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王の剣士 七

<第三部>

第四章『遠雷2』


「西海軍の底が見えない事が最大の問題だ」
 タウゼンは卓上に広げた地図を睨み、その上に置いた拳を握り込んだ。
 王都正規軍総司令部の広い議場中央に置かれた長い卓を、タウゼン、参謀総長ハイマンスと参謀部一等参謀官四名、王都守護隊である各方面軍第一大隊大将四名とその副官が囲んでいる。
 そして正規軍将軍アスタロトが議場奥の椅子に座り、タウゼン達と同じく地図を見据えていた。
 地図上に幾つかの木彫りの駒が置かれている。
 それぞれ騎馬の胸部から上を模したその駒の、バージェスに置かれた黒は北方軍を示し、ボードヴィルの白は西方軍、フィオリ・アル・レガージュにある赤が南方軍を表していた。唯一東方軍を示す緑の駒のみが内陸部東部に位置している。
 六月十一日現在、バージェスの北方軍一万強に対し、一度八割を削り国境まで敗退させた西海軍は現在二万に膨れ上がっている。
 ボードヴィルは西方軍七千に対し六千、フィオリ・アル・レガージュには南方軍九千が同数の西海軍と対峙していた。使隷を含まず、そしてこれまで打ち倒した兵を含まずの数だ。
 おそらく全てを含めれば現在判明している総数は七万にのぼっていた。
 そしてなお、西海には増強の気配がある。
 ハイマンスが図上に落としていた視線を上げる。
「我々が想定していた西海軍の総数は九万、三の鉾一人が三万を指揮する体系と考えておりました。ただこの情報は大戦終了時の西海軍残存兵数四万弱からの類推に寄るところが大きく、また西海は情報を表には出さず、そして我々は今日こんにちの事――再度の戦乱を避けようと考えつつも、現実に起こり得る事とまでは構えておりませんでした」
 アレウス国は大戦終了時に保有していた十六万の兵数を、現在の八万四千まで、三百年の間に徐々に縮小していった。財源を国土の回復及び発展に充てる為だ。交通網の整備、都市の生活基盤の整備、新たな耕作地の開拓。
 大規模な軍事力の縮減を成し得た大きな要因は、この国の三方が黒森ヴィジャ、ミストラ山脈及び熱砂アルケサスの天然の障壁によって外敵の侵入を阻み、唯一国境を接していた西海との不可侵条約を締結した為に他ならない。
 正規軍が対応すべきは第一に国内の治安維持、そして万が一の西海との戦乱勃発への対応。
 だが大戦後三百年を経て、その脅威はあまりに薄れていた。
「もし再び戦争が勃発した時、西海が軍を分けて来るのは当然想定しておりました。大戦時と同様、バージェスとフィオリ・アル・レガージュ」
 それ以外の国境は高い断崖の連なる地形が多く、西海軍の上陸を阻んでいた。
「ですが今回ボードヴィルに出現した事で、我軍は兵力を更に分散せざるを得なくなりました」
 それでも報告された西海軍の兵数に対し、正規軍はそれを上回る兵数を各個に投入した。初期に敵兵力を凌ぐ兵力をぶつけ、戦力差を以って一息に決着を付けるのは戦の常套手段でもある。
 正規軍各方面軍二万一千全てを動かす事も議論されたが、国王の不在、そして東方公の造反により、国内の混乱と更なる造反の可能性を不安視せざるを得なかった。
 だが当初の戦略は甘かったと――、おそらくこの場の誰もが口には出さずとも考えている。
 各戦場は膠着状態のままの東方軍以外、このひと月の間に面的優勢と局地的な敗走を繰り返しながら、じりじりと押し込まれている状況だった。
「西海軍に確固たる戦術が見えず、陸上戦闘に対応しきれていないのが幸いか」
 西海軍の脅威――局地的敗走を招いている原因は、ボードヴィルにある三の鉾ゼーレィ軍及びナジャル、そして兵を吐き出し続ける皇都イス。
 これらへの対処方法の確立が現在の課題だ。
 ナジャルは為す術無い暴風の如き脅威だが、歌声により水を操り切り裂くゼーレィ軍もまた、打ち崩す事が容易ではない相手だった。
 アスタロトは溜息を抑えた。
「現在募っている兵は、実戦投入できるのにどれだけかかる?」
「この十日で合わせて五千名、各主要都市で志願兵が集まりました。都市の警備隊からの志願もあり、基礎を持った者も多くおります。一方で、農具から剣に持ち替えたばかりの者が三分の一いることも事実です」
 タウゼンの後をハイマンスが引き継ぐ。
「既に第二大隊もしくは第三大隊に配備し、練兵を始めております。彼らを含む部隊の投入が可能となるのは、早く見積もってこの月末かと」
 本来は可能な限り短く見積もったとしてもせめて二ヶ月欲しいと、その言葉をハイマンスは敢えて飲み込んだ。悠長に構えている時ではない。
 肩の位置で切りそろえた黒髪を揺らし、アスタロトは椅子から立ち上がった。
「頼んだ。必要であれば私も戦場に赴くつもりだ」
 タウゼンとハイマンスが視線を交わす様子に、アスタロトはそっと唇を引き結んだ。
 今のアスタロトが戦場に出ても――、そう、何も状況を変える事はできない。それはアスタロト自身、良く自覚していた。
 どこかに光明がないか。
 このひと月半、その事を考え続けている。
 ずっとだ。
「兵達の慰労を。財務院には報奨の底上げを依頼してある」
 タウゼンや参謀部、大一大隊の将校等が敬礼を向ける中、アスタロトは議場を後にした。





「退け――!」
 足元が震え、水溜りとなって散らばっていた水が刃となって屹立し、騎馬ごと、纏う鎧ごと、兵を切り裂く。
 大量に撒き散らされた血はそれこそが、高らかに歌う人魚達の新たな剣となった。
 ワッツは騎馬の鼻先を掠めた血の刃を躱し、怯える騎馬を宥めながら周囲の兵達を素早く後退させた。
 東の丘陵から攻め込もうとした千騎は、先頭のおよそ五十騎をこの一撃で失った。
「昨日まで乾いてやがったのに、くそッ」
 西海軍はその種故に行動の多くに水場及び湿地を必要とした。
 行動範囲を拡げる為に法術に寄る泥地化を進めつつも、地形変化を起こす程の大規模法術は頻回にできるものではない。その為ここサランセラム丘陵地帯における西海軍の行動は、幸いにと考えるべきか、シメノス周辺に限られていた。
 そして全体の指揮を三の鉾ゼーレィが執っていると見られたが、西海兵達の動きは何処と無く統率が取れておらず、ぶつかり合えば何度ももろく崩れ去った。
 それを踏まえればヴァン・グレッグ率いる西方軍八千にとって、陸上の、使隷を含めて八千の西海軍を追い落とす事はさほど困難な作業では無いと見えたが、しかし実際はゼーレィ軍――およそ五百の僅かな部隊に苦しめられていた。この間失った兵二千強はナジャルだけではなく、三割がゼーレィ軍による被害だ。
 歌声は飛び来る矢も槍も切り裂き、また法術士の詠唱を乱す。
「ワッツ中将! 撤退しますか、それとも」
「撤退だ。これじゃ仕方ねぇ、本隊へ戻る」
「はっ」
 少将クランが血飛沫を浴びた顔を周囲へ回し、撤退を指示する。
(偵察にもなりゃしねぇ)
 ワッツは太い息を吐き、まだ怯えている乗騎の首を叩きながら、その細い瞳を正面に向けた。
 前方半里先に、ボードヴィルの街がある。街壁、その向こうの砦城、大屋根と尖塔――
 翻る旗。
(どうやってか知らねぇが、食料は保ってるみたいだな)
 ボードヴィルの第七大隊と連携をしようにも、ボードヴィルを奪い・・返そう・・・にも、西海軍に阻まれあの街壁に辿り着く事ができない状況にあった。だからボードヴィルの立ち位置がどこにあるのか、それが判然としていない。
 ただ、ボードヴィルもまた西海の断続的な攻撃を受け、西方軍に対しては沈黙したまま『ミオスティリヤの旗』を降ろさず、躯の竜は街の守護者のように砦城の大屋根に鎮座している。
(ルシファー。何を考えている?)
 ワッツの目にもそれは、ひどく不自然だった。




「バッセン砦周辺の難民は膨れ上がっております。同様に、第六大隊の軍都エンデにも集まり始めているとのこと」
 西方軍第六大隊大将グイードは手にした書状を置き、髭を蓄えた面でヴァン・グレッグと同僚達を見回した。
西方軍われわれが打ち破られた時の事を考えているのだろうな」
 視線を受けた第五大隊大将ゲイツが苦い顔をする。
「ゲイツ、冗談でもそんな言葉を口にするな。兵の士気がガタ落ちするぞ」
 素早く注意したのは第四大隊大将ホフマンだ。ゲイツは更に苦々しく眉をしかめたが、片手を挙げて失言を詫びる素振りをした。
「弱気はこの天幕内だけにとどめろ」
 ヴァン・グレッグはそう嗜め、自嘲とともに肩を上下させ深い息を吐いた。大将達が面を引き締める。
「厳しい戦いだ。当初想定したよりもな。現状正攻法も奇襲もままならん。兵達の士気の高揚には勝利の二文字が必要不可欠だ。それも、辛うじてではない、単純かつ明快な勝利がな」
 地の利、そして陸上である事を踏まえ、ヴァン・グレッグを始めとした大将達が、最初のひと月でほぼ決着を見ると考えていたのは事実だ。特に一兵卒ともなれば、これほど長く戦場に留まる事になるなどまるっきり想像もしていなかっただろう。
 グイードはヴァン・グレッグへ一度顔を伏せた。
「あの人魚共の耳障りな歌を無効化する術を、現在法術士団が急ぎ研究中です。王都法術院にも度々依頼しておりますが、王城の防御陣構築が急務と」
「仕方があるまい。ナジャルが王城に現れたのは、陛下の防御陣が失われた事が最大の要因だ。ここで万が一ファルシオン殿下を失えば、全ての足元が崩れるのだからな」
「何にしても歌が届く範囲は何かしらの影響があります。今は奴等をこれ以上進出させない事が肝心であり、そこに注力すべきでしょう」
「人魚共だけでも厄介だが、ナジャルをどうするか――」
「喰らうだけ喰らって満足して消える。あの化物は敵も味方もお構いなしだ」
 第七大隊大将代理として天幕内に同席していたワッツは、椅子ひとつ分引いた位置でヴァン・グレッグと大将達の交わす議論を聞いていた。
 耳を傾けている一方で、もう一つ、ワッツの心の内に重く留まっているものがある。
 それはヒースウッド伯爵邸から連れ出した、ラナエ・キーファーの存在だ。
 ラナエをアボット村に預けてから既にひと月経つ。いつまでもアボット村に預けておく訳にはいかないと考え、王都のスランザールへ伝令使を送ったのはラナエの話を聞いてすぐの事だった。
 だが、王都はラナエの受け入れを認めなかった。
(仕方ねぇのか――シーリィア妃殿下の血を引く子を身籠ってちゃ)
 王都はボードヴィルが掲げた旗を認めず、『ミオスティリヤ』の存在を認めていない。王都でのラナエの保護が難しいのはワッツにも初めから判っていた。
 そうは言ってもアボット村もこの戦場から十分離れているとは言えず、戦況が悪化すればあの村の住民達もまた、村を捨てざるを得なくなるかもしれない。
(さっさと二人を会わせたかったが、ボードヴィルにゃ今じゃ伝令使も送れねぇ)
 この話はヴァン・グレッグ以外にはしていない。王都が受け入れないと聞いて、ヴァン・グレッグも対処に迷っているようだった。
 だが何よりもまずは、身籠っている彼女の身の安全を確かなものにしたかった。
(あと一つ――問い合わせてこれで三日だ。だがいくら何でも流石に無理か……)
 ヴァン・グレッグが軍議の終了を告げ、グイード、ゲイツ、ホフマンがそれぞれ天幕を後にする。ワッツは敬礼して彼等を見送り、最後にヴァン・グレッグに敬礼を向けると、自分も天幕を出た。
 太陽は西の地平線に沈み、空はすっかり暮れて濃い紫の帳に星の光が瞬き始めている。
 西方軍はボードヴィルから一里を隔てたサランセラム丘陵中程に宿営地を設け、兵を休めていた。ヴァン・グレッグの天幕を十重二十重に囲むように、兵士達の天幕が広がっている。
 あちこちで上がる煮炊きの煙を見回せば、そんな状況ではないにも関わらず何処と無く安らぎを覚え、ワッツは鼻から息を吐いた。
 筋肉の張った体を揺らし、自分の天幕へと歩いて、途中で兵士からできたばかりの料理が入った皿を受け取る。小麦粉を溶いて干し肉や野菜と煮込んだもので、湯気と旨そうな香りが辺りに漂っている。
 そのままその場に座り、兵士達とひとしきり言葉を交わしながらそれを平らげ、礼を言って立ち上がった。
 自分の天幕に戻り、太い息とともに敷布にどかりと座った時だ。
 ふいに低い唸り声が耳に届いた。
 振り返ったワッツは天幕裾の暗がりから身を起こした影に、一瞬息を呑んだ。
 どうやって隠れていたのか、現れたのは大型の猫科の獣だ。前脚の鋭い爪と、牙。青銀に艶めく毛並みが燭蝋の光を弾く。
 ワッツは慎重に剣の柄に手を掛けた。街道に横行している魔獣の噂がちらりと脳を過る。
 獣の蒼い双眸がワッツを見つめた。
 一呼吸置き、その額にじわりと、光る紋章が浮かび上がった。
 ――伝令使だ。
 ワッツは束の間その紋章を見つめ、やがて心の奥底から湧き上がる幾つもの安堵とともに、低く呟きを吐き出した。
「――来たか」
 それはワッツが三日間待ち侘びていた、使者の到来だった。









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2018.6.3
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