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王の剣士 七

最終章

『光を紡ぐ』

二十五



 法術院長アルジマールがどれほどのことを成していたのか、カイルはその技の深さを身をもって感じていた。
 海の中での術式の展開。
 寄るがまるで無い。
 土の力を利用する時、彼らは大地を踏みしめ、大地に法陣円を描いた。大地の力が踏みしめた足から返るのを感じた。
 樹々の幹に手を当て、その奥の流れを感じた。葉に触れ、その温もりを。
 けれど海は、これまでの感覚とは全く異なった。
 身体は全て覆われていながら触れる感覚はなく、手を伸ばせば伸ばすほど、どこまでも離れて行くようだ。
 セトの補佐があってもなお、海そのものが遠く、触れ得ない。
 もっと近付かなくては。
 カイルは息を詰め、そしてゆっくりと、深く、呼吸を繰り返した。
「――ミュイル殿」
 じっと見守っていたミュイルが双眸を上げる。
「わしを包んでいるこの膜を、外して頂けぬか」
「カイル?!」
 彼等を包む膜――空気の膜だ。海中から酸素を集め、体に纏わせている。それによって海中でも、地上と同様の呼吸を可能としている。
「良いのですか」
 ミュイルは慎重に返した。カイルが頷く。
「海に直接触れねば、この術は為せません」
「カイル。ならわしが」
 セトの肩に手を置き、アルジマールが前へ出る。
「僕も補佐しよう。けど酸素の供給が絶たれたら、そう長くは息が続かない。危なかったら途中で引き戻すよ」
「お願いします」
 カイルは頷き、改めてミュイルへ顔を向けた。
 視線を受け、ミュイルが手を伸ばす。
 その手のひらに浮かんだ小さな緑の光球が光を瞬かせた。「合図をください」
 カイルは一旦目を閉じ、術式の流れを頭の奥で辿った。
 深く息を吸う。
 頷き――
 次の瞬間、身を包んでいた空気の層が消え、カイルは身体に直接触れる冷たく、膨大な水を感じた。
 重い。塊がのしかかるようだ。
 術式を口の中で唱え始める。セトも同時に術式を唱え、アルジマールの詠唱がほんの刹那遅れて重なる。三つの詠唱はすぐ、一つになった。
 海は先ほどよりもずっと近く、そして深く、底が無い。
 身体が揺れる。
 沈む。
 沈んで行くのは意識だ。
 輪郭が溶ける。
 溶け出し、海と重なりながら、深く、深く――、深く――
 自分の形がほどけて行く。
 カイルは意識を集中させた。
(目を――)
 目を開けなくては。
 目を開ける・・・・・その行為で・・・・・自らを保つ・・・・・
(目を)
 自分が解けて無くなると感じた、寸前、カイルは目を開けた。
 視界がぐらりと揺れた。世界が。


 初めは暗黒――


 それから、どっと、世界が押し寄せた。
 澄んだ青、深い青、蒼、藍、濃紺、黒。
 光、闇。
 熱。
 渦巻く流れ。
 凍りつく温度。
 生命。
 死。


 無音。


 カイルは知らず、呻いた。
(これは――、想像以上じゃ)
 問えない。
 余りに異なる。
 おびただしい生命の気配。
 海の集合意識の、空間。
 得体が知れず、掴みどころがなく、どこまでも底知れず、身体の芯が凍るほど怖しい。
 混沌――まるで全てがここで溶け合い、混ざり合っているかのようだ。
(ナジャルのような存在が生まれるのも、道理だ)
 生命の坩堝るつぼであり、死がすぐ隣に鬩ぎ合っている世界。
 問うだけで、存在そのものを呑まれそうに感じた。
 ここにある自らは、ほんの一滴の雫にも満たず。
 それでもカイルは、更に意識を集中させた。
 研ぎ澄ます。自らを保ち、同時に融合させる。
 気を抜けば一瞬で呑まれ、形を失う恐怖。
 それを押しやり、カイルは問いかけた。


『――いにしえの海に、お尋ねする』


 その一言に、気力を、精神的を全て絞り出すようだ。


『御身に落ちた、若い剣士をご存知ならば、何卒――何卒、この身にお示し頂きたい』


 無言――無音。
 拒絶とも異なる。
 カイルの存在などそこには、まるで無いかのような。


『どうか――御身が呑んだ存在を』


 それすら、認識しているかどうか。
 いいや。
 認識などしていない。
 する訳がない。
 この広大な、膨大な水と闇、生命と死の世界に落ちた、たかが一つのかけらなど――


 息が苦しい。肺が張り付く。
 限界が近付いている。
 意識が揺らぐ。


「――御身にとってどれほど、無に等しくとも――」


 破裂する寸前の意識が、頭蓋を内側から圧迫する感覚。
 カイルは手を伸ばした。


「わしらにとっては、掛け替えの無い命じゃ」


 二つの詠唱が重なり、脳裏に響いた。
 身を取り巻き、包んで詠唱が流れる。セトとアルジマールのもの。
 海が揺れた。
 カイルは視線を巡らせ、そして、はっと、息を呑んだ。
 光――
 黄金の。
 丸い球体のような光が、そこに在った。
 目を凝らせばそれは、掴みどころがなく、近くにあるのかひどく遠いのか、それすらも判然としない。
 けれどその内側に、確かに――、存在を感じた。
 雪深い森の中、大切にはぐくんだ――
「レオアリス――!」
 あの光――、十八年前に見た双眸、その黄金。
 カイルは千切れんばかりに手を伸ばした。
「――王――!」
 揺らめいていた海水が、黒々と染まり、渦巻く。
 不意に、意識が吸い込まれるような、巨大な手で掴まれ擦り潰されるかのような、激しい眩暈を覚えた。
 割れ鐘を叩くようにこめかみが痛む。


 砕ける。
 溶ける。
 精神――、身体も。


 海に溶け呑まれようとしている。


 黄金の光が遠退く。
 更に腕を伸ばす。伸ばした指先から溶けていく。翼、足先。溶け切れば、もはや術から抜け出すことはできない。
 激しい頭痛と眩暈の中で、カイルは尚も手を伸ばした。
「戻してくれ」
 レオアリスが戻るのならば。
 かつて彼等がそうしてくれたように、今度は自分が――
(もう、少し)
 カイルは意識を、更に踏み込んだ。
 光が、微かに揺らぐ。


『今少し、委ねよ』


 十八年前に聞いた声だと、そう思った。
 想いが堰を切る。
「王――! 彼等の子を――、わしらの子を、どうか――、どうか!」
 戻して欲しい。
 カイルは自分の身を淡い光が包んでいるのに気付いた。
 頭痛も眩暈も消えている。
 海の意識に溶けかけていた身体も、再びそこにあった。
 カイルは身体が溶けるよりも一層の、恐怖にも近い焦燥を覚えた。
「わしは良いのです、どうか――!」


 再び届いた声。


『道を開け』



 ぐん、と、全身が引っ張られた。


 目を開ける。
 光が網膜を突き刺し、焼く。


「――カイル!」


 像が形を結んだ。
 始めは肺が張り付いたように呼吸は無く、次いでカイルは激しく咽せた。
「カイル! しっかりせぇ! 大丈夫か! わしが判るか!?」
「わ……わかる……セト――」
 辛うじて押し出した声は、潰れてしゃがれている。
 既にカイルは船の上にいた。
 セト、アルジマール、アスタロト。ユージュと、プラドとティエラ。それぞれの青ざめた顔。もう一人、西海のミュイルも心配そうに覗き込んでいる。
「アルジマール院長が引っ張り出してくれた。お前さん、呼吸が止まって……そのまま持っていかれるところじゃったぞ」
 セトの顔色は傍目に見てさえ強張っている。
 意識が呑まれれば、虚な肉体が残るだけだ。
「正直、禁呪指定にしてもいいくらいの術だね。下手に流通したら好奇心に負けた法術士が何人溶けることか。あなた方がこんな術を持っていて、かつ今も存在しているとは、驚いた。あなた方だからかな」
 感心した口調だが、アルジマールも疲労困憊の様子で肩を揺らしている。
「僕も少し見えたけど――光だったかな。僕の視点じゃかなりぼやけてる。貴方が見たものについて、今、話せますか」
「アルジマール、カイルさんもみんなも、一旦休んでからの方が」
 アスタロトは三人の疲れ果てた様子を心配したが、
「大丈夫じゃよ、ありがとう」
 カイルは身を起こそうとして諦め、ただ明瞭な眼差しを取り巻く顔触れに向けた。
 瞳が記憶を辿って動く。
「球体のようでした」
 アルジマールが傍らにしゃがむ。立っているのが厳しいのか、カイルの話をよく聞こうというのか、息を吐き首を傾けて先を促す。
「光……黄金の、球体のようでした。声が、今少し委ねよと」
 カイルは次第に息を落ち着かせ、ゆっくりと続けた。
 瞳を閉じ、そして開く。
「レオアリスの存在を、その奥に感じました」
「それって、王――!?」
 甲板に手をついたアスタロトの頬に、薔薇色が差す。
「王が、レオアリスを守ってるのかも――」
 深く息を吸い込む。
「そうだ、きっと」
 頬を輝かせ、アスタロトは甲板の上の一人ひとりの顔を見回した。
 雲間から光が差すような、そんな感覚が落ちる。
「きっと王が、傷を癒してるんだ」
 余りにひどい傷を負っていた。だから。
 王の存在は既に失われていることをアスタロトは理解していたが、それでも今、王がレオアリスを護っているのだと、何の疑いもなく信じた。
「だって、レオアリスの剣の主だもの」
 それは心に、滲むような温もりを一つ置いた。
 王はレオアリスの、剣の主なのだから。
(ああ、なんだ。じゃあ今、あいつ、王のそばにいるんじゃないか)
 目の奥が熱を持ち、アスタロトは何度か瞬きしてそれを堪えた。
 見回した顔はみな、同じ想いを共有している。
 それでも――もう戻ってきてもらわなくては。
 待っている人がたくさんいるのだ。
「もう、一つ――」
 カイルは身を起こした。セトが背中を支える。
「カイル」
「道を開けと、王は――そうも仰った」
 アルジマールがしゃがんだまま、幼い子供の仕草に似て両手で頬杖をつく。
「道か。意味するところは掴めるけど、どこに、どんな道を開けばいいのかなぁ……」
「レオアリスが戻る為の道ってことだよね。カイルさんの見た光と繋ぐ道?」
 今すぐにでも駆け出そうとする足を堪えているのか、アスタロトは自分の膝を抱え込みしゃがんだ。
 ただ、簡単な話ではないのは嫌でも解る。
 カイルが聞いた、王の言葉。
 『今少し』と、『道を』。
「どっちを優先したらいいんだろう」
「そうだね――でも、とにかく一歩進んだのは確かだ。次は『道』を開く方法を探そう」
 きっぱりと言い、アルジマールは立ち上がった。
 全員を見回す。
「陛下が道を開けと仰ったのなら、おそらくもうその時期なんだ。まだ傷が癒えてなくたって僕が治すよ」











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2021.12.5
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