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王の剣士 七

<第二部>
~ ~

第一章『暗夜』


 指が震える。
 アスタロトは固く閉ざされている扉を前に、そこがこのまま開かなければいいと、願っていた。
 自分が何もできないまま、こうして西の海からただ戻り、この扉の向こうにいる相手にどんな言葉を伝える事ができるのか。王城の中庭を抜け大階段を昇る間にも考えは纏まらず、どこかへ逃げ出したい思いだけが膨れ上がる。
 自分があの場に残れば良かったのだと思う。それこそがアスタロトとして自分が取るべき道だったのではないか。自分にその強い意志があれば、どんな状況であれ、残る事を選べたはずだ。
 それが出来なかったのは、自分が、逃げたからだと――
 眩暈を覚え、揺らぎかける身体を、支える。
 近衛師団隊士はアスタロトの願いなど知らず扉を押し開け、開かれた扉の隙間から室内の光が、暗い廊下に薄く白い線を落とした。一瞬だけ細い線だったそれが視界一杯に広がる。
 弱い光が目の奥を焼くようで、アスタロトは瞳を逸らした。
 アスタロト公爵が帰還したと、室内に呼ばわる声が遠い膜を隔てたところで聞こえる。室内を染める淡い光の中に、灰色の影が幾つも浮かび、それぞれが水中に落ちる光の様にゆらゆらと揺れていた。




 扉を潜ったアスタロトの姿を、幾つもの視線が追う。レオアリスが戻った時とはまた別種の緊張が、卓を囲むゴドフリー達やベール、スランザール、そしてファルシオンの面に揺らめいていた。
 ベルゼビアの発言の影響もあったが、そこに滲むのは何より、まさに西海と直接対面し、混乱を目の当たりにしたアスタロトの口からイスで起こった事態が語られる事によって、それまで遠くにあった事実を知る事に対する不安だ。
 そして、もう一つ、息を呑む微かな音があちこちで洩れる。
 アスタロトの姿は、朝、王と共に王城を発った時とはまるで違って見えた。
 正式軍装はあちこち擦り切れ、所々黒く染みを散らしている。
 だが原因はそれ自体ではなく、アスタロト自身の纏う空気によるものだった。普段アスタロトを目にした時に受ける華やかさや輝き揺れる炎の鮮やかな印象は薄れ、二つの瞳は昏い淵を見つめるように沈んでいた。
「――これは、」
 正規軍参謀長ハイマンスが低く唸り、喉の奥にくぐもらせる。アスタロトはファルシオンの前へと進むと膝をついた。
 顔を伏せ――、そこで、動きを止める。
 そのまま、しばらくの間広い執務室内には衣擦れの音すらなかった。
 あるのはただ、時計の長針が時を刻む、無機質で狂いの無い音のみだ。鼓動ごと刻む音。
 重くのしかかる空気を破り、タウゼンが低く掠れた声を押し出した。
「……将軍閣下、ご報告を」
 アスタロトの肩が揺れる。
「アスタロト」
 ベールは憂慮の色を眉根に残しながらも、やや手前に膝をつくアスタロトを斜めに見下ろした。「バージェス、一里の控えでの状況についてはウィンスターより報告を得ている。今、我々に必要な情報は西海の皇都イス――」
 アスタロトは呼吸を抑えるように、肩をゆっくりと上下に揺らしている。
「不可侵条約再締結の場で起きた全ての経過と、国王陛下の、安否だ。陛下が何故、どのようなお心でイスに残られたのか」
 アスタロトが顔を上げる。
 そこにありありと刻まれた憔悴と懊悩に、何名かが改めて息を抑えた。


 喉の奥が紙のように乾いている。押し出そうとした声はその乾きに堰き止められ、喉を塞いだ。
(――話さなきゃ)
 話す義務が自分にはある。
 その為にアスタロトは王都に戻ったのだ。ウィンスターやボルドー、ワッツ、そこにいた正規軍兵士達を置き去りにしてまで。
(私だけ戻ったのに)
 僅かに身体を起こすその行為が、重く、視界をぐるりと揺らすように思える。
 胃が冷たい。
 持ち上げた視線をベールから、ファルシオンへ移し、けれど幼い王子の黄金の瞳を捉える事が出来ずに、黒檀の執務机の艶やかな表面に落ちる。
 ファルシオンの傍に、窓硝子を背にして、レオアリスが立っているのが判った。
 鉄の冷たさが心臓をぐいと掴む。
 レオアリスの表情は射し込む陽射しの影になり隠されていたが、それ以上に瞳を向ける事ができなかった。
(話さなきゃ)
 あの場の全てを。イスで起こった事、アスタロトが見てきたものを。
 重い頭を持ち上げる。
 けれど声は喉につかえたままだ。
 また。
 また、同じ事をするのかと、そんな思いが脳裏に閃く。
 いつだったか、アスタロトはレオアリスに、彼の一族について語った。彼等の過去に何があったのか。
 それと同じ事をもう一度、繰り返さなくてはいけないのだと。
(――もう、嫌だ……)
 けれど、この報告こそがアスタロトの責務であり、ウィンスターがアスタロトに求めたものだ。それができなければアスタロトが戻った事に意味は何も無くなってしまう。
 そして今回は、ただ過去の出来事を語るだけではなかった。
「――イス、で、起こったことについて――、ご報告いたします」
 息が苦しく、まだあの深い水の中にいるようだと思った。そうだったらどれほど良かったかだろう。あのまま深く沈めば。
「伝令使でお伝えした通り、西海は、不可侵条約再締結の儀の場に、兵を伏せていました」
 あの昏い広間、あえかな光に浮かぶ海皇の姿、王と衛士達を取り囲む白刃と穂先の波。闇から現われたナジャルの姿――失われた炎。
「馬鹿な……公の、炎が」
 誰かが呟く。アスタロトはそれをもう一度繰り返した。
「私は、炎を失い、西海の囲みを払う事すらできませんでした。たった一度だけ――でも海皇の鉾に届かなかった」
 誰か、罰してくれればいい。
 激怒し罵り、全てはお前の愚かさ故と、アスタロトをこの場から追い落としてくれれば――それを望むのは、身勝手だ。
 でも誰か。
「陛下は、我々衛士をバージェスへお戻しになり、アヴァロン殿のみを残して、イスに留まられました」
 伸ばしたアスタロトの手の先で、届きもせず、王の姿は光の中に薄れた。
 どうしてだろう、とふと思う。

 どうしてだろう。

 イスと、バージェス、そして一里の館で起こった事を順序立てて語れているのか、アスタロト自身にもはっきりしていなかった。どれほどの時間、語り続けていたのかも判らないが、誰もアスタロトの言葉を遮る者はなく、時折呻きに近い声を洩らすのみで黙って聞いていた。
 思い付く限り言葉を綴る。イスでの出来事も、バージェスへの西海軍の侵攻も、一里の館の最後の光景も、アスタロトが見た事は全て。
 それでも、何を語っても、判らない事がある。

 どうして。

「――陛下は」
 自分の声ががらんどうの空間で叫ぶように耳の奥にこだましている。
「――あの時、陛下は、海皇との間に結んだ……盟約が、これで終わると、仰いました――不可侵条約ではなく――」
「閣下? お待ちください、それは――その不可侵条約ではない、盟約とは、一体何の事なのです」
 誰の声だろう。目を向けたが視界が薄暗く歪んでいて顔が良く見えない。ただアスタロトは口だけを動かした。
「陛下はそれを、盟約とだけ仰った。千年前、この国と、西海とを分けた約定――。千年の終焉と、海皇はそう言った。盟約から解放され、地上に戻ると」
 海皇は盟約の鎖から解き放たれ、地上の覇権を得る事を望んでいた。大戦と同様に――千年の昔の名も知らぬ惨禍と同様に、再び地上を、戦乱の坩堝に落とす事を。
 それは絶対に止めなくてはならない。
「でも王は」
 アスタロトは唇を震わせた。
 王は。
「盟約は」
 呟いたのはスランザールだ。そのしわがれた呟きが鋭く頬を叩くように感じられ、アスタロトはスランザールを見た。
 アスタロトへ向けられたスランザールの、白い眉の奥にある、瞳。
(……知って、いた――)
 王が口にした盟約を、スランザールは知っていた?
「――スランザール、あなたは、その盟約を」
 ファルシオンの傍に立つスランザールの白い姿が、歪んだ視界からくっきりと切り離される。
「知っていたんですか」


 知っていた。


 その言葉が次々と耳の奥に湧き上がる。
 知っていた。
 では王が
 スランザールは、王が
「スランザール……盟約を――、王が、その身を縛られていると言った、それを」
 王が、何を成そうとしていたかを。
 室内が騒めき、互いに張り詰めた顔を見合わせる。驚きや不安とは違う感情を覗かせアスタロトを見ているのは、スランザールと、ベールだ。
 強い目眩がした。
「陛下が――」
 王の目的を、何の為にイスを訪れたかを、スランザールは、彼等は知っていたというのか。
 頭の奥で割れ鐘に似た音が激しく打ち鳴らされる。自分が何を考えればいいのか、どう感じているのか、あの時どうすれば良かったのか――どうしたかったのか、全てごちゃ混ぜになった。
「陛下はあの時、盟約を終わらせるって言った――」
 全てがごちゃ混ぜで、身体の内側から闇雲な叫びが弾けてしまいそうだ。
「永く縛られ過ぎたって――盟約を終わらせれば、王自身も盟約から解放される……それは、王も――でもそれが当然だって」
 盟約を終わらせる事、それは同時に王自身の死をも意味するのだと、スランザール達は知っていて。
「終焉を受け入れる――? 何故! 何故王が」
 見上げたスランザールの面は、木彫りの仮面のように強張っている。スランザールからの答えは無かったが、そこに肯定と強い悔恨が確かにあった。
「――」
 それをスランザールに尋ねる事が無意味で、それを――王の意思を覆す術をスランザールは持たなかったのだと気付き、ただ、舌先に残った問いの断片が滑り落ちた。
「何で……」
 何を問いたいのか、判らないまま声は喉の奥で震え、音にならなかった。
 室内に薄氷を貼ったような沈黙が流れる。
 その沈黙に、やや掠れた、色の失せた声が入り込んだ。
「スランザール……どういう事なんですか」
 レオアリスの声だった。
 アスタロトはびくりと肩を揺らした。
 ずっと逸らしていた視線が、吸い寄せられる。
 そして、そのまま、呼吸が止まってしまった。
「盟約は終わらないと、貴方が言ったんだ」
 レオアリスの表情は背後の光が邪魔をして良く見えないが、その声はこれまで聞いた事のないほど硬く、不安定に響いた。
「そう言った、はずだ」
 室内の視線がそれぞれの疑問を表し、スランザールに集中する。スランザールは苦しげに、皺ぶいた面の奥の瞳を半ば伏せている。室内に満ちているのは重苦しく、どことなくスランザールの答えを怖れている、そんな沈黙だった。
 ややあって、スランザールは肺の奥底から苦悩を吐き出すように、深い息を吐いた。
「陛下は――、初めから、此度の儀において不可侵条約の再締結ではなく、盟約を終わらせる事を目的とされていたと、わしは考えておる」
「スランザール公、その、盟約とは一体何を指しておられるのです」
 タウゼンが強張った声を挟む。それはここにいる数名を除いた、全ての者の疑問だった。スランザールは改めて、この盟約がほとんど知られていない事に思い至り、ほんの束の間、忘れ物に気付いた時のような顔をした。
「盟約――」
 白い眉の奥で瞬きをし、一呼吸置いて、言葉を零す。
「そう、盟約とはかつて、激しい戦火を終わらせこの国と西海とを分ける為に、陛下と海皇とが結んだ約定じゃ――そう、言われておる。原文は確認されておらず、史書に明確な記録も無く、考察と思われる文書が僅かに残るのみとなっておる。歴史を深く遡ろうと思う者以外、探し光を当てる者は無かったろう。そうした類のものでもあった」
 スランザールの語り口はスランザール自身が盟約について、半信半疑の状態にあった事を窺わせる。
「アスタロトの言った通り……そう言えるほどにもわしは盟約の真実を知らぬが、海皇は盟約により与えられた己が領土を不服として、盟約に一人、終焉を書き加えたと言われている。即ち、海皇を西海に閉じ込めた約定の期限じゃ。だがそれにより、本来国を分ける事で役目を果たすはずだった盟約は、不完全となった」
 気付けばただ時計の歯車が、スランザールの言葉の裏で規則正しい音を刻んでいる。その二つ以外、物音は一切無かった。
「対となる陛下の御名を以ち、終焉に同意を記さぬ限り盟約は終わらぬ――それ故盟約は海皇と、陛下を縛り続けると」
 アスタロトはずっと、レオアリスを見ていた。レオアリスはスランザールへ身体を向けながらも、俯いている。
「わしは盟約の終わりがいつの事を指すのか、そこに不安をいだいておった。特に今年は五十年に一度の不可侵条約再締結があり、陛下が西海に赴く年でもあった。万が一、盟約が終われば、西海とこの国とを分けるものは無くなるのか。海皇が望み通り地上へ戻った場合、それはこの国に何をもたらすのか。その漠とした不安じゃ。今となっては自分がどこまで本気でそう考えていたのか、わし自身にも疑わしい。だが」
 ゆっくり、肺に溜まった息を吐く。
「陛下の真意が、何処にあるのか」
 それを一番恐れていたのかもしれないと、スランザールは呟いた。
「陛下は――盟約の終わりを、望んでおられたように思えた」
 レオアリスの肩が僅かに跳ねる。
「陛下御自身がそう仰った訳ではない、だが」
「……嘘だ」
「陛下と海皇との間で遥か昔に結ばれた盟約が、海皇が定めた終焉の為に不完全のまま陛下の御身をも縛った。陛下の手で盟約を終わらせる事により海皇の望みはついえ、陛下もまた、盟約のくびきから放たれる。それは盟約が半ば強制的に留とどめていた二つの存在を」
「嘘だ!」
 全てを振り絞るように、レオアリスは叫んだ。
「嘘だ! スランザール、貴方は嘘を……っ」
 叩きつける、怒りに似た、掠れた叫びだ。
 そんな声を聞いた事がない。
 あの時も。
 アスタロトの見開いた瞳から涙が湧き上がり、頬を伝った。次から次へと頬を零れ落ちる。
 がたん、と木が床を鳴らす硬い音が、その場の者達の意識を薄い陽光に白んだ室内に戻し、引き寄せた。
 集まった視線の先で、ファルシオンが椅子から立ち上がっていた。幼い黄金の瞳が、揺れる。
 その瞳はただ、黒檀の机の上に落ちていた。
「もう――」
 ファルシオンの身体が力を失って崩れる。レオアリスは咄嗟に腕を伸ばし、ファルシオンが床に身体を打つ前に支えた。
「――殿下……!」
 ベールが大股に近寄ると、束の間レオアリスが抱えたファルシオンの顔を覗き込んだ。周囲が息を詰めて見つめる中、ややあってベールは自らを宥めるように、深く息を吐いた。
「疲労が原因だろう。朝から今までずっと気を張っておられたのだ、無理もない」
 同様に詰めていた息を吐く音が、幾つも重なる。
 今、目の前に是非もなく示された事実が、まだ幼い王子が受け止めるには重く痛みを伴い過ぎる事と、この先それでも負わなければならない事を思い、そしてまた、この難局を負うにはファルシオンは幼な過ぎると――、その懸念が微かでありながら黒い染みとなって、それぞれの胸の奥に落ちていた。
 レオアリスは膝をついたまま俯き、ファルシオンの身体を抱えている。その姿はそこに犇めく思惑や現実から、幼い王子を切り離そうとしているようにも見えた。
 ベールは立ち上がり、卓を振り返った。
「この場はこれまでだ。殿下にはしばし休養の時間が必要だろう。三刻後、南棟三階の議場に場所を移して再開する」
 壁際の置時計は午後二刻を差している。
 不可侵条約再締結の儀が始まってから、既に二刻――もう二刻も経ってしまっている。
 それに加えアスタロトがイスから持ち帰った情報は、すぐ頭上に垂れこめる暗雲を見出みいだすに充分だった。
 引き返す術もないところまで、既にこの国は来ている。
「当面は情報収集と、上陸した西海軍の排撃に集中する。西方第六軍は現在バージェスを目指しているが、一里の控えの転移陣を廃した事で、我々はなお後手に回らざるを得ないだろう」
 これまで見せた事の無い厳しい表情が、ベールの面にもあった。
「ボードヴィルへは万が一の勧告と共に、バージェスから退却する第七軍への援軍を出させ、動きを見る。状況に依っては時間を早めて招集する事もあるだろう。また、再開後議論するが、貴殿等はこの件を王都、国内にどう布告すべきか、それを議決する必要がある事も念頭に入れておいて欲しい」
 始めにベルゼビアが席を立つ。楕円の卓を囲む顔ぶれを見回し、口元を歪めると、無言のまま扉へと向かった。
 ベルゼビアの姿が廊下へ消えると、室内には抑え張りつめていた緊張が緩むような安堵と、明確な居心地の悪さが残った。
「――では、三刻後……今後の軍の行動と共に必要となる経費について、ある程度の算段をつけて参ります」
 ゴドフリーはファルシオンへと深々と頭を下げ、卓の前を離れた。ヴェルナー、正規軍と近衛師団将校を残し、地政院副長官ランケ等も続く。
 重い足取りを聞きながら、アスタロトはまだ膝をついたまま、視線を遮る執務机の艶やかに磨かれた板を見つめていた。
「レオアリス、ファルシオン殿下を隣室へお連れしてくれ。すぐに殿下の典医を呼ぶ」
 スランザールの疲労の滲んだ声に、無言のまま衣擦れの音が応える。
 引き寄せられるように上げた瞳が、ファルシオンを抱えた背中を映した。
 咄嗟に熱が喉を突いた。
「レオ――」
 すぐに言葉は擦れて消え、溺れてしまいそうな後悔がどっと押し寄せる。イスを覆うあの深く青い水のように。
 声が届いていなければいいと、そう思ったけれど、レオアリスは足を止めた。
 一瞬、鼓動が止まり、それから煩いほど鳴り響く。
 振り向かない。
 そこに、激しい葛藤が見えた気がした。
「わ――私」
 何を言うべきだろう。
 自分だけが戻って来てしまったこと――


『任せて――』
 レオアリスの代わりを、自分がするから、と。
 良く軽々しくそんな言葉を口にした。


 約束を守らなかった。
(私は)
 息が詰まる。
 何を言えるのだろう。
「……ごめ――」
「悪い」
 アスタロトはレオアリスを見つめた。
 レオアリスは半ば振り返り、アスタロトの瞳には右の横顔だけが映る。横顔は窓に満ちる光に滲んでいる。
「今、何を考えればいいのか、判らないんだ」
 声には、混乱と、困惑と、苦痛と、抑えた怒りがあった。
 瞬きすると同時に、曖昧だった目の前が明瞭になる。
 レオアリスの顔もはっきりと見えた。
 色と、感情の失せた。
 全ての音が消えてしまったように思えた。
「……私、は」
「でも、お前は、泣かなくていい」
 膝の上で握った手の甲に、温度を失った雫が落ちる。
 それが涙だと初めて気が付いた。
「――レオアリス、まずは殿下を」
 スランザールに促され、レオアリスは奥の部屋へと足を向けた。
 絨毯を踏む微かな音の後、扉は静かに閉ざされた。






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