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王の剣士 七

<第二部>
~ ~

第一章『暗夜』


 ボードヴィルに起きた異変は、正午を四半刻ほど過ぎた辺りに遡る。
 ワッツの指示でボードヴィルへ偵察に戻っていた、正規軍第七大隊左軍少将スクードを始め八名の兵士が最初に気づいた異変は、ボードヴィルの砦の上に広がる空を覆う虹色の光だった。
 先ほどまで青く晴れ渡っていた空に一枚薄い布を広げたように、移ろう光がゆらゆらと揺れていた。
 スクード達はシメノスの流れを眼下に見る岸壁に刻まれた道の上で、岩壁に背中をつけて頭上を仰ぎ、疑問と驚きと共に砦の向こうの空を眺めた。
 それは遥か東の王都から創り上げられた、ボードヴィル一帯を覆う結界が放つ光だった。
 ルシファーが置いた結界を更に覆い尽くす二重結界。
 ファルシオンとイリヤとの邂逅を遮った、法術院長アルジマールの強力な結界だ。
「何が起こっているんだ」
「スクード少将、あれを」
 先頭にいた部下のチェフが砦を指差す。
 砦の見張り場にいた歩哨が何事かやり取りを交わした後、石組みの城壁の向こうに消える。シメノスの岸壁へと半円に張り出す塔屋に見えていた兵士達の姿も、同様に消えた。石を踏む足音が遠退いて行く。
「見張りが全ていなくなったようです」
「何故だ。砦内に何か問題があったのか?」
 この空の異変が関係しているのかもしれない。
 侵入するには、今が絶好の機会だと思えた。
 スクードは一度振り返り、シメノスへと下る狭い道を見下ろした。
 先ほど偵察隊本体へ戻した二人の部下は、さすがにもう河岸の森へと消えている。伝令使が使えない以上、今は彼等とも連絡を付ける術はない。
 しばらく迷いを滲ませながら考えを巡らせていたが、スクードはぐいと顎を引いた。伝令に出した兵がワッツの指示を持って帰るのは、本隊の伝令使が使えたとして、早くても一刻は掛かるだろう。
「砦に潜入しよう。中で何が起きているのか、確かめるんだ」
 兵士達が一度お互いの顔を見回し、瞳に浮かんだ意思を確認して動き出した時だ。
 ふいに、何かが火の中で爆ぜるような、乾いた音が大気を揺らした。
 砦が揺れる。
 砦の窓硝子が一斉に音を鳴らした。
 右側の壁面に寄り添うように当てていたスクードの手のひらに、身体の芯を震わす振動が伝わる。足を滑らせそうな危うい感覚が走り、スクード達は一様に身体を縮め足元を見た。
「っ」
「き、気を付けろ、ここから落ちたら一巻の終わりだ」
 振動は一瞬で収まったが、これまで感じたことの無いそれに、八人の胸に正体の掴めない不吉な感覚が急速に沸き起こる。
 何か、スクード達が感知するべくもない、大きな事態が確かに起こっているように思える。
「少将……」
 立て続けに起こった二つ目の異変に、不安そうな視線がスクードへ集まる。
「とにかく侵入しよう。またいつ振動が来るか判らん、ここは足場が悪すぎる」
 八人は再び頼りない足場を、岸壁に設けられた砦入口へと足を速め登り始めた。頭上には未だ見張りの姿は戻っていない。
 やや足場の広がった扉前に辿り着き、ほっと息を吐く。
 そして、彼等の前に起こった三つ目の異変――
 それこそが最大の異変だった。
 眼下で、騒めく音が沸き起こった。
 上流で大量の雨が降った後に、シメノスが濁流となって上げる声のようだ。これまでの漠然とした不安さえ搔き消し、腹の底から不吉な騒めきが突き上げる気がした。
「……何だ、あれ」
 後方にいた部下の掠れた声がスクードの視線を足元の断崖へと引き降ろす。彼らがここまで辿ってきた細い道が、茶色の岩肌に刻まれ時折折り返しながらシメノスへと下っている。その先に岩の転がった川岸とシメノスの水面があるはずだ。
 投げた視線が捉えた光景は、初めはシメノスが氾濫したようにも見えた。
 だが違う。
「まさか」
 煌めく波に捉えたのは陽光を弾く刃の銀。立ち並ぶ穂先と鞘から放たれた剣。
 荒れる波に流れるように靡く旗印。
 砦の下で狭まった川幅を駆け抜けるシメノスが飛沫を上げる音と、それとぶつかり合う進軍の響き。
「ス、スクード少将」
 驚きや恐怖というよりは、彼等の声は初め理解しがたいものを眼にした困惑で揺れていた。
「あれって」
「……そんな馬鹿な……、何でこんな所に」
 川岸の岩を覆い、シメノスの急な流れの中から次々と這い出してくる。剣と矛が陽光を眩く弾く。
「西海軍――」
 誰もが自分の目を疑い、だが一呼吸の後、顔を見合わせた。互いが目にした顔はそれぞれ青ざめ、不安と焦りが滲んでている。
 その色が眼下の光景を現実のものとして認識させられる。
「西海軍だ」
 西海軍による、シメノス大河からの侵攻――。
 何故、どこから侵入したのか、一里の控えはどうしたのか、つい先ほど本隊へ戻った部下達はどうなったか。
 幾つもの疑問が同時に渦巻き、それからスクードは判断を迷った。
 砦の中に入って知らせるか、それとも本隊に戻るか。まさに自分達が今いる場所が進むか戻るかしか選べないように、取るべき道も二つしかない。
(目下の問題は西海軍――ここで上陸したのだから奴等の狙いは当然、この砦だろう)
 ボードヴィルはシメノスからの侵攻を防ぐ為の砦だ。ここを奪われれば更に内陸への遡上を容易にする。
 このボードヴィルに駐屯する西方第七大隊は、まさにそれを阻止する為の部隊であり、その為の訓練を重ねていた。
 訓練が現実のものになるとは、今朝の時点でさえスクードを含め誰一人、考えもしていなかったが。
 スクードは顔を上げた。
「砦へ入って西海軍の侵攻を知らせよう。本隊が気付けばウィンスター大将へ知らせるはずだ」
 運悪く見張りのいないボードヴィルの砦は、まだ騒ぐ様子もない。任務としては姿を見られることは憚られたが、それ以上にこのまま砦が気づかないことが問題だった。
 チェフが頷き、取っ手に手をかけると、慎重に引き開けた。扉は非常時の使用を目的としといるため、普段から錠を下ろしていない。首を入れ左右を確認し、周囲に人影が無いのを見て取ると八人は素早く砦へ入った。
 白いやや煤けた石組みの廊下が左右に長く伸びている。彼等が出たのは砦四階の北側を廻る廊下だ。
 シメノス側に硝子の無い窓が定間隔に並び、シメノスから上がる騒めきが廊下に漂ってくる。
 だが、廊下はしんと静まっていた。
「誰もいないなんて、何をしてんですかねこんな時に」
 焦りを覚えている兵士が不満げに洩らす。
「いたらいたでこんな所から入ったのが見られたら面倒くさい、見るからに不審者だからな、俺達は。しかし、時間を食うのは不味い、叫んで知らせるか」
 スクードが押さえた声を返した時、足音が聞こえ、前方の角を曲がって兵士が数名、慌ただしく駆けてきた。スクード等を見咎めて声を上げる。
「どうした、お前等、もうとっくに講堂に集まってるぞ、大事な話が――スクード少将?」
 兵士は踵を鳴らして右腕を胸に当てたが、すぐに訝しく眉を寄せた。「左軍は、一里の控えに出たはずでは。その出で立ちは」
 スクード達はまだ土色に似た麻の外套を羽織っていた。内心ひやりとしたが、スクードは左手の壁にに並んでいる硝子戸の無い窓を指差した。
「伝令に戻った。だがそれどころじゃない、気づいてないのか? 西海軍だ!」
「さ、西海軍?!」
「シメノスから上がって来てる! 何故見張りが一人もいない?! 早くヒースウッド中将に知らせろ! すぐに迎撃態勢を整えるんだ! 時間は無いぞ!」
「シメノスから」
「じゃあこの音は」
 兵士達はスクードの言葉に張り詰めた顔を見合わせ、跳ねるように窓に駆け寄るとその縁から断崖の下を流れるシメノスを覗き込んだ。
「さ、西海軍――! こんな所に」
「いつの間に……いや、そんな場合じゃ無い、は、配備を」
 呑み込んだ息を吐き出すような声が混じる。
「やはり、西方公の仰るとおりなのか」
 西方公、ルシファーの名が何の違和感もなく口に出された事に、スクード達は目を見交わした。問い質すべきか咄嗟に迷ったスクードを他所に、兵士達は声を張り上げ、駆け出していく。
「敵襲――敵襲! 西海だ!」
「西海の進軍だ!」
 呼ばわる声が廊下に響き渡り、砦内が俄かに騒がしくなる。スクードは兵士達が廊下に流れ出す前に、素早くそこにあった階段へ駆け込んだ。
「どうしますか――西海だなんて、まさか」
 階段を走り降りながらの問い掛けに、増していく砦内の喧騒が重なる。
「西海の事はここの部隊に任せよう。俺達はワッツ中将の任務を続ける。さっきの奴は確かに西方公と、そう言ったからな」
「き、聞きました」
「何がどうなってんだか判らないが、とにかく極力他の兵士と接触を避けつつ、誰か信頼できる奴を見つけて話を聞くしか無い。砦内は混乱してくる、やりやすいはずだ」
 一階下へと至り、壁に身を寄せるようにしてその先の廊下を伺う。
「少将」
「しっ」
 スクードは後ろの部下を制した。覗いた廊下は兵士達で溢れている。そう言えば先ほどの兵は講堂に集まっていると言っていた。
 兵士達はこの階の右奥にある講堂の扉から次々と廊下へ流れ出ていた。すぐにこの階段に入ってくるだろう。「――もう一階降りよう」
 素早く身体を引き、足音を殺して再び階段を降りていく。
(講堂に集まって何をしていたのか――)
 朝砦を出立した時までは、特にそうした予定は聞いていなかった。
 階段を降り切ったところで一度態勢を整えようとした時、スクードの耳を話し声が捉えた。
「待て――」
 手を上げ、先ほどと同じように階段の角から廊下をそっと覗き込み、スクードは息を潜めた。
「ヒースウッド中将――」
 疑惑の中心人物だ。
 部下達も気配を抑える。ヒースウッドは別の階段を降りてきて、スクード達とは逆の方向へ廊下を歩いて行く。さすがに今ヒースウッドに顔を見られてはまずいと引っ込めようとして、ふと止まった。
 ヒースウッドに続いて、二人の男が階段を降り廊下へ現れた。
 見た事のない青年だ。顔は良く見えなかったが、身分の高さを伺わせる衣装と、白に近いほどの淡い銀の髪。
 そしてそのやや後ろに従っているのは、近衛師団の軍服を纏った男だった。肩から長布を流しているということは士官――、それも中将級以上を示す。
(近衛師団の士官が、何故ここに)
 位置取り的に、あの青年の供として来たように思える。
 ヒースウッドは恭しささえ感じさせながら二人を案内して廊下を奥へ進み、士官執務室がある方へ曲がった。
 スクードは一度階段へと身体を戻し、今見たものを反芻した。階上は時を追うごとに騒がしさを増している。おそらく西海軍と対峙し迎撃もしくは排撃行動に出るはずであり、それまでに余り時間は掛けないだろう。
(という事はすぐヒースウッド中将は上に戻るな)
 階上の騒がしさとこの二階の先にある執務室の状況とを天秤に掛け、スクードはここで待機することにした。懐から取り出した手鏡をそっと廊下へ出す。
 待つほども無く、スクードの予想通りヒースウッドは執務室方向から廊下を曲がって姿を現し、ほとんど駆け足で初めに降りてきた階段へと姿を消した。
「――よし」
「少将、どうしますか」
「今の客人を探りたいな。どうも今回ワッツ中将が言った件に関わっているような気がしないか」
「はい、近衛師団がボードヴィルに来ているなんて聞いてませんからね」
「外套は脱いでしまえ。『ウィンスター大将からヒースウッド中将への伝令で俺達は戻って来た』。急ぎつつ、堂々と歩け」
 スクードの指示で煤けた外套を脱ぎ、儀礼用の正式軍装を晒し、八名は廊下へ出た。
 階上の喧騒とは裏腹にこの階は静かで気配が無い。ほとんどの兵士が講堂に集まっていて、そこから階上へ上がっていったようだ。
「近衛師団の士官も講堂にいたんですかね。だから集まってたのか。王都から何か急使だったんですかね」
「かもしれん――貴族が一緒というのが判らんが」
「ヒースウッド伯爵家のどなたかでは」
「あの銀の髪は違うな、ヒースウッド家は黒髪だ」
 それにヒースウッドは彼を恭しく扱っていたように見えた。
 先ほどヒースウッドがやって来た角を曲がると、執務室の扉が五つ、並んでいる。正面突き当たりの扉が大将ウィンスターの執務室で、それを挟むように左右に左中右の中将執務室、参謀部が置かれていた。
 廊下はそこで終わっており、だから先ほどの二人は五つの部屋のどこかに入ったはずだ。
「ヒースウッド中将の執務室だろうな。シール、デュッセル、フェイマー、一応廊下を見張ってろ。ヒースウッド中将が戻って来たらちょうど探してたと言えよ」
 スクードは閉じている扉に近寄り、耳を寄せた。階上から落ちてくる物音のせいで扉の向こうの様子は伺いにくい。
 取手に手を掛け、やや迷ってから、スクードは金具の音を立てないようそっと取手を回し扉を薄く開けた。
 一度中の音を伺い、更に開く。
 室内には人影は無かった。ヒースウッドの執務机、中央にボードヴィル周辺の地図を広げた作戦台、壁を埋める書棚、そしてその書棚に挟まれて奥の応接室へ続く扉がまだある。どこも同じ見慣れた執務室だ。
 室内に入ろうとした時、声が聞こえた。
「!」
 応接室の扉が僅か、拳一つ分ほど開いている。そこからだ。
 部下へ入口に留まるように指示すると、スクードは靴が鳴らないように注意しながら作戦台の横を抜け、奥の扉へ近付いた。息を潜めて扉へと背中を寄せる。入口で自分へ視線を注いでいる部下へ、更に気配を抑えるように掌を下に向けて指示し、スクードは耳を澄ませた。
 階上から落ちてくる騒めきの中、声は低いが思いの外はっきりと聞き取れた。どうやら室内には二人の人間がいるようだ。状況からしておそらく先ほどの二人で間違いないだろう。
『でもやはり俺には、城内が混乱している今が好機だと思えるんです』
 若い、十代程の青年の声に、スクードは先ほど見た姿を思い起こした。
(好機? 混乱――西海軍の侵攻を言ってるのか)
 声には力強い、決断を促すような響きが含まれている。
『ヴィルトール中将、今しか無いんだと思う』
(ヴィルトール……中将)
 その名には聞き覚えがあった。
(中将)
 第一から第三、どの大隊だったか――スクードはぐっと耳をそばだてながら、頭の奥で記憶を探った。




 イリヤは長椅子に腰掛けるヴィルトールへじっと視線を注いだ。僅かに開けておいた扉の隙間から、砦内の喧騒が時折音を増し、流れてくる。
「西海の侵攻で今は全体が混乱しています。ルシファーもその間は掛かりきりになると思う」
 森が風に枝葉を揺する音に似た騒めき。もし戦闘になったら嵐のように響くのだろうかと、イリヤは不安と共にその音を想像した。
 そこに吹く風。
「でも多分、ルシファーが抑えるまでにそれほどの時間は掛からないとも思います。そうしたらルシファーの目はまたここに向いて、もう身動きが取れなくなってしまう。今しか無いんだ、ヴィルトール中将。中将には王都へ戻ってもらうのが一番いい」
 ヴィルトールは長椅子の背に身体をそれとなく預け、束の間考え込んでいた。この部屋に入ってから――いや、騒ぎが起きて講堂を出てからずっとヴィルトールは考えに沈んでいた。
 その思いを決めたように、顔を上げる。
「――私は反対だ。私が君の側にいないのが判ったら、ルシファーは次の手に踏み込むだろう」
 次の手、とは、イリヤを動かす駒としてのヴィルトールがいなければ、本来の駒を使うという意味だ。
 イリヤにも良く分かる。
 イリヤの面をじっと見つめ、そもそも、とヴィルトールは続けた。
「そもそも、何故今、西海軍がこのボードヴィルまで侵入できたのか。それが一番の問題だと思う。レガージュの護りは? 剣士ザインはまだ剣を失っているとはいえ、西海軍が簡単にレガージュを抜けてシメノスを遡れるとは思えない。そういう位置にあるからこそ、レガージュは要衝にならざるを得ないんだ」
「そうですが――でも、それを言うなら大戦の時も」
 内陸部のハイドランジア湖沼群を拠点に、西海軍はその四方を荒らした。
「ハイドランジア――確かにそうだが――」
 ヴィルトールはふと、何かに打たれた顔をした。
 ハイドランジア湖沼群は、地域の八割を占める湿地と湖という地理的条件故に、西海軍の拠点になったのだ。そこへ風竜の出現が加わり、僅かな間に甚大な被害をもたらした。
「内陸部に、レガージュがあったにも関わらず……」
「ヴィルトール中将?」
 イリヤはヴィルトールの呟きに眉を寄せた。ヴィルトールが首を振る。
「いや、ただハイドランジアと同じような状況だと思ってね……。今はそれはいい、とにかく――殿下」
 長椅子から立ち上がり、ヴィルトールはそれまでの表情を入れ替え、やや厳しい面持ちでイリヤを見つめた。
「その、呼び方は」
 否定しようと思ったものの、その呼称を口にする事でヴィルトールはイリヤの目を向けようとしているのだとも判る。
「貴方はこれを好機と、そう考えておいでだが、全てルシファーが仕組んだものだとも考えられます。何が起こるか判らない現状で私が側を離れれば、貴方の身を守る者がいなくなってしまう」
「それはいいんです。俺の事は」
「それは避けたい。貴方だけの話ではありません。ご家族の事や――ファルシオン殿下の事を、考える必要があるでしょう。貴方の身に万が一のことがあれば、ファルシオン殿下が悲しまれます」
「それは――」
 確かに沸き起こった不安に一度は俯き、それを振り切ってイリヤは声を強めた。
「俺は……、ファルシオンと会ってしまった。もう二度と、絶対に会わないと決めたのに。それだって自分と、ラナエと――自分達の命を惜しんだからだ」
「当然の事です。それは間違いではありません」
「ルシファーに殺されかけた貴方が、それを――いい、今そんな事を言ったって仕方ない、とにかく、だからこそ俺はこのままただ座っている訳にはいかないんです」
 イリヤはヴィルトールの正面に立ち、その前に両膝を下ろした。
「殿下」
「王都へ、近衛師団へ戻って欲しい、ヴィルトール中将。これだって貴方の容態を考えず勝手を言ってるんだ、逆に貴方の命に危険があったら、俺にできることなんてないのも――ずるいんです、判ってる、でも」
 階上の騒めきが一層大きくなった。
 本当にヴィルトールが、この混乱の中を抜けて王都へ行く手立てがあるのか、不安が膨れ上がる。
「――」
「私の命の問題ではありません」
「違う! それは違う! そうじゃないんだ、でも――」
 イリヤはヴィルトールの手を握った。そこから自分の意志を伝えようというように、力を込める。
「一度でいい、伝令使が飛ばせるくらいの所まで行って、レオアリスに連絡が取れれば――きっとすぐに対応してくれる。だから」
 ヴィルトールと向かい合うイリヤの正面で、薄く開けていた扉が前触れなく開いた。
 イリヤはぎくりと立ち上がり、咄嗟に身構えた。
「殿下?」
 気付いたヴィルトールが剣の柄に手をかけ、長椅子に片膝をついて身を捻る。
 開いた扉の前に、男が一人跪いていて、ヴィルトールとイリヤを見上げた。
「誰だ」
 イリヤは張り詰めた頬で視線を室内に巡らせた。扉の内側にはイリヤとヴィルトール、そして男の姿しか見当たらない。
 ルシファーの姿は無い。
 男――スクードは一度顔を伏せた。
 その面を上げる、僅かな間に、視線がイリヤを捉える。
「私は、一里の控えに赴いた左軍中将ワッツより遣わされた者です。少将のスクードと申します」
 ヴィルトールはイリヤを背に庇い、スクードを見つめた。ワッツ、と呟き、灰色の瞳を見開く。
 スクードは陽に焼けた面を真っ直ぐヴィルトールへと向けている。
「近衛師団第一大隊中将、ヴィルトール殿とお見受けします」
「――何故、いや……聞いていたのか」
「しばらく聞かせていただきました」
 スクードへ近づこうとしたイリヤをとどめ、ヴィルトールはスクードの向こうの部屋へ視線を向けた。
「隣には」
「部下がいます。私を含め八名――今は廊下を見張らせています」
 ヴィルトールは警戒を解かなかったが、スクード達が儀式用の正式軍装を身につけているのは見て取れた。
 束の間階上の音が廊下に響くほど膨れ、ヴィルトールは瞳の険を薄めた。室内にいても感じられる熱気。
 西海軍の攻撃が間近なのかもしれない。
「一里の控えにいるはずのワッツの部下が、何故ここに?」
「ボードヴィル内に裏切りがあると――」
 スクードはヴィルトールの目を見ている。自分の目の中に偽りがないことを見出し、信頼して欲しいと、そう言うかのようだ。
 そして半分は、ヴィルトールの目に浮かぶ感情を見ようとしている。
「ワッツ中将はウィンスター大将の命を受け、我々を調査のためボードヴィルへ派遣しました。ボードヴィルがルシファーと通じているとの情報があったからです。現在、シメノス下流沿いの森に調査隊九十名が伏せています。おそらく西海軍の侵攻に気づいたでしょう。ボードヴィルの状況は本隊に伝わります」
 イリヤはヴィルトールと視線を交わした。
 スクードが背後に片手を上げ、それと共に四名の兵士がスクードの後ろに立った。スクードも立ち上がる。
「単刀直入に申し上げます。我々にはあなた方に協力することが可能と考えています」






 呼び交わす声、軍靴が床を踏む音、鎧や武具が立てる金属音、それらが入り混じり飛び交う騒ぎの中を、ヒースウッドはボードヴィル砦の城壁に駆け上った。
「状況は!」
 城壁内側に巡らされた守備回廊には兵等が手に手に弓を持ち、城壁に鈴なりになって狭間から眼下のシメノスを覗き込んでいる。
 大量の矢立に加え、投石機や油壺が次々と回廊に引き出されて並べられていく。
 ついヒースウッドは、これが日常の訓練のように見回し、首を振った。
「ヒースウッド中将!」
 駆け寄った少将ケーニッヒの顔には興奮と、困惑が見えた。
「シメノスから現れた西海軍、およそ四千と報告がありました」
「四千――本当か」
 ヒースウッドは驚きに息を呑み、すぐ横の狭間からシメノスを見下ろした。
 立ち上る急流の音と共に、陽射しを弾く銀の波が一瞬目を焼いた。シメノスの流れではなく、犇めく槍や剣の穂先が作り出す波だ。
 訓練ではない、現実の、西海軍の侵攻。
 心臓が胸の奥でどくりと跳ねた。
「何故ここに」
 こんなに早く。
 ちょうど今、西海の皇都イスでは王と海皇とが不可侵条約再締結の儀を執り行っているはずではなかったか。
 海皇が王を捕らえたとして――西海の侵攻が始まったとしても、水都バージェスがあり、フィオリ・アル・レガージュがあり――例えシメノス沿岸で例え西海の侵攻に対して造られた砦だとしても、内陸へ二十里も入り込んだこのボードヴィルに西海軍が到達するのは、どれほど早くても半日程はかかるはずではないか。
 それも四千もの大軍となれば、あらかじめ浸入し、シメノスに潜伏していたとしか思えなかった。シメノス河口に位置するレガージュの目を騙し。
(物理的には、無理だ)
 フィオリ・アル・レガージュが防衛の要衝なのは、シメノス河口一箇所しか西海軍が侵入する起点が無いからなのだ。
(ではバージェス)
 バージェスは陥ちたのか――と、ヒースウッドは足の方へ血の気が引くのを感じた。
 バージェスを起点にし、そしてシメノスの下流まで転位陣なりを用いたのかもしれない。
 周到に準備をしていたのだという思いがヒースウッドの心を冷やす。
(やはり、我々の考えは正しかった)
「……ルシファー様」
 はっとしてヒースウッドは上空を振り仰いだ。
 求めるルシファーの姿が、砦中央の塔の上にある。ルシファーは塔の上に浮かび、シメノスを見下ろしている。
「ル――」
「中将」
 塔へ走ろうとしてヒースウッドは何とか踏み止まった。少将ケーニッヒが命令を待ってヒースウッドへ視線を向けている。まずはこの場の指揮が先だ。
「西海軍の動きはどうなってる」
 ケーニッヒは緊迫を纏い姿勢を正した。
「現在、およそ半数が砦下に上陸しています。しかしながら岸壁に対し、対応策を有していないように見受けられます」
 ボードヴィル城壁までの谷は深く、梯子を立てて登れるものではない。すぐにはこの砦を攻めることはできないと思えた。態勢を整える時間はある。
「まずは様子を見つつ防衛を固めろ。だがシメノスを遡上するそ振りを見せたら攻撃を開始する」
「は! ヒースウッド中将……城下へは、どのように」
 城塞のすぐ背後、サランセラム丘陵に面する城下街には正規軍兵を除いても、七千人の住民が暮らしている。西海軍の侵攻が始まれば危険が及ぶことになり、まず西海軍の存在を知れば大きな騒ぎになるだろう。
 ヒースウッドはやや迷い、眼差しを上げた。
「ボードヴィルの街門を出ないよう布告して回れ。特にシメノス岸壁には近寄らないよう伝えるのだ」
 ケーニッヒが敬礼し、伝令兵を呼び寄せる。指示が流れる間にもヒースウッドはそわそわと中央の塔の上を見た。
(ルシファー様)
 何もかも、ルシファーの言っていた通りだ。
 ヒースウッドには――、ボードヴィルの兵士達には心構えができている。それは西海軍に取って誤算に違いない。
「陛下の御身は――ご無事なのだろうか」
 ヒースウッドは腹立たしさに拳を握り締めた。
 王は西海との約定のとおり、五十名の衛士だけを伴いイスへ赴いたのだ。
 誠実さを持って向かい合う相手を易々と裏切りこうして国を侵すとは、許し難い行為だった。
(炎帝公もおられた)
 彼等の将軍はどうなったのか。
 ぐぐ、とヒースウッドの肩の筋肉が盛り上がる。その場にいれば自分が、という憤りともどかしさをヒースウッドは奥歯に噛み締めた。
「ヒースウッド」
 涼やかな風が喉元の熱を冷ます。ヒースウッドははっと顔を上げ、背筋をぴんと張った。
「ルシファー様」
 たった今まで中央の塔にいたルシファーがヒースウッドの前に降りる。
「兵達の態勢が整うのが早くて良かったわ。まだ西海軍はシメノスからの上陸を終えていない、我々の方に余裕がある」
「講堂に揃っていたのが幸いしたと」
 それもルシファーの思惑だったのではないかとさえヒースウッドは思った。
 そこまではと思い返しつつ、ルシファーの成すことが良い方向へ繋がっているのは確実で、改めて先見の明があると想いを熱くする。
 ルシファーが危惧した通りに。
 ヒースウッドは沸き立つ想いに瞳を輝かせ、ルシファーを見つめた。
 城壁を吹き抜けるゆるやかな風が、ルシファーの艶やかな黒髪をヒースウッドの瞳に散らす。
「我々は、このボードヴィルにおいて西海軍の侵攻を何としても食い止めます。ミオスティリヤ殿下の存在は兵達の士気を高めることでしょう。それで、殿下ですが」
 向けられた暁の瞳は宝石のようだ。
「戦況が安定するようでしたら、鼓舞のためにここへおいでいただくのが良いのではないでしょうか」
 宝石の瞳が星のように瞬く。
「任せるわ、コーネリアス」
 まだ耳慣れないその呼び名に、ヒースウッドは抑えきれない喜びを覚えた。
「お前の言うとおり常に殿下のお姿があることは、確実に兵の誇りになるわ。けれど安定してからではなく、今すぐにでもお呼びして、兵達の前に立っていただいた方がいいのではないかしら。誰しも、この突然の状況に怖れる心があるでしょう。ミオスティリヤ殿下の存在はとても大きい」
「は。そのように」
 恭しく頭を下げ、それから逸る心の内とともに髭を蓄えた頬を引き締める。今の状況はボードヴィルだけに収まる問題ではないことも、ヒースウッドは良く理解していた。
「王都へは――どう」
 先ほどルシファーの手によってファルシオンとイリヤが邂逅を果たしたが、言葉を交わす間もない束の間のことで、イリヤがボードヴィルにいると、それが伝わったとはさすがにヒースウッドも考えてはいなかった。
 ミオスティリヤ王子がボードヴィルにいること、その意志。
 そしてルシファーの存在を、この混乱の中でどう間違えず伝えていけばいいか。
 ヒースウッドの硬い面を見つめ、ルシファーは微笑んだ。
「それは私に任せて。ヴィルトールを通じて近衛師団へ、伝令使を送りましょう。コーネリアス、貴方はまず兵達の指揮をとることこそ何より大切な責務よ」
 二つの瞳を暁の光が捉える。
「この砦は、貴方の信念にかかっている」
「――はッ!」
 全身に使命感への喜びが満ちるのを、ヒースウッドは震える思いで噛み締めた。
「ケーニッヒ! ここを一時任せる! 私はミオスティリヤ殿下をこの場へお連れする! 西海の動きを注視せよ!」
 ケーニッヒが敬礼を向けるのを確認し、ヒースウッドは守備回廊の階段を下り、再び城内に駆け戻った。






 廊下を駆けてくる重い足音を耳に捉え、イリヤは咄嗟に傍のヴィルトールを見た。ヴィルトールが口を開く間も無く、イリヤを呼ばわる声と共に隣室にヒースウッドが駆け込んだ。
「ミオスティリヤ殿下! 失礼致します!」
 敷き詰められた絨毯もヒースウッドの足音を隠さず、応接室の扉が開かれる。
「殿下!」
 イリヤとヴィルトールは中央に置かれた長椅子に、低い卓を挟んで座っていた。
 ヒースウッドは足を止め、やや細い目を見開き――
 その場に片膝をついた。
 室内には二人以外、誰もいない。
 イリヤはつい先ほど、スクード達が出て行った背後の硝子戸を、自分の背に庇うようにヒースウッドと向き合った。






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