンにはやや高い寝台によじのぼり、隣に座る。その姿にロットバルトは笑って、まだ目の赤いハンプトンに微笑み、暖炉の前の長椅子に腰掛けた。
「一緒に本を読みたいし――私は少しむつかしい本も読めるようになってきたぞ」
「いいですね。俺も本は大好きです。殿下がどんな本を読んでらっしゃるのか、それを伺うのも楽しいですし」
ファルシオンの頬が輝く。
「レオアリスが読みたい本も読もう。それから、外で遊んだり」
何を思ったか首を振る。
「遊ぶのは、身体を動かしたほうがいいからだ。成長のために身体を作っていくのだ。小さい子のように遊びたいのではないぞ。レオアリスもずっと寝ていた後だから、身体をしっかり動かさないと」
「殿下に教えていただきます。けど、前みたいに駆けっことか隠れんぼとか、影踏みとかも俺はしたいですが」
「わたしもしたい!」
身体を揺らし、寝台が楽しげな音を立てる。
足がぱたぱたと寝台の横を叩き、その仕草にハンプトンが少し嗜めるように眉を寄せたが、口元は緩んでいる。
「それから、それから一緒にご飯を食べたり、それから飛竜に乗ったり。まだ私は一人では飛竜に乗らせてもらえないのだ。飛竜の乗り方を教えてほしいし、遠駈けに行きたい。そなたの飛竜のハヤテにも乗せてほしい」
「ハヤテも殿下のことが大好きになると思います。俺はまだハヤテに会ってないけど……」
どうしているだろう、という呟きに、
「元気ですよ。焦れて厩舎を飛び出してくる前に会いに行ってください」とロットバルトが補足する。
レオアリスが嬉しそうに顔を上げ、「良かった」とファルシオンはにこにこした。
「それから、一緒に、街へも行きたいし、また劇を見に連れて行ってほしいし、それからレガージュとか、ボードヴィルとか、バージェスにもまた、行きたい」
戦いの只中にあった時とはまた違う姿を見せる街と――土地と。
緑をなして続く丘陵や、麦の穂を重たげに揺らす実りの波。
あの美しい天井絵を、一緒に見たい。
「それから、他の街とかも――北とか、南とか、東とか。おじいさま達が暮らしている、レオアリスのふるさとも。それから」
やりたいことは本当に、たくさん、たくさん、たくさんある。
募る期待を落ち着かせようと、息を零す。
覚えているか、と、そう尋ねようと顔を上げ、ファルシオンが言葉を継ぐ前にレオアリスが笑みを刷いた。
「殿下は以前、マリ王国やローデン王国にも行ってみたいと仰っておいででしたね」
「そう――そうなのだ」
頬の内側に血が昇るように、顔を輝かせる。
一年前くらいに、そんな話をした。
覚えていてくれたことが嬉しい。
約束を叶えられそうなことが。きっと。
「行きたい。マリも、ローデンも。西海にも、それからもっと他の国にも行きたい」
「これからは――国内が落ち着けば、そういうことも、きっとできるようになりますね」
こくりと頷く。
もう西海の脅威も無い。
バージェスも復興し、賑わっていく。
レガージュとバージェスを玄関口として、海路もこれからどんどん広がるだろう。
南海を渡る国々だけではなく、北海の、黒森の向こうにあるという国にだって行けるのだ。
「行ってみたい――」
色んなことを学びたい。
レオアリスが傍にいてくれれば、何も怖いことはない。どこにだって行ける。
ファルシオンは両手をぎゅっと握り、胸に当てた。
それから。
「私も――、剣を、学びたい」
跳ねる鼓動をおさえる。
顎を持ち上げ、傍らの、高いところにある瞳を見上げる。
「レオアリス。私に剣を、教えてくれるだろうか」
レオアリスは瞳を見開いてファルシオンを見つめたが、
「殿下がお望みならば、喜んで」
その双眸を柔らかく細めて笑った。
|