三十二
ファルシオンが声も立てず駆け寄る、その足が水盆に跳ね上げ砕ける水飛沫を、アスタロトは瞬きもせず見つめていた。
飛沫の一つ一つが硝子絵から落ちる色彩を纏い、見つめるアスタロトを、そして駆けていくファルシオンを映している。
あの日、王が戻らなかったあの時、砕ける天井絵の、落ちる世界の破片が跳ね上げた水飛沫――絶望しかなかった美しい光景。
けれど今はそこに、ずっと見たかった姿があった。
ファルシオンは水盆の上を転ぶように駆け寄り、自分の服が濡れるのも構わず、横たわるレオアリスに抱き付いた。
本物だ。
レオアリスの身を包む金色の光が消えていく。
「――」
何度となく口を開き、けれど膨れ上がる想いの何一つ言葉にならず、触れた腕と胸から返る温もりをただ確かめる。
鼓動を――
身を起こし、目を閉じたままの顔を見つめた。
生きている。
生きてここにいて――今、この場所に、目の前にいる。
何が起こったのか、今までどうしていたのか、何処にいたのか
水盆の奥底から湧き起こった金色の光が、誰のもので――
どこに、行ってしまったのか。
胸の奥を激しく掴む思慕。
けれど生きている。
確かに、生きている。
あらゆる想いが、ようやく一つの声になった。
「――レオアリス――!」
ぼろぼろと零れた涙がレオアリスの頬に落ちる。
瞼に落ちた幾粒かが、眦を伝い、跡を残して流れる。
見つめる先で、閉じていた瞼が揺らぎ――瞳を開けた。
二度、三度――瞬きをした瞳が焦点を結ぶ。
黒い瞳に覗き込むファルシオンの姿を映した。
掠れた、ずっと聞きたかった声。
「――ファルシオン、殿下……」
フレイザーは自分の見ているものが咄嗟には信じられず、水盆に横たわる姿を見つめ、それから傍らのグランスレイとヴィルトール、そしてワッツへ、その目を向けた。
三人とも驚き言葉を失っているのを見てもまだ、夢を見ているように思えた。
「上将――」
呟いた声に、四人の前にいたランゲの呆然とした声が重なる。
「一体、何が起きたのだ。あれは、近衛師団の、剣士か……?」
ランゲは答えを求めて四人を振り返り、また顔を戻した。何度も首を振る。
「ファルシオン殿下が――、奇跡を……」
ランゲの言葉に漸く、これが現実なのだと、そう思えた。
震える両手を口元に当て、それを握りしめた。
アルジマールはしばらく、自分の両手を見つめていた。
三度目の詠唱が終わろうとしていて、諦めかけた時――不意に、水盆から返る感覚が変わった。
例えるならまるで、空っぽの身体にいきなり温かい液体を満たしたような――
奥底から湧き起こった存在。その力と、温度。
「――陛下――」
王の存在だ。
もう、どこにも感じられない。
瞳を閉じ、ほんの束の間、自分の前に王がいた長い年月を想う。
アルジマールにとっても王は、その存在、その技は、遠くに見上げる指標で在り続けた。
瞳を上げ、立ち上がる。被きを落とした双眸の奥に、もう一つの色が加わっている。金色に近い、黄。
それを自覚し、アルジマールは一度、瞼に手を当てた。
しゃがみ込んだまま水盆を見つめているアスタロトに歩み寄り、その背に触れる。
アスタロトは泣きそうな顔でアルジマールを見上げた。
「君が諦めなかったからだ」
そう言うと、アスタロトの深紅の瞳から、ぼろぼろと涙が溢れた。
「アスタロト――、アルジマール! グランスレイ、みな――」
ファルシオンが首を巡らせ声を上げる。
「レオアリスが――、目を……」
アスタロトが飛び出し、水盆の水を蹴立てる。ランゲはまだ驚いたまま恐る恐る、グランスレイとフレイザー、ヴィルトール、ワッツも、アルジマールの横を抜けて駆け寄る。
アルジマールは水盆を見つめて深く息を吐き、それから光が降り注ぐ天井の硝子絵を見上げた。
最初に見えたのは光。
暖かく、全身を包む。
瞬きを繰り返すとそれは、覗き込む顔になった。
大きな金色の瞳が揺らぐ。頬に差す陽射しを感じた。
「――ファルシオン、殿下……」
声が聞こえる。
何人かの――、聞き覚えがある。
泣きじゃくっているのはアスタロトだろうか。よく泣く。
足音、声。添えられた手の温もりと。
自分の名を呼ぶ声。
大切な――
懐かしい。
戻ってきたのだ。
柔らかく包みこむ温度の中で、レオアリスはもう一度、穏やかで深い眠りに落ちた。
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