三十
バージェスを見たい。
それはファルシオンの心の内にある願いでもあった。
そしてまた、実際に目にするのが怖いとも。
不可侵条約締結の地、五十年ごとに再締結を重ねた地。
父王がそこから西海へ赴き――戻らなかった地。
これから先、ファルシオンが国主として立ち、新たな条約を締結し、そして守り継続していかなければならない場所だ。
全てがここから始まり、失い、そして得て、また新たに始まる。
けれどそれは、誰の上にも平等に、避け得ることなく連綿と繰り返される世界の営みなのだとも、ファルシオンは理解していた。
海風が幼い額を撫でて過ぎる。
熱を帯びたレガージュの風とも異なる、冷えた風だ。
一月末日、ファルシオンは水都バージェスの街門の前に立っていた。
不可侵条約締結以来、定められた『一里』の内側で凍結されていたような街――かつて交易の窓口として栄えたバージェスは、実際に目にしてみると海岸沿いに小ぢんまりと造られた小規模な街だったことが分かる。
往時の人口は二千人ほど、街の外周を一巡りしても、半里(約1.5km)あるかないかの規模だった。
街は街壁の代わりにぐるりと水路に囲まれ、通りごとに美しい橋が渡されている。水路には海水が引き込まれ、透明なその水の中に銀色の魚が、時折太陽の光を弾く。
目を上げれば修復を終えたばかりの建物は、その白い石壁が天空の半ばに差し掛かった冬の陽差しを受け、淡く光を放つように思えた。
建物の間にも水路が入り込み、水面に小舟が幾叟も船体を揺らしている。鮮やかな彩色を施されたそれは、王都の運河に浮かぶ小舟よりももう一回り小さな六人乗りほどのもので、水路の底を突いて進む為の長い竿を備えている。人や物を乗せ、街の水路を巡るのだろう。
ファルシオンはふとそこに、笑いさざめく人々の姿を見る気がした。水路から通りへと続き、街全体に賑わいが広がる。それはかつてのバージェスの姿でもある。
「とても、きれいな街だ」
白い息と共に零した感嘆に、傍らのアスタロトが頷く。
「そうです。この二か月で、皆で頑張って綺麗にしてくれました。まだ奥の方はこれからもう少し手を入れる必要がありますけど、でも条約の館と、それから館がある広場はもう大方整ってます。広場は海に浮かんでるみたいなんです」
アスタロトの声が誇らしげで、ファルシオンはそれが嬉しくなって微笑んだ。
二か月、アスタロトはずっとこの街の復興に打ち込んできた。日々、目まぐるしく変わっていく街の姿の中に身を置いて、前を見て。
「王太子殿下――」
迎えたワッツが、ファルシオンの前に膝をついた。
「王太子殿下をこのバージェスへお迎えできることを、光栄に思っております」
ここのところファルシオンは、少し身長が伸びた。けれど膝をついていてもワッツの頭はまだ、ファルシオンの身長よりやや高い。
頑健な体格と剃り上げた頭、軍服の上からでもわかる筋肉の盛り上がりに、ボードヴィルでの戦いの姿が思い起こされる。
「ワッツ。久しぶりだ。ボードヴィルでのそなたの活躍は、まだ目に焼き付いている」
「身に余る光栄です」
ワッツは右腕を胸に当て、膝頭に付くほど深く、頭を下げた。
ワッツが頭を上げるのを待ち、ファルシオンは身体の向きを変え、街の前面を振り返った。
ファルシオンの斜め前に近衛師団総将代理グランスレイ、その反対に第一大隊大将フレイザーとヴィルトールが控えている。
王都から同行したのは、スランザール、法術院長アルジマール、地政院長官ランゲ。
ファルシオンより一歩引いて、アスタロトが傍に立った。
「王太子殿下、新しい天井絵を作った職人たちと、街の修復に従事してくれてる者たちです」
最前列に並んでいるのは、天井絵の作業を終えた職人達で、街の修復作業に従事する正規軍兵士や労働者達も所狭しと詰めかけていた。
それぞれ明るい面でファルシオンの言葉を待っている。
「みな」
息を吸い、声を張る。
彼等の向こうに伸びる街道と、一里の草原。
西海との戦いで泥地化した草原は、泥がほぼ取り除かれ、枯れた草がまばらに広がっている。それでも今年の夏には、青々とした草原の姿を取り戻すのだろう。
時は止まることなく進んでいく。
ファルシオンは集まった人々を一人一人、記憶に留めるように見回した。まだ幼いながら穏やかな威厳を備え始めた声が、暖かい陽射しの中に流れる。
「これまで、二か月もの間、バージェス復興に力を尽くしてくれたことに、心から感謝している」
集まった労働者達――その多くは戦禍に巻き込まれ、自分の農地を放棄せざるを得なかった人々だ。
冬の海沿いでの作業は寒風にさらされ尚更楽ではないだろうが、ファルシオンを遠巻きにする彼等の表情は、先ほどのアスタロトと同様に誇らしげでもあった。
「今日、私は、バージェスがとても美しい街だと知ることができた。かつてのバージェスを見たことはなかったけれど、その姿が見えるように思った。けれど」
二十代――若ければ十代から、六十を過ぎた者、労働の担い手としてだけではなく、彼等のここでの暮らしを支える商売人と思しき人の姿も多い。
「きっと、今、これからのバージェスの方がずっと、美しく栄えると思う。ここにいるみなが、この美しい街をつくり、いろんな人が訪れて賑やかになって、ずっとずっと栄えていくのだろう。その姿を楽しみにして、誇りにしてくれると嬉しい」
ファルシオンを見つめる人々の顔が笑みを広げる。
「まだ復興はあと少しかかるけれど、引き続き力をかしてほしい」
「有難き幸せ――」
兵達が一斉に膝をつく側で、集まった人々のあちこちから、わっと声が上がった。
「任せてください、王太子殿下!」
「もうあとひと月頑張ります」
王都の住民達よりもずっと気さくに声がかかる。
「ここで殿下のお顔が見れるなんて、嬉しいです」
「俺たちゃ一生、殿下のお顔なんて見ることがないと思ってたんで」
「国を守ってくださって、ありがとうございます!」
「本当にお小さいなぁ」
「俺たち正規軍がお守りしたんだ、あの戦いで」
若い兵が胸を張り、傍らに中将のゼンがいるのに気付いて首を竦める。ゼンは笑って部下の背を叩いた。
「わしらが造った街の中を、ぜひ見てってください」
「殿下が見てくださったら、街も喜びます」
「ちょっとまだ途中なとこもありますが、表通りはばっちりですよ!」
口々に言い、笑い声が混じる。
兵も労働者も一緒になって笑っている姿は、戦いの間は見られなかった光景だ。
「ありがとう」
ファルシオンはにこりと笑った。
ランゲが声をかけようとして幾らも届かず、ワッツが進み出る。
「静粛に――!」
賑やかさは一旦、潮が引くように収まった。
ランゲが咳払いし、再び声を張る。
「私は地政院長官、ランゲだ。皆の働きを労い、王太子殿下のお志で、夜は皆に酒と食事、それから報奨金が出る。報奨金は地政院の事務所に行って、貨幣か証紙か選ぶよう」
今度は喜びの声が歓声となってどっと湧き上がり、一つ一つが聞き取れないほど混じり合って広い空を揺らすように思えた。
ファルシオンの名前を讃える声があちこちで響く。
アスタロトは彼等を見回して笑い、
「殿下、条約の館へ――街の様子と、それから館の天井絵をご覧いただきます」
そう促すと、ファルシオンの先に立ち、街への入り口である広い橋を渡った。
『これまで、こうして話をすることは、余り無かったな』
視線を上げるとそこに、王の姿があった。
夜会の広間に流れる音楽と会話は遠くさざめき、世界は切り離されていた。夜の中の四阿で、すぐ前に立つ王の姿だけが浮かび上がるようだ。
剣の主の姿――
どこかで微かに、鼓動が揺れる。遠く。
『改めて向かい合うと、初めてそなたが私の前に立った時の姿を思い出す。四年前――そなたはまだ十四歳と幼かった』
今は十八歳になったか、と。
自分の事を覚えてくれていることへの喜び――そして、王の前に在った期間がわずか四年だったこと、その形なく掴むこともできない喪失の感覚。
レオアリスは首を振った。
喪ってなどいない。
王は今、目の前にいるじゃないか。ここに。
自分は今、王の前にいる。
満たされている。
自分が剣士であることと、王への憧憬は、ほとんど同義だった。王の前にいることで、満たされる。
それでも。
『どこかでそなたの事を、もう一人の子のようにも思えていた』
全身を巡る血が熱を放ち、指先まで温もりを持つ。
父とはこんな存在だろうかと――それは密かな、自分の心の中だけの、勝手な投影だった。
王が自ら、その絵を重ねてくれているとは思っていなかった。
それでも。
すぐそこにいるはずの王へ、手を伸ばしても、届かない。
どれほど望み、手を伸ばしても、決して掴めない太陽のように。
自分は最後まで、王の存在に、本当には近付けなかったのだ。
強く憧れ、そしてその前に在りたいと願い、あれほどの喜びを覚えながらも、いつもその存在は遠く感じられた。
どうして遠かったのか、何故だったのか。
今まで見えないふりをしていたその感覚。
『気付いているだろう』
庭園の中で声が響く。王の面に浮かぶ、穏やかな笑み。双眸に宿る深い黄金の光。
その声から、耳を遠ざける。
どれほど遠くても、もういい。
このままでいたい。このままでいい。
それが望みだった。
ただそれだけだ。
このままここに、この存在の前にいられたら――
『そなたはもう、気付き、選んだのだろう』
『自らを理解した』
首を振る。
ゆるく。
ここにいさせて欲しい。
傍に。
『そなたの想いは、雛鳥が初めて見た者を親と慕うに似たもの』
苦笑交じりにも聞こえる。
けれどあの夜、あの庭園で、王はそうは口にしなかった。そんなふうに突き放したりはしなかった。
首を振る。
『もう理解しているだろう。そして、既に自らの意思で選んだ。そなたの選んだ場所はここではない』
首を振る。
違う。
本当に、その前に、在りたかったのだ。
本当に――
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