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王の剣士 七

最終章

『光を紡ぐ』



 
 飛竜の背からセルファンの手を借りて降り立ち、ファルシオンは空を見上げた。
 白い雲が幾筋も、風に薄く伸ばされながら南へ流れていく。
 眩しい太陽は背後の街、登っていく斜面の頂きを超えて高く昇り、街と港を照らし、その前面の海をきらきらと光を砕いたように輝かせている。
 南西の街フィオリ・アル・レガージュは、三月末に訪れた時の記憶よりも空気はずっと冷え、そして海も空も、どこか遠い場所にあるように思えた。
 港に降り立った飛竜は三騎、ファルシオンとセルファン、そして南方将軍ケストナー、北方将軍ランドリーを乗せてきたものだ。
 ボードヴィルからファルシオンを護衛した十騎は、まだ上空を警戒飛行している。
 彼等とは別に、一頭、鞍が空の飛竜が飛び出す。銀翼の――
 戦いがあった沖へ。まだ傷付いたままの翼が青い空を切る。
 弧を描き、一声高く鳴いた。
 物悲しい声と銀色の輝きに吸い寄せられる瞳を、ファルシオンは懸命に引き剥がし、前を見た。
 港は散乱していた瓦礫が片付けられ、白い石畳が陽光を受けて目に眩しい。
 港を囲むように集まった住民達がファルシオンの姿に喜びの声を上げている。彼等の声に重なり、奏でられる潮騒。
「国王代理、王太子ファルシオン殿下――」
 アスタロト、交易組合長カリカオテと幹部、レガージュ船団長ファルカンと領事スイゼルが四人を迎え、幼い王太子へ、深々と顔を伏せた。
 アスタロトが顔を上げる。
「殿下をこのレガージュへお迎えできたこと、誇りに思います」
 気丈な口調と裏腹の憔悴した顔を見て、ファルシオンは瞳に浮かびかかった感情を瞬きで堪え、頷いた。
 視線を移す。
 もう一人、ファルシオンの前に進み出て一度膝をつき、立ち上がったのはヴェルナー、――転位陣を用い王都から四半刻前にレガージュへ到着したばかりのロットバルトだ。
 再び感情が込み上げる。ファルシオンは唇をきつく引き結んだ。
「この度の勝利、御慶び申し上げます」
 短く、だが敬意を以って告げられた言葉と、響き。二人の会話もまたそれだけで、蒼い双眸をやや伏せ、ロットバルトはファルシオンへもう一度一礼すると陽光を弾く海へと向き直った。
 溜めていた息をそっと吐き、黄金の瞳で港の先を見つめた。
 少し強い風が海から吹いてきて、髪と服の裾を散らす。
 今、港に着岸しようとしているのは、マリ海軍の二隻の船だった。その威風堂々たる船を、港や通りにいたレガージュの住民達の喜びと讃える声が迎える。
 歓声の中、船から降りてくるマリ海軍提督メネゼスを、ファルシオンはしっかりと顔を上げて待った。
 やがて正面に立ったメネゼスの隻眼と向かい合う。拙い、まだ覚えたてのマリの言葉で、ファルシオンは礼を述べた。
『メネゼス提督、御尽力に、感謝します』
「貴国への力添えが叶い、光栄です」
 メネゼスはアレウスの言葉で返すと、伸ばしたファルシオンの小さな手を無骨な手で包んだ。
 歓声は一層大きくなり――次にざわりと、揺れた。
 桟橋にもう一者、現れた姿に住民達が気付いたからだ。
 レガージュの住民達の反応は、マリ海軍へのそれとは明らかに異なった。
 緊張と、警戒。それまでの喜びに満ちた空気を圧して広がる。
「西海――」


 西海第二軍将軍レイラジェと副官ミュイルは、自分達へ突き刺さる数十、数百の視線と向き合った。
 その中へ入って行くのは恐ろしく困難だと、戦場に慣れたミュイルがそう感じるほどの、透明で分厚い壁のようにも思える視線。
『閣下』
 レイラジェは傍らの副官に視線を向けた。ミュイルが弱気になっていることに驚き、レイラジェは自身も一瞬、荒れる潮流か深い海溝を前にした時のような感覚を覚えた。
(仕方のないことだ――)
 アレウス国の、とりわけフィオリ・アル・レガージュの住民達が西海に対しどのような感情を抱いているのか、レイラジェにも理解できる。
 四百年前に始まった大戦、街がその名を冠した人物、そして今回の戦い。
 西海の民もまた、アレウス国に対して同じような感情を抱いている者は多い。彼等をこの先まとめていき、そして新たな国の基盤を整えて行くのが、レイラジェが負うべき役割だ。
『ミュイル。ここからの道が長い。だが仕方がないだろう。我等は四百年動かず――』
 レイラジェは桟橋を、広場へと歩き出した。
 ミュイルが後に従う。
『あのとき踏み出すべきだった一歩を、今ようやく、踏み出したのだからな』




 横長の卓に座るのは、アレウス国国王代理王太子ファルシオン、正規軍将軍アスタロト、十四侯の名代としてヴェルナー侯爵ロットバルト。
 マリ王国、海軍提督メネゼスと、その副官ガルシア。
 西海――穏健派、将軍レイラジェと、副官ミュイル。
 三者はレガージュ交易組合会館の一室で顔を合わせた。
 終戦後に向けた会談の、これがまず第一歩となる。
 ファルシオンは改めて、まずはマリ海軍提督メネゼスへ、幼い声で心からの礼を述べた。
「提督の艦隊のご協力のおかげで、ナジャルを倒すことができました。わたしたちアレウスは、提督とその艦隊への感謝と、マリ王国のご厚情をわすれません」
 そして、レイラジェへ。
「初めて、お会いします」



「王太子殿下――」
 住民達は交易組合会館前の広場に、誰ともなく集まり、会館の窓を見上げていた。
 二階の中央の窓の幾つかが、ファルシオン達が会談をしている部屋だ。
「西海と、話をされるのか……」
 それによって戦いが本当に、終わるのだ。
 ファルシオン達が会館に入ると騒めきは小さくなったが、それでも収まらない。
 あちこちで小声で交わす声が聞こえている。
「あいつ等が、責任を取るんだよな?」
 ぽつりと、だが険のある声が起こる。
 一瞬、空気が冷たさを増した。ちくりとした棘が含まれる。
「この戦いは奴らのせいだ」
「あいつらが攻めてこなければ、俺達の港だってこんなに破壊されずに済んだんだ」
「この戦いのせいで船団の船を、交易船を何隻失った?」
「俺の息子だって死ななくても良かった」
 騒めきは苛立ちを含み再び大きくなっていく。人から人へ、感情が伝播していく。
 レガージュ船団長ファルカンは、交わされる声を背に数度、深呼吸を繰り返した。
 この街の代表の一人として、住民達を宥めなくてはならない。長い戦いは終わった。これからの話を西海も交えて行う必要があり、今それが始まろうとしている。
 真にこの先の営みを取り戻し、国をつくっていく為に。
 だが住民達の憤りも解る。ファルカンの部下も幾人も命を落とした。
 それでもだ。
(ザイン――あんたなら何と言う……?)
 ザインがここにいればと、心底願った。
 彼が一言言えば場は静まる。大戦後、三百年に渡りこの街の守護者だった彼ならば。
 そのザインを、この戦いで失った。
 今、彼等にファルカンの言葉で、何を言えばいいのか。
(怒るなと? 堪えろと――? 受け入れろ――?)
 どれも相応しくない。どれも違う。
 それ等はどれも、今口にしてもそれこそ受け入れ難いものだ。
 アスタロトやファルシオンが説けば、一時的には納得するかもしれない。
 だが、この場を収めるのはアスタロトでも王太子ファルシオンでもなく、ファルカン等レガージュの住民達の役割なのだ。そうでなければならない。
 相応しい言葉を思いつかないまま、ファルカンが尚も大きくなっていく騒めきの前に出ようとした時、港を取り囲む人垣の中から、若い男が掻き分けるように進み出た。
「――お、俺は、海の中に放り出されて、彼等に助けられた」
 上半身には包帯が巻かれ、右腕を吊っている。
「何だお前――西海の肩を持つのか?」
 睨まれ、首を引く。
「そ、そうじゃない、けど」
 皺を刻んだ男が進み出た男を見据える。怒りよりも悲嘆が彼を覆っている。
「お前は助かった。でも俺の息子は死んじまった。海に落ちた。遺体になって戻ってきた」
「あれはナジャルのせいだ。彼等は海に落ちた俺達を助けてくれた。あんたの息子も、海の中から連れ戻したのは彼等だよ」
「うちのひとも、助けてもらったよ」
「助かった奴に、家族を失った人間の気持ちがわかるか!」
 いくら何でも、と諌める声と同調する声があちこちで上がる。連鎖するように騒めきが大きくなり、広場に広がった。
 このままでは諍いが住民自身の間に生まれてしまう。
「落ち着け!」
 ファルカンは輪の中に出た。
 レガージュ船団長の姿に、膨れ上がりそうになった喧騒がすうっと萎む。
「俺達はみな、ナジャルと戦った。ナジャルをここで、倒さなきゃならなかった。西海の協力がなければ、まだナジャルを倒せてなかったかもしれん」
「だからって西海を許すのは別だ」
 そうだ、と叫ぶ声があちこちで上がる。
「許さなきゃ戦いが終わらない。終わらせなきゃならん」
「綺麗事だ、団長。団長は納得できるってのか? 船団の船だって何隻も沈められた」
「西海に対価を払わせろ。まず西海が、対価を払ってからだ」
 ファルカンは努めて冷静な声を張り上げた。
「それは無いわけじゃない。だが今の西海は海皇でも、ナジャルでもない。責任をどこまで負わせるのか、それは慎重にならないと」
「だからそれが綺麗事だと」
「みんな、聞いて――!」
 若く、語尾に震えを含んだ声だ。
 ユージュが踏み出し、住民達の前に立った。まだ少女の面差しの、喪失と悲しみを深く滲ませた顔で、慣れ親しんだ顔ぶれを見回す。
「ボクも父さんを失った。死んでしまった。あんなに強かったのに。ずっとずっと、ボクのそばにいてくれると、思ってた」
 ザインが死んだという事実は――それがユージュの口から出たことは、街の人々にもう一度強い衝撃を広げた。
「この戦いが始まる時だって、父さんが死んじゃうなんて、考えてもなかった――。簡単に勝てる戦いじゃないって、わかってたのに」
 広場に広がっていた喧騒は、拭い去られたように消えた。薄い雲が太陽を淡く隠す。
「でも父さんは、ボク達を守った。レガージュを守った。レガージュを守ったっていうことを、ボクは、この国を守ったっていうことだって、考えてる。だって、レガージュはこの国の、交易の玄関口だから」
 ファルカンは息をするのも忘れ、ユージュの姿を見ていた。
 ファルカンだけではない、ここに集まった住民達の誰もが――
 ユージュの上に、ザインの姿を。
「レガージュが栄えることが、この国が栄えることだと、そう思ってる」
 そして、名前だけ知っていて、目にしたことのない、一人の女性の姿を。
 この街は、その女性の名を冠し、そして住民達はそれを誇った。
「みんな。ボク達はまず、これから、みんなでレガージュの港を直さなきゃ」
 彼等の一人一人、その目を捉え、見つめる。
「全部直して、前よりももっともっと栄えるように」
 ユージュは凛と顎を上げ、声は太陽の光を含んだ波のように広がった。
「西海との戦いは終わった。これから、どうなるか、ボク達レガージュにかかってるって、思う。また戦うのか、それとも、交易か」
 薄い雲が隠していた陽光が、広場に降り注いで照らす。
 海に。
「西海とだって、ボク達は繋がれるでしょう。交易で繋げて、この街と、この国を栄えさせる。それがフィオリ・アル・レガージュの――ボク達の誇りなんだから」












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2021.9.12
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