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王の剣士 七

最終章

『光を紡ぐ』

三十一



 通りの建物の間から覗く空を、薄い雲が西へと緩やかに流れていく。
 条約締結の館が建つ広場へと、まだ装飾の施されていない広い橋を渡ると、空と繋がるような青い海が目の前いっぱいに広がった。
 王が歩いた道を歩くファルシオンの姿を、アスタロトはそっと見つめた。
 あの時と異なるのは、遠間に浮かぶ西海の皇都、イスの姿があることだろうか。
 今は穏やかな、美しい景色の中に溶け込んだそれ。
 青い海を見つめるファルシオンの手が、胸元をそっと掴むのを見て、そこにあるものとファルシオンの心情を思い、アスタロトは一度瞳を伏せた。
 鼓動が高鳴るのは、不安と、そして期待にだ。
 カイルやセト、プラド達をこの場に伴うことはさすがにできず、レガージュで待ってもらっている。
 これはきっと、残された最後の試みだ。
 きっと、必ず、上手くいく。ここにファルシオンがいるのだから。
(だってレオアリスが、あの戦いの中で選んだ剣の主は――)
 アルジマールへ視線を流すと、アルジマールは頷いた。



 条約の館の玄関を入り、その先の広間へ、ファルシオンは足を踏み出した。
 十五間四方はある吹き抜けの玄関広間は明るく、まだ真新しい木材の匂いが漂う。
 瞳が正面に吸い寄せられる。
 広間の中央に置かれているのは、五間はあるだろう水盆だ。そこに光の筋が降り注いでいる。
 それが西海との入り口だったと、アスタロトから聞いていた。
 不可侵条約再締結の為に――父王がこの水盆を潜り西海へと赴いた。
 父王が既にその時、一つの目的を持っていたのだということも、ファルシオンはもう知っていた。それが必要なことだったのだと理解していた。
 呼吸を抑え、新しく張られた白い大理石の床をゆっくりと進む。降り注ぐ光は複雑な色を広げ、水盆の表面を輝かせていた。
 立ち止まり、ファルシオンは顎を持ち上げ、天井を振り仰いだ。
 天井に丸く、大空の写し身のような硝子の天蓋がある。
 ぐるりと巡る海は輝く青と砕ける波の白、波間をゆく船は琥珀色に輝き透き通る帆が貼られている。
 海に囲まれて描かれているのは緑なす丸い大地だ。草木が覆い、花が咲き溢れている。
 そして中心には、王都アル・ディ・シウムと、王城。天蓋の中心へと伸びる城の尖塔は、空と太陽――黄金の輝きを抱いている。
「何と、美しい――」
 誰かの呟きが零れる。
 職人達の手によって再現された天井絵は、その硝子の向こうの天空に昇った陽光を含んで輝き、光が筋となって広間に落ちてくる。
 光の筋に含まれる、幾つもの色。
 青、白、緑、赤や橙。
 黄金――
 そしてそれは、足元の、鏡のように凪いだ水盆の上に同じ世界を写していた。
 向かい合う、二つの世界。
 ファルシオンは束の間、言葉もなくその光景を見つめた。
 やがて黄金の瞳に、光を滲ませる。溢れて零れた雫が一つ、柔らかな頬を伝った。
 雫は足元の水盆の縁に、ぽつりと落ちる。
 微かな波紋が水面を揺らし、すぐに消えた。
 アスタロトはファルシオンの涙に気付き、少し狼狽え、その頬に右手を伸ばした。
「殿下――あの」
 ファルシオンが大丈夫だと、首を振る。
「とても、美しい――」
 押し出すような、微かに揺れる声。
「バージェスの人々も、街も、海も――この館も」
 顔を上げ、ファルシオンはアスタロトを見つめた。
 黄金の瞳が降り注ぐ光の筋の、複雑な色を映している。
「――私は、ずっと、じぶんのことばかりだった。こうして、そなた達が、けんめいに前を向いてくれていたのに」
「そんなの――違います」
 驚いてアスタロトは首を何度も振った。肩の上で黒髪が跳ねる。「殿下が自分のことばかりだったら、私なんてほんとに」
 慌てるアスタロトへ首を振り、ファルシオンは慈しむように微笑んだ。
「世界は、こんなに、美しいのだな」
 その笑みにアスタロトがそっと息を飲む。
 どこまでも透明で、けれど確かな意志を持った笑みだった。
「ありがとう――」
 手を伸ばし、ファルシオンはアスタロトの右手を取った。
 一度強く握りしめる。
「ここに、来れて良かった。わたしも前を向ける」
 アスタロトはファルシオンの手が触れた、自らの右手を見つめた。
 両手でもまだ包みきれない、それでも確かに感じられた柔らかな温もりが、ファルシオンそのものを表しているように思える。
 その温もりにアスタロトは、この幼い王子を――これから国を負って立つ少年を、守りたいと願った。心から。
 だからこそ。
 アルジマールへ、視線を送る。
「王太子殿下」
 アルジマールが進み出て膝をつくと、硝子に似た緑の瞳をファルシオンへ向けた。
「四月の西海との条約再締結に向け、今日、この場で、水盆を再び繋ぎたいと考えております。西海との門――広大な海と、そしてこの地上とを繋ぐ道です。王太子殿下にお力添えを頂きたく、お願い申し上げます」
 ファルシオンはまだ残っていた涙を拭い、黄金の瞳でアルジマールを見つめた。
「水盆を? どうすればいいのだ」
「殿下は、水盆に触れてくだされば。先日、王城の防御陣を敷設した時の感覚で、力を流して頂ければと」
 自分の手を開いて見つめ、ファルシオンは頷いた。
「わかった」
 アルジマールはランゲやグランスレイ達に二間ほど退がるよう告げ、自分は水盆の前に立った。
 鏡のように張った水面を映す緑の瞳に、光が揺れる。
 間を置かず、アルジマールは術式を唱えた。
 紡ぐのは転位の術式だ。通常と異なるのは、繋ぐ先が定まっていないこと。
 西海のレイラジェが、アルジマールの詠唱に合わせて西海側から力を注ぐ手筈になっている。海からの反応を手応えとして感じた。
 けれど繋ぐのは、この更に先だ。
 紡がれ始めた詠唱が広間に流れ、水盆に落ちて水面に広がる。アルジマールはそのまま幾節か詠唱を綴り、やがてファルシオンへと頷いた。
 ファルシオンは水盆の前に両膝を下ろし、右手の指先を水面に伸ばした。
 中指と人差し指、薬指の三本の指先が、ほんの僅か水面に触れ、微かな波紋を揺らす。水盆の深さはファルシオンの手のひらが浸かる程度だ。
 アルジマールはその姿を見つめ、詠唱に意志を込めた。王のもとへ導くよう、思考を描く。
 詠唱に合わせ、次第にファルシオンの身体を金色の光が取り巻く。
 ファルシオンの身体を包む光は程なく、天井絵から降り注ぐ幾つもの色を纏い――太陽の黄金の光を纏い、水盆の上に落ちた。
 指先から、触れた水の上へと流れ、水面を滑る。
 広間は静まり返り、アルジマールの詠唱だけが響く。
 アスタロトは鼓動が走るのを意識して抑え、音を立てないよう、アルジマールの詠唱をほんの僅かでも邪魔しないよう、深呼吸を繰り返した。
 いつ、どれほど些細な変化が訪れても見逃さないように瞳を凝らす。
 アルジマールの詠唱に重なり、鼓動が耳の奥に響く。
(戻る)
 必ず――。
 何度深呼吸を重ねた頃か――、アルジマールの詠唱が最初の響きに戻ったのが、アスタロトにも分かった。
 二度目の詠唱。
 それが意味することを思い、鼓動が跳ねた。
 確かめようと見つめた先で、アルジマールが瞳を上げる。一瞬のその動きは、今紡ぐ術式に綻びを探すかのようだ。
 先ほどよりも表情が厳しく、アスタロトは胸の奥がすうっと冷えるのを感じた。
 違うのだろうか。
 王が開けと言った道は、この方法ではないのか。
 それとも、ファルシオンに伏せていることが、道が繋がることを阻んでいるだろうか。
(殿下に、知らせた方が――)
 ファルシオンが意識しなければ、そこ・・には辿り着かないのかも知れない。
(――陛下)
 アスタロトは真紅の瞳を水盆に据えた。
 アルジマールの詠唱は続き、けれど水盆は揺らぎすらしない。
 三度目の詠唱が繰り返される。既に四半刻近くが過ぎ、ファルシオンはやや訝しそうに、詠唱を続けるアルジマールを見た。尋ねないのはアルジマールへの深い信頼があるからだ。
 けれど、何一つ変化が起きないまま、詠唱だけが流れる。
(陛下、道を――お願いです)
 祈るように願う。
 あの日アスタロト達を海中へと導いた水盆は、覗き込んでいるファルシオンの指先が底に付いてしまうほど浅いまま。
 アルジマールがもう一度、瞳を上げる。
 そこに浮かんだ思考を見てとり、アスタロトは唇をぎゅっと引き結んだ。道は繋がっていない。足りていない。
 足りないのはおそらく、ファルシオンの明確な望み、願いだ。
 誰へ道を繋ぐのか――
 深く息を吸う。
(傷付くのは、戻らなかった時だけだ――!)
「殿下」
 アスタロトはファルシオンを呼んだ。
 向けられた瞳を、はっきりと見つめる。
 アルジマールが制止する前に、明瞭に告げた。
「父君と、レオアリスを想ってください」
 金色の瞳が見開かれ、身を起こす。
 水盆へ屈んでいたファルシオンの喉元から、細い鎖の先の青い石がするりと溢れ、落ちた。
「あっ」
 水盆へ。
 咄嗟に掴んだのは細い鎖だけで、水盆に小さな波紋を立て、青い石は沈んだ。
 ファルシオンは水面へ手を伸ばした。
 指先が――手のひらが手首まで沈む。更に。
 その先に、青い石は沈んでいく。
 浅いはずの水盆を、深く。
「待って――!」
 ファルシオンの身体が水盆へ傾ぐ。
「殿下!」
 アスタロトは咄嗟に腕を伸ばし、ファルシオンを抱えた。
「石が……!」
 深く沈んで行く。ファルシオンの身体を黄金の光が取り巻き、水盆に沈む石を追うように水の中に拡散する。
 沈みながら石は、その内側から溶けるように青い光を滲ませた。









『剣士の剣が、己が主を選ぶ――それは決して、他者の元に膝を折ることではない』

 剣が選ぶのは、自らの進む方向、
 自らの意志だと。
『その剣はもう選んだ。そなたの意志は』
 夜の中、王の姿が揺らぐ。
 既に立つ場所は、あの夜の四阿あずまやではなくなっている。


『レオアリス』


 王が名を呼ぶ。
 これが最後だ。


『剣とは敵を切り裂くのみに非ず、そなたら剣士がこれまで心を以って示してきたように、誰かを、何かを護るものでもあろう』
 心の奥底に、今も響く。
『そしてまた、そなたが自らそうしてきたように、未来を切り拓くものでもある』
 身体の内側に、光が灯る。

『そなたは自ら切り拓き、ここに立った』

『この先迷う事もあろう。その時は、答えは常にそなた自身の中にあるのだと、思い出すと良い』


 閉じたままの目に涙が浮かび、頬を零らし伝う。
 このまま居たかった。
 本当にそう思っていた。


『そなたがこの先どのように成長していくのか、楽しみだ』


 いさせて欲しかった。
 このまま消えても、それで良かった。


 けれど。


 まだ淡く、柔らかな光が、心の中にある。
 これから昇り行こうとしている太陽が。

 夜が明けて行くように、周囲を柔らかな黄金の光が包む。
 世界が光に満ちる。


 自分を呼ぶ、まだ幼い声。


『我が子を――そなたがファルシオンを選んだことを、私は誇りに思う』







 水盆の中で青い石は、ひときわ強く光を発した。
 黄金の輝きがそれを覆う。ファルシオンを取り巻いていたそれ。
 その光に重なるように、水盆の『底』から新たな、濃い金色が湧き上がる。
 ファルシオンの指先を染め、そして小さな身体を包む。

 広間が金色に染まる。それから、青。
 光は視界を圧し、広間全体を飲み込んだ。


 ファルシオンは自分の指先が、石の床に触れているのに気が付いた。
 手に硬い小さな塊を握っている。
 目を開け、開いた手のひらの上に、落としたはずの青い石が乗っているのを見た。
 澄んだ青い色の奥に刻まれているのは、交差するふた振りの剣。
 じっと石を見つめた瞳が、ゆっくりと――僅かに震えながら、上がる。
 丸い水盆の中心へ。
 黄金の瞳が、その光を滲ませたまま、見開かれた。
 呼吸を止めた喉が押し出したのは、零れる息だけだ。


 水盆の中央に――

 瞳を閉じたまま横たわる、レオアリスの姿があった。












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2021.12.26
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