三十五
「お会いできて光栄です」
ファルシオンはカイル達よりも先に、そう言った。
レオアリスがバージェスの水盆に戻った時、カイル達はレガージュで報せを待っていた。ファルシオンにはあくまでも、バージェス訪問の目的が復興状況の視察だと説明していたからだ。
プラド達と共に再び王都を訪れ、そして今日初めて、カイルとセトはこの幼い王子と会った。
ファルシオンの黄金の瞳。
かつて黒森の村で見た王の眼差しに似て、記憶のそれより柔らかい。
まだ幼い声は聞く者の心を弾ませた。
「おじいさま達が、先月、王都にいらっしゃっていたことを聞きました。お会いできなくて――それから、もっと早く、レオアリスを探せたかもしれないのに、ごめんなさい。きっと、ご心配だったと思います」
「いいえ」
頭を下げるファルシオンへ、カイルもセトも慌てて首を振った。
膝をつき、幼い、そして聡い瞳を見上げる。
本当に、小さな姿からは想像もつかないほどの聡明さと配慮は好ましく、未来への明るい期待を覚え、同時にこの王子が置かれた立場を否応無く感じさせた。
「陛下が――お父君が、守ってくださったのです。あれは生まれた時と、そして今回の二度、お父君によって命を存えました。心から、お礼を申し上げます」
口にしてから、父王を失った悲しみに無遠慮だったかとカイルは後悔したが、ファルシオンは目を丸く見開き、嬉しそうに呟きを零した。
「父上が……」
瞳の端に涙を滲ませ、ふわりと微笑む。
「嬉しいです。だから私は、レオアリスと会えました」
膝をついた二人の手をそれぞれ取り、ファルシオンは一歩足を引くようにして二人を立ち上がらせた。
「早くレオアリスが目を覚まして、お二人とも一緒にお話したいです」
「身に余る、ご厚情です」
温もりが移る小さな手に、カイルとセトはそれぞれ額を当てた。
「殿下、レオアリスの傍へ座ってやってください。今椅子を」
にこにこと挨拶の様子を見ていたアスタロトが、窓際に置かれている文机の椅子を持ち上げる。
「アスタロト様、私が」
控えていたハンプトンが慌てて椅子を受け取り、寝台の横に据える。
青い絹張りの座面が小さな身体を迎えたが、深く腰掛けたのはほんの束の間で、ファルシオンはすぐ腰を浮かせた。寝台に上半身を乗り上げて手を柔らかな羽毛の寝具に入れ、レオアリスの指先に触れる。
「もう、目を覚ますだろうか」
期待を込めて指先を握ると、ほんの少し冷えた温度がファルシオンの手に伝わった。
「殿下が来てくれたから、もう起きます。そもそもこいつ、寝過ぎだし」
ファルシオンと反対側に立ち、アスタロトはきっぱりと言って腰に手を当て、寝ているレオアリスを見下ろした。
カイルは室内を見回した。
ファルシオンはじっと黙ってレオアリスを見つめていて、アスタロトは向かいに座りファルシオンへ時折話しかけている。セトはプラドとぽつりぽつりと、黒森の彼等の村のことなどを話しているようだ。
ただ室内を満たす空気は静寂ではなく、柔らかなものだった。
窓から注ぐ西陽が室内をほんのりと黄昏色に染め、窓枠が床に淡く影を落としている。
カイルは窓際に立つロットバルトへ、近寄った。
「ヴェルナー侯爵」
呼ばれ、ロットバルトは床に伸びた光の形に落としていた視線を戻した。
カイルは前に立ち、頭を下げた。
「今回のこと、改めてお礼を申し上げます」
「いいえ――、私は何も」
首を振り、それからロットバルトは笑みを刷いた。
「こうして戻って、本当に良かった」
カイルは深く頷いた。
「はい。あとは少しでも早く、目を覚ましてくれれば良いのじゃが」
「二、三日後には話ができているでしょう。あなた方もそれまでどうぞここに。体調が落ち着けば、また気兼ねの要らない近衛師団の官舎に移っていただけると思います」
本当に色々と配慮をしてくれている。
侯爵という立場にあり、それから財務院長という国の要職を担っている。どれほど忙しい時間を縫って対応してくれていたのか、それを思うと自然とまた頭が下がった。
「わしらは貴方に、感謝しております。貴方がわしらに会ってくださらなければ、今ここに、あの子はおらんかった。貴方がわしらの話を、受け止めてくださらなければ」
「それは、お礼を言っていただくほどのことでは。私は自分ができる範囲のことをしただけです」
ロットバルトの言葉はこうした時の常套句のようでもあったが、カイルはふと、感じたことを口にした。
「もしかしたら貴方は、ご自身が重ねてきたことなどただ当たり前のものだと、価値を感じておられないのかもしれません」
自分へと落ちる瞳がやや開かれたのを見て、おや、とカイルは心の中で呟いた。
この青年の上に感じたものは、間違ってはいないようだ。
それは随分もったいない。
「けれど、わしらにとっては違います」
一度寝台を振り返り、カイルはまだ眠っているレオアリスを見た。
その姿を目にできることに、深い喜びを覚える。
カイルだけでは、決して見ることのなかった姿。
改めて感謝を込め、頭を下げる。
「わしらはあの子を永遠に失うところでした。あの子が生きていると、貴方が信じていてくださらなければ」
目を閉じたままの横顔を、ファルシオンは心を弾ませながら、飽きずにじっと見つめていた。
呼吸がややゆっくりと、けれど等間隔に繰り返され、その証に寝具の下の胸が静かに上下している。
(よかった)
ほんの少しでも早く目が覚めるように、まだ残る傷が早く癒えるように、握る手に願いを込める。
触れてもどこか遠く感じるのは、二か月もの不安な日々を経て、まだ夢を見ているように思えるからだろうか。その感覚が、記憶の中の光景とふと重なる。
父王が王都を発つ前日、王城庭園にあった青い光と、その前の父の存在。
ファルシオンは離れたところから、美しく輝くその光を見ていた。父王とレオアリスがいる場所を遠いと感じながら、強い憧れと共に。
戦いの後、ファルシオンの心の中に訪れた父の姿を思い起こす。
バージェスの水盆で自分を包んだ黄金の光は、今でもすぐそばにあるように感じられていた。
(父上――レオアリスが帰ってきました)
『陛下が――お父君が、守ってくださったのです』
カイルの言葉がとても誇らしい。
早くレオアリスと話がしたかった。いろんなことを話して、そう、レオアリスが見ていた父の姿も、彼の言葉で聞いてみたい。
頭を下ろして横たわる胸に頬をつけ、柔らかな布の感触と、布から伝わる微かな温もりに安らぎを覚え、金色の瞳を閉じる。
(たくさんのことを話そう。この先のことを。もうそれができるから。ここにいるみんなで)
握る指にそっと力を込める。
深く深く、願う。
願いを込める。
ファルシオンの指先は、柔らかな金色の光を帯びた。
「レオアリス――」
握った指先から、微かに、力が返った。
ファルシオンは閉じていた瞳を、ぱちりと開いた。
まだレオアリスは目を閉じたまま――けれどずっと規則正しくゆっくりだった呼吸が一瞬途切れ、それから、僅かに開いた口元が深く息を吸い込んだ。
寝台に身を乗り出し、レオアリスの顔を覗き込む。
アスタロトが顔を上げる。
「殿下?」
じっと見つめる先で瞼が二度ほど震えた。
閉じていた瞳が、ゆっくりと開く。
アスタロトが反対側の枕の横に両手をついた。
「レオアリス! 起きた!?」
寝台が思いのほか大きく沈んで、アスタロトはぱっと手を持ち上げた。けれど視線はレオアリスの上へ据えたままだ。
レオアリスは何度か瞬きし、それからぼんやりと、頭上の天蓋を見つめた。
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