二十四
詠唱が水の中に溶けていく。
アルジマールが詠唱を始めて一刻、途切れず続くそれは昨年の四月、西海沿岸に建っていたルシファーの館を復元した術式と、同じ系統のもの。
あの時、アルジマールはあたかも時を巻き戻すがごとく、空間に刻み込まれた記録を辿り、かつてそこに在ったもの――消失した館を復元した。
通常では為し得ないその技は、驚異的なまでに複雑で複層的な術式構築と、それを裏打ちする膨大な知識、知見、精神力、集中力の集大成でもある。
今、用いている術式はその派生――アルジマールは記録を投影する『復元投影』と呼んだ。
ナジャルとの最後の戦いが行われた海域、光が揺らめく海面の下に、アルジマール、アスタロト、カイル、セト、プラドの五人は呼吸を保ったまま立っていた。それから西海のミュイル。
地上と同様に呼吸を可能としているのは、ミュイルの助力によるものだ。
海上にはファルカンの船が待機している。
ナジャルとの戦いから三か月が過ぎ、既にその激しさの名残は何一つ窺えない。
穏やかに揺蕩う、青の世界。時折海の底から上がってくる泡が、身体にまとわりついて過ぎる。青くどこまでも澄んだ水に、群れ泳ぐ魚達の影絵のような姿が美しい。
アスタロトは手を持ち上げ、身体を包むごく薄い空気の膜に目を凝らした。
西海の術で呼吸は地上と同様に保たれている。
それは以前、条約再締結の為に王と共にバージェスの門を潜った時と同じだった。周囲の目を奪う美しさも。
未知の世界に踏み込む緊張と、それを上回る美しい海中の光景への驚きを覚えている。
両手を握り込み、目を閉じる。
(絶対に――)
詠唱は続いていく。
それは考えていた以上に長く、アスタロトは幾度かアルジマールに視線を向けて様子を探った。
片時も揺るがず途切れることのない詠唱に、不安と期待、様々な想いが巡る。
予定通りだろうか。
それとも、想定外に難航しているのだろうか。
(アルジマールに限って、そんなことない)
だが海に満ちる美しさとは裏腹に、アルジマールの詠唱すら留まれず、どこまでも溶けて拡散してしまうように思える。
海面に注ぐ陽の光が少しずつ角度を変え、時の経過を海中にも伝えてくる。
唱え始めて、二刻が経とうとしていた頃だ。
気付いたのはミュイルが先だった。
「あれを」
ミュイルの手が動き、指先が一点を指す。
澄み渡る海中に、泡が弾けるように光が揺らいだ。
慣れた目でなければ見落としてしまうほどの微かな変化が、次第に、揺らぐごと光の粒が集まり、密度を増していく。
それまで一言も口を開かず、じっと詠唱を聞いていたカイルが、微かな声を洩らした。
光が次第に、一つの像を結ぶ。
初めに、靴先。
踝から膝へ。脚全体が現れ、その姿が見慣れた黒い――近衛師団の軍服を纏っているのが見て取れた。
アスタロトは駆け出したくなる足を堪えた。
慣れない海中でなければ、意識する前に駆け寄っていただろう。
(私より)
駆け寄りたいのは、きっと。
腰から胸へ――それまで順調に像を結んでいた光る粒子が、一瞬乱れた。
ひやりとするよりも先に、再び形作られていく。
胸から喉。
仰向いた面。
黒い軍服に身を包んだ、少年と青年との狭間にある姿――
見つめるセトが悲しげに呻く。
「何と……ひどい傷じゃ……」
セトの言葉どおり、レオアリスの全身、息を呑むほどの状況がくっきりと現われていた。
軍服には無数の傷が刻まれた跡が残り、手足は力無く投げ出されている。
特に息を呑ませたのは、右胸に穿たれた深い傷と、千切れかけた右腕。
一瞬、もう、命がないのではないかと――
「生きておる、まだ」
カイルがようやく、声を絞り出す。
確かにまだ瞳に意思の光があるのが伺えた。
アスタロトは競り上がる想いを堪え、奥歯を噛み締めた。
これ程とは誰も、思っていなかった。
投影だと分かっていても、今、実際にそこにいるかのように、全身の傷が余りに生々しい。
「ナジャルの、牙が……あんな」
ザインが受けた傷と似たそれ――牙が貫き、裂いたのだと判る。
手に剣は無い。
双眸は何かを辿るように、上へ、海面へと据えられている。
戦いの跡を追っているのか。
「やっぱり、ナジャルを倒した段階で命は失われていなかった。希望だ。一番欲しかった情報だよ」
詠唱を止め、アルジマールは慎重に口にした。
ただそれは、まだ見極めようとする響きだ。
「傷を負った時の詳しい状況を知りたいけど、これより前を投影したら、ナジャルを映すことになる。それはやらないよ」
更に慎重に――声を抑える。
「万が一、――本当に、砂の一粒ほどの可能性でも、投影によってナジャルの思念が戻るかもしれない。そうじゃなくとも何かしらの影響が、無いとも限らないからね」
この揺らぐ海の中では、その言葉を考え過ぎだと、そう断じることはできない。
どこまでも澄み、それでいて視界はやがて濃い青に呑まれる。
「進める」
アルジマールは詠唱を再開した。
レオアリスの姿がゆらりと揺らぐ。
海面へ――海上へ向けていた瞳を閉じ、そして、沈む。
アスタロトは堪らず手を伸ばした。
「レオアリス――!」
「術式の像だ、公爵。掴めないし、変えられない」
アルジマールの声が厳然と耳に届く。
「でも!」
「見なくちゃ――この先を。その為だよ」
更に詠唱が重なる。
レオアリスの身体はただ沈んでいく。
暗い海の底へ。
アルジマールは術式を唱えながら、アスタロトの横顔と、そして彼女と同じ様に、沈んでいくレオアリスの姿を食い入るように――呼吸を失い見つめているカイルとセトを見た。
あれほどに傷付いた姿を、ただ遠のいて行く姿を見せるのは酷だろう。それでも全員が術の結果を見ようと目を凝らしている。
視線を戻し、次第に遠くなるレオアリスの姿を追う。
「揺らぎ出した――」
口の中で微かに呟く。
像を結ぶ粒子が解け始めているのが、術式を介して伝わってくる。
法術が薄れ始めている。
まだ二十間(約60m)ほどしか離れておらず、地上であれば何の問題もなく制御できる距離だ。
(やっぱり、海中は難しい)
自ら作り出した投影の姿に、意識を這わそうとした時――
その姿が、不意に、消えた。
手で拭い去られたように。
「何? アルジマール!?」
アスタロトも身を乗り出し、暗い海の先に目を凝らしている。
(消えた)
アルジマールは口の中で呟き、再度、声に出した。
「消えた」
「消えた? どういうこと?」
やや上擦った響きだ。
「いい方向なんだよね? だって、消えたなら――あのまま死んじゃったとかじゃない。どこかに」
どこかにいる、その証だと。
「そう、そうだ。そう想定してた。けど」
まるで捉えられない。術式が切れた訳ではなかった。
術式が導いた結果だ。
けれど、砂を噛むような思いがした。
「これ以上は再現できない――」
首を振る。
「いいや、構わない。気配が辿りきれないことなんて初めからわかってるんだ」
アルジマールの言葉は周りに向けたものではなく、自分自身に言い聞かせるようだ。
「ここで気配が途絶えたところまではわかってる――確認できた。問題はその先だよ」
息を吐く。
「僕の法術じゃ、これ以上追えない」
その姿、悔しさと苛立ちを覗かせた声は、初めて見せるものだった。
「――な、何か方法が、あるよ。私、あの辺りを、探して――」
アスタロトは言ったが、方法を持っている訳ではない。
それでも何か、できることがあれば。
「ここまで来て、今の――ナジャルを倒した直後の様子も分かって、もう一歩じゃないか。私が、私にできることがあれば何だって」
「――」
「アルジマール……!」
「――アルジマール院長」
俯いていたカイルが、一歩、踏み出した。
顔をしっかりと上げ、アルジマールを見つめている。
「わしらも、探します」
緑の瞳がカイルと、そしてその後ろのセトを捉える。
「方法がありますか?」
「一つ」
カイルが頷く。
「じゃが、本来は地を媒介とするもの、媒介をこの海にして、果たして上手くいくかは」
「やってみよう、カイル。何でも、可能性がある限り。わしが補佐する」
「分かりました。何を試しますか?」
王都でも、カイル達は自分達にもできることがあると、そう言っていた。
「わしらは、自然の力を借りる法術を身につけてまいりました。主に土の力を――それを応用し、海に意識を繋ぎ、彼等に尋ねます」
「海の意識か――なるほど」
面白いな、と呟く。緑の瞳に灯る光が揺らぐ。
「意識――?」
アスタロトは自分の中に甦ったかつての光景に、真紅の瞳を見張った。
深い森。
地面に、折り取った木の枝の先が法陣を描く。
詠唱と、法陣の中心に立っていた、少年の背中――
「それ、カトゥシュ森林で、レオアリスがやった術――」
カイルとセトは驚いた様子で瞳を丸くした。
「レオアリスが?」
「うん。そうだ。森と意識を繋ぐ探索の術だって。黒竜の気配に苦しんでたアーシアを助けてくれた」首を振る。「えっと、それは本来の術の目的じゃないって言ってたけど、でも私が頼み込んで、それで」
カイルもセトも、アスタロトの言葉をじっと聞いていたが、内から温もりが滲むように笑った。
「あれの術が、成功しとったか――」
「しかも、わしらができる最大の術じゃ。村にいた頃、土の術式などほとんど成功しておらなんだが」
「途中で倒れてたけど」
カイルとセトは顔を見合わせ、束の間声を立てて笑った。
「――頑張ったんじゃのう」
感慨深く息を吐く。
カイルは深く呼吸し、顔を上げた。
「なら、わしらが手本を見せてやらんとな」
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