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王の剣士 七

<第三部>

第四章『遠雷2』


「東南ワシュール地方の複数の街からも、街道外れでの目撃情報が多く寄せられています」
 正規軍東方第七大隊軍都サランバードの大将執務室で、副将イェンセンはくたびれた印象の背中を億劫そうに伸ばした。濃紺の軍服は目の前の大将と大差ない仕立てだが、この男が着ると何故かうだつが上がらなく見える。
「しゃんとしろ」
 大将シスファンは年上の部下に一言そう言い渡し、弓なりの眉を顰めた。
「確実に広がっているな」
 シスファンは壁に掛けられた地図を眺め、椅子の上で脚を組み替えた。身体を受け止めた椅子の背が微かに軋む。
 左の肘置きに頬杖をつく。
 横に立つイェンセンが心を入れ替えたのか、先ほどよりも姿勢良く腕を組み、同様に地図を睨んだ。
「ミストラ山脈の麓から始まって、三日後には五里先の村が被害により全滅。その後北東のローア村、サルボ村、いずれも山脈沿いの村ですが五つの村が被害を受け、更に被害はこの十日で、急速に南方へも広がっています」
「こうやって地図上に落とすと、改めて問題の根深さを実感させられるな」
「厄介なのは魔獣共が簡単には倒せない他に、複数の種に渡ってる点でしょうな。駆除の仕方も違えば出没時間も違う。中には一頭駆除するのに一班失いかねん状況です」
 数十人程度の村などひとたまりもないようで、と、イェンセンは口元を歪めて肩を竦めた。
「襲われてからじゃ間に合いませんので、まだ襲われていない村の近辺ではそれぞれ三班編成で巡回警備もさせてます。が、ご報告の通り先日サルボ村が襲われた際、付近にいて駆け付けたトール班が全滅しました」
 口元の無精髭に近いそれを二本の指で引っ張る。
「現状、問題がどの程度で収束するか判別し難いな。今はまだ始まったばかりの状態だ、このまま獣共の数も被害も拡大し続け、いずれ中隊一つ食われるかもしれん」
「まったく貴方は嫌な事ばかり仰る」
 イェンセンは情けなく眉尻を下げたが、シスファンの指摘は良く分かった。
 魔獣出現のきっかけは、間違いなくあの日だ。
 とすれば回復する事があるのかと、イェンセンは声に出さず苦々しく呟いた。
「問題はとかく軽く考えたいものさ。だがそうやって目を逸らし準備を怠れば、気付いた時には手遅れになっている」
 シスファンは黒い瞳に自戒とも皮肉とも付かない光を浮かべ、執務机に右手を置いた。もう一度、イェンセンが用意した報告書を手に取る。
「今後、編成の中に必ず法術士を最低二名組み込め。一般の法術士を登用しても構わん。獣共の特性、出没場所や時刻、被害状況は必ず記録し、行動を予測しろ。各街や村には住民の不必要な外出を抑える事、商隊には警護を雇う金を惜しむなと触れを出せ」
「早速、手配します」
 イェンセンは敬礼し、珍しく軽口も無く執務室を出た。





 ガタゴトと揺れる馬車の中で二人は震えていた。
 姉は弟の、弟は姉の冷えた身体を抱きしめ、唇をきつく噛み締めながら時折耐え切れず啜り泣きを漏らす。けれど声が外に届けば容赦なく壁を蹴られた。
 足元はささくれた木の板で、周りと上は錆びた鉄格子に囲まれていた。その檻を収めた馬車は、馬車というより箱のような代物で、古びた板張りの壁や天井はあちこち隙間ができ、そこから光が漏れている。
 二人が身に付けている衣服は彼等の育ちの良さを表すものだったが、今はあちこち汚れ、破れ、幾つも血の染みが飛んでいた。
 この鉄格子の中に押し込められたのは昨夕──、二人のいた商隊が街道で野盗に襲われ、何も判らない内に連れて来られた。
 一緒にいた店の者や護衛達がどうなったか判らない。二人の両親も。
 自分達がどうなるのかも判らない。
「お姉ちゃん……」
 六つ下の弟を抱きしめ、十四歳の少女は震える声で懸命に背中をさすった。
「大丈夫、大丈夫だから。誰かが、きっと、きっと、お父さんとお母さんが助けてくれるから」
「ほんとうに?」
「お姉ちゃんを信じて。きっとお父さん達が探しに来てくれる。お父さん言ってたもの、最近は正規軍がたくさん、街道の警備をしてるんだって」
 正規軍と聞いて弟の呼吸がやや落ち着きを取り戻したように思え、少女は声に力を込めた。
「きっとだから」
 この辺りは本来東方軍第六大隊の管轄地だが、現在は第七大隊が警備の手を割いている状況だ。ただそれは少女達にとって重要ではなく、正規軍が早く気付いて――彼等の父と母とが正規軍に知らせて――助けに来てくれること、それをひたすら待ち望んでいた。
 野盗に捕まってすぐにこの檻に押し込められ、それからずっとこのままで、外の様子は判らない。馬車はいっとき止まったが扉は一度も開く事はなく、外から野盗達の騒ぐ声が聞こえ、そして静かになって、二人が恐怖よりも眠気に負けてうとうととし始めた頃、また馬車は動き出した。
 一度、南へ向かうという言葉を聞いた。
 二人が暮らしていたのはタチアという東南ワシュール地方の中規模の街で、両親はタチアで一二を争う裕福な商人だ。ワシュール・ロー街道を東へ、タチアに帰る途中、商隊が野盗に襲われた。
 商隊は十名の警護も含めて二十人もいたのだが、野盗はもっと多かった。
 いきなり騒ぎが起きて、その後はあっという間だった。
 少女の目の前で、父親が──
「嫌……っ」
 助けに来てくれる。父も、母も、きっと──
 唐突に叫び声が上がった。
 少女はそれを初め、恐怖のあまり自分か弟が叫んだのかと思った。
 だが、違う。
 馬車から離れた所でその叫び声は聞こえたようだ。苦痛に悶えるような、濁った叫び。
 二人は更に身体を縮こませ、隙間から差し込む光を縋るように見つめた。
 怒鳴り声が聞こえる。
「な、何だ、こいつら……!」
「どうした!? 襲撃か?!」
「化……」
 野盗達が慌ただしく駆け回る音と、そして悲鳴。苦痛の叫び。
「へ、兵隊さんかな」
 二人の胸の中に微かな希望が沸き起こる。
 何が起こっているのか二人には全く判らない。
 何故こんなに怖いのだろう。
 何故あんなに苦しそうな叫びが上がるのか――いや。
 相手が何であっても盗賊達を懲らしめてくれるのならば、それは救いだ。懸命にそう思った。



 その時荷馬車の外で起こっていたのは、惨劇だった。
 野盗達が昨夜、姉弟の商隊を笑いながら蹂躙したよりも更に、おぞましく、正視に耐えない光景が、瞬く間に広がった。
 僅か七体の獣によって。
 野盗は首領である三十代後半の男を筆頭に、五十人近い男達で構成されていた。野盗がこれほどの規模で集団を組んでいるのはあまり例を見なかっただろう。
 彼等は元々三つの集団が手を組んだのだが、それには二つの理由があった。
 一つは、正規軍が西海と東方公への対応に追われている事により、大きい組織では目立ちやすいという不利よりも対抗しやすいという利点が優った事。
 そしてもう一つは、街道の危険が増した事。
 獣の増加と、魔獣の出現だ。
 狼や熊といった人や家畜を襲う獣が村や街道付近まで姿を見せるようになった事に加え、それらとは比べものにならない危険な生物が街道を行く人々を襲い、喰らうようになった。
 魔獣と一括りに呼ばれるそれらは、様々な姿形をしていた。
 熊と虎の合いの子のようなもの、鷹に似た姿をした空を飛ぶもの、蜥蜴に似た姿のもの。
 ミストラ山脈の麓から現れ、黒森ヴィジャから現れ、また熱砂アルケサスの砂丘から現れた。
 今、男達を襲い、鋭い爪で切り裂き、貫き、そして生きたまま貪っているもの・・──それは、成人の男よりもふた回りも大きい、猿に酷似した姿をしていた。



 怒鳴り声、罵り声、悲鳴、何かが倒れる音、湿った音、助けを求める声。
 急激に騒がしくなった外の音が、次第に細くなり、四半刻も経たない内に止んだ。
 震えていた二人は、今度は恐ろしいほど静かになった外の気配に、おずおずと互いの肩口に伏せていた顔を上げた。
「……お姉ちゃん……」
 少女はじっと目を凝らした。
 板の僅かな隙間。
 時折呻き声が聞こえる。
 隙間風のような、笛を鳴らすような音とか。
 その中を歩く、幾つもの、湿った足音。水溜りの中を歩いているような。
 野盗なのだろうか。それとも、他の誰か?
 板の隙間の前を誰かが横切った。
『──誰カ、マダ、イルカ』
 軋んだ声がした。
 野盗達の脅しつける声とは全く違う、ただ、どことなく不自然な耳触り。
「お姉ちゃん! きっと兵隊さんだ」
 弟が息を吐き出しながら、熱を持った声で囁く。
「僕たちを、助けに来てくれたんだ」
 そうだろうか。
 少女は光の射し込む隙間に、更に目を凝らした。
 ぼんやりとした影がある。
 誰かがこの馬車の少し先で、ゆっくりと、身体を揺らしている。
 全身が黒い──
 それ・・が振り返る。
 少女は短く息を飲んだ。
 黒っぽい毛皮。長い腕。
 猿面。
『誰カ、イルカ』
 少女が口を塞ぐより早く、弟が身を乗り出した。
「僕たち、ここだよ!」
「駄目!」
 腕を伸ばして抱え込み、少女は弟の口元を覆った。
 けれど、アレは馬車を見た。
「ひ」
 近付いてくる。
 躯を揺らし、長い腕を揺らし──その右手に、野盗の男の腕を掴んでいる。でも男の肩から先が無い。
 猿の黒い躯は血で濡れていた。
 ガチガチと歯が鳴った。
(きっと、きっと、見間違い、そう)
『誰カ、イルカ』
 壁の隙間に人のものとは明らかに違う指が掛かり、板が音を立てて割れる。
 射し込む日差しを背に、ぬうっと突き出した顔。
 弟が悲鳴を上げた。
 猿だ。
 見間違いなどではなく。
 巨大な身体を、猫背に丸めている。
 全身を覆う灰色の毛並みが、血で赤黒く濡れていた。
 堪らず、少女の喉からも悲鳴が湧き上がる。
『マダ、イタ』
 牙と歯を剥き出し、怪物はにぃ、と笑った。
 あんなにも頑丈だと思っていた鉄格子があっさりと折れ曲り、伸びた手が弟の腕を掴む。
「お姉ちゃん!」
「駄目!」
 猿は弟を檻の中から引き摺り出した。
「──ケイン!」
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
 後ろから板壁を割る音と共に、けむくじゃらの腕が伸びる。
 弟の手を掴もうとしていた少女の身体は、壊れた檻と共に、あれほど隔たれていた外へ放り出された。
 水溜りに檻ごと落ちる。肩と背中を打ち付け、目が眩むほど痛い。水飛沫が──水飛沫ではない、どろりとした、紅い、血飛沫が、檻の中に跳ねた。
 少女は呻いて身を起こし、辺り一面あちこちに溜まった紅い血と、その中に散らばる腕や脚や身体を見た。
 転がった頭の、恐怖と苦痛に見開かれた濁った目が少女へ向けられている。少女達を檻に放り込んだ男だ。
 再び悲鳴を上げた。
 檻が軋む音を立て、悲鳴を上げながら見上げると、二匹の猿が錆びた鉄格子の檻に伸し掛かっていた。
 めりめりと軋む。
 けむくじゃらの腕が肩を掴む。
 爪が食い込んだ。
 弟が自分を呼ぶ泣き声が聞こえる。
「ケイン!」
 死ぬのだと、思った。

 不意に──
 仰向けの少女の視界を影が過った。
(鳥──?)
 渦巻く恐怖の片隅でそんな言葉が浮かんだと同時に、肩に食い込んでいた力が、ふっと消えた。
 瞬きする少女の前で、檻に覆いかぶさっていた二体の猿の化け物が躯を傾がせ、地面に倒れる。
 上半身だけが。
 腰から下は血を吹き出しながら、まるで初めからそこが外れるものだったかのように束の間揺らぎ、上半身に少し遅れて少女の視界から消えた。
 その向こうに銀色の光が疾る。
 訳も判らず、唇を半開きにしたまま首を巡らせた少女は、弟を引き摺り出した猿が同じように半分に割れ、倒れるのを見た。
 代わりにそこに立っているのは、いつの間に現われたのか、──少年だ。
 少女とほとんど歳が変わらないように見えた。
 手に剣を握っている。
 いや──、右腕の肘から手首にかけて、一振りの剣が伸びている。
 唸り声と共に、更に四体の猿が少年の周囲に降り立った。
 少年へ長い腕を伸ばし、或いは跳躍し飛び掛かる。
「あ」
 危ないと叫ぶ間も無く、再び銀色の光が奔り、そして猿達の姿はなかった。
 立っているのは少年だけ──、猿達はその足元に倒れている。
 少女は身を起こすのも忘れたまま、首だけを巡らせてその光景を見ていた。
「大丈夫?」
 穏やかな声がかかり、少女はまだ茫然としながら声の方向へ顔を巡らせた。
 傍に誰かが膝をつき、少女の肩をそっと抱え、起こしてくれている。
「無事だね? 間に合って良かった」
 そう言って微笑んだのは、黒髪の優しそうな顔をした青年だ。二十代半ばだろうか。
 ぱちぱちと瞳をまたたかせ、はっと我に返った。
「ケイン! ケイン! ケイ──」
「喚かなくても無事だってば、ほら」
 ややつっけんどんな声とともに、弟の身体がストンと少女の腕の中に落ちる。
「ケイン!」
「ティル、もっと優しく扱わないと」
「助けてやっただけでも充分お釣りが来るよ」
 ケインは怯えきっていたが、大きな怪我はないようだった。
「お姉ちゃん」と、微かな声が溢れる。
「ケイン──」
 ひしと抱きしめ、安堵したのと同時に、少女はそれまで張り詰めていた糸が切れるように、意識を失った。
「あっ、待て、寝る前にお前達の街だか村だかを教えろ!」
 ティルと呼ばれた少年の声に言葉を返したのは、弟のケインの方だった。ケインはまだ恐怖が残る瞳に、それでも輝きを浮かべた。
 それ・・は幼い少年達にとって、憧れそのものの存在だ。
「剣士──、王の剣士さま……?」
 だが呼ばれた少年は、まだ右腕に剣を残したまま憤慨したようにケインを見下ろした。
「王の──? って、違うよ! こらガキ! お前らを助けたのはこの僕、このルベル・カリマの麗しきティルファング様」
 青年が慣れた様子で肩を竦める。
「誰かなんてどうでもいいじゃないか」
「良くない! レーヴ、全く良くない!」
 ぽかんと見上げるケインを余所に、ティルファングと名乗った少年はレーヴという青年を睨んだ。レーヴと同じ黒髪、面差しは愛らしい少女のようだ。
「僕はなぁ、僕達が地道な仕事してる間にアレばっか有名になって、腹立ってる訳よ? 剣士っていったらまずアレみたいなさぁ」
「二刀だし、立場も立場だし、順当だと思うよ。あのジンの血筋だし」
「ジンは僕も好きだ。会ってみたかった。でもそれとこれとは違う」
「そうかなぁ」
 レーヴは穏やかな顔に、ほんの僅か、憂いを帯びた。
「俺は、俺達があんまり表に出て、いい事は無いと思ってる」
「……何だ、長と同じこと言って──あ、しまった」
 ティルファングが首を傾げる。
「勝手なことやって、長怒るかな?」
「大丈夫だよ、今回は。何にしてもこの子達、どうしようか──あれ」
 レーヴが見下ろした先で、ケインもまた、姉にもたれるようにして眠っていた。



 少女達が目を覚ましたのは、翌日になってからだった。
 保護された街の領事館で事情を聞かれた時には、二人を助けた少年と青年の姿は無かった。










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2018.6.17
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