十六
アスタロトは肌を焼く陽射しの熱を感じながら、空を振り仰いだ。
「ここが、レガージュ――」
瞳を細める。
青く輝く空が丸く、世界に覆い被さるように広がっている。
この街の事は話には聞いていた。空と海の美しく鮮やかな青、岸壁の緑、そして港へ向かって急な坂を下りながら広がっている街の、白い壁と色鮮やかな瓦屋根。
レガージュを表す言葉から受けるのは、一幅の絵のような印象だ。
遠い異国の、鮮烈な色彩への憧れと同時にどこか儚い郷愁も、そこにはあった。
「アスタロト様」
斜め後ろに控えていたアーシアがアスタロトを促す。
「うん」
警護に付いた南方第一大隊大将アルノーと二十名の兵士達が、転位陣を出た少し先でアスタロトを待っている。
アスタロトはまだ揺らめく光を放つ転位陣から歩み出た。
自分を包む世界の美しく鮮やかな、心奪う光景――
だが、アスタロトの正面に今ずらりと揃い膝をついているのは、この鮮やかな景色がもたらす感情を心の奥に押し込めるような存在、正規南方軍の、九千の兵士達だった。
軽装の革鎧もあちこちが痛み、負った傷の治療の痕が見える者も多い。
長く続く戦いを物語る兵士達の姿、表情に、アスタロトは唇をぎゅっと引き結んだ。
「閣下御自らお運び頂き、我等一同、士気弥増す思いです」
兵列の前に膝をついたケストナーが面を伏せる。兵士達も潮騒に似た音と共に面を伏せた。
彼等が並ぶ先、岸壁の向こうに見える青い海。
その沖に白く泡立つ波濤と共に展開しているのは、西海軍だ。今は自陣に退き、兵を休めているようにも、こちらを窺っているようにも見える。
アスタロトは顎を持ち上げ、彼等を見渡した。
「皆――良く頑張ってくれている。皆の働きに感謝している。改めて、皆の働きに心から礼を言いたい。そして王都におられる王太子殿下も、ここにいる兵士皆の事を案じておられ、また頼もしく思っておられる」
アスタロトは凛とした声を張った。
「王太子殿下からの御言葉だ。『国の為に、民の為に戦ってくれている皆の、勝利と無事を願う』」
兵士達の間の空気が揺れ、それまでじっとアスタロトに視線を注ぎ言葉を聞いていた九千に近い兵士達から、咆える声が湧き起こる。
それはアスタロトの耳を打ち、身体に染み込んだ。
自分のできる事は少なく――、けれど僅かにこんな事だけでも、できる事はあるのだと、彼等がアスタロトに教えてくれているようだ。
アスタロトはゆっくりと、溜めていた息を吐いた。
アルノーがケストナーへ顔を上げる。
「ケストナー将軍。ザイン殿は、今どこに」
ケストナーはアスタロトを見上げた。
「昨日ご報告申し上げた通り――」
鼓動が一つ鳴る。
ザイン。
昨日遅く、ケストナーからザインが自らの氏族を訪ねると、その連絡が入っていた。
胸の辺りでどくどくと鼓動が鳴っている。
ケストナーは膝を付いたまま一礼し、そして立ち上がった。
「御案内致します。ザインが将軍閣下をお待ちしております」
扉が開き、まず部屋を満たす陽光に包まれ、アスタロトは瞳を細めた。
窓の向こうの輝く青が目の奥を刺す。
それから、窓の前に立つ男の姿。
引き締まった長身に短い黒髪、アスタロトへと正面から向けられた黒い双眸。
アスタロトは会うのは、初めてだ。
剣士、ザイン。
「――貴方が」
二十代半ばのその姿はレオアリスとは違う厳しさを感じさせ、だが、やはり似ていると思った。彼の右腕の肘から先がない事に気付いたが、ザインの纏う空気がそれを彼自身そのものに見せている。
何の為に失ったか、アスタロトが聞いているからかもしれない。それはザインの誇りだろう。
アスタロトはザインの傍らに立つ少女へ瞳を向けた。
一度王都で会った。
少女――ユージュがにこりと笑う。
(少し見ない間に、印象が変わった)
あどけない少女ではなく、ザインと良く似た面差しだ。
彼女もここで戦っているのだと思うと、胸の奥がぐっと掴まれた。
ザインは戸口に立ったままのアスタロトへと、静かに面を伏せた。
「このフィオリ・アル・レガージュへ、ようこそお越しくださいました、正規軍将軍、アスタロト公爵」
低く落ち着いた声は耳に心地よく、アスタロトの抱える不安を和らげてくれるようだ。向けられる穏やかな眼差しも。
「昨日発つつもりでしたが、お待ちしておりました。ケストナー将軍から、貴方が使者になられると」
「そうだ」
アスタロトは咳き込むように言葉を継いだ。
「私が――私は、ルベル・カリマと話をしたい。彼等に会って」
ザインがどう思うだろうと、一瞬の迷いがその先の言葉を躊躇わせる。
だがザインは、言葉を詰まらせたアスタロトを促すように瞳を向けた。アスタロトは両手を強く握った。
「――、この国に、この戦いに協力してもらえるよう、話をしたい。この国には今、彼等の力が必要なんだ。私は、」
ぐっと唇を引き結び、それを意志の力で解く。
「私は頼める立場では、ないかもしれないけれど」
ケストナーもアルノーも、アスタロトの言葉を口を閉ざして聞いている。扉の傍に控えたアーシアがそっと思わしげな瞳を傾けた。
「剣士ザイン。私を、貴方の氏族に、会わせてほしい」
ザインはじっとアスタロトを見つめている。その瞳をアスタロトもまた、見つめ返した。
波の音が寄せて、返す。
ややあって、ザインは頷いた。
「王都の総意と考えてよろしいのですね」
「そうだ」
アスタロトの傍らでケストナーが両膝に手を付いた。
「当然、炎帝公ご自身が御出になるという事は、王都と王太子殿下の御意志でもある。王太子殿下は彼に親愛の情を寄せておいでだ」
ケストナーは赤味がかった髪の頭をザインへ向け、下げた。
「それに、俺個人としても、剣士の氏族が参戦してくれる事に期待を抱いている。剣士の剣の価値は、俺自身がこの目で見て実感しているからな」
ケストナーがそう口にした背景、これまでに目にしただろうものに、ザインは一瞬想いを馳せた。
「感謝する」
いくつかの想いを含んで、ザインはそう言った。
ケストナーが破顔し、アスタロトへその顔を向ける。
二人がこの戦いの中で培った信頼に想いを馳せながら、アスタロトはザインへと、椅子の上で身を乗り出した。
「それで、ザイン――貴方の氏族、ルベル・カリマはどこに」
「会うまでにはやや日数がかかるとお考え下さい。我々が向かうのは、飛竜にも休息が必要な地です」
ザインは立ち上がり、壁に掛けられた一幅の地図の前に立った。布の上に海とこのアレウスの国を、何色もの糸で織り込んで描いたものだ。
ザインの指先が、地図の下部、南方を示す。
そこに広がるのは、住む者の無い砂漠の広がる地――
この国の果ての一つ。
「彼等は、アルケサスにおります」
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