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王の剣士 七

<第二部>
~大いなる輪~

第一章『暗夜』

十六

 どん、どん、どん、と扉を強く叩く音が玄関広間に響いた。
 誰かが呼び鈴ではなく、扉そのものを叩いて開けるよう求めているのだ。
 ヒースウッド伯爵邸の執事は足を止め、上がりかけていた大階段を足早に下った。扉に辿り着く前にくぐもった声が、外からの喧騒を縫うように途切れ途切れ聞こえてくる。
「夜分遅くに――ボードヴィルより、緊急の」
 執事はさっと顔を強張らせ、同じく廊下の奥から走ってきた下男へ顔を向けた。下男が両開きの扉の片方の把手を引く。
 開かれた扉の向こう、夜の中に、館正面の方角に位置するボードヴィルの篝火が遠く揺れているのが目に入る。
 そして、遮るものも無く伝わる、喧騒――戦場の響き。
 鼓動を抑え、目の前に立っている人物を見た。正規軍兵士だ。正式軍装を身に付けている。ほっと息を吐いた執事が問う前に兵士が口を開いた。その後ろに他にも七名ほど兵士がいる。
「夜分遅くに申し訳ありません、私は第七大隊少将スクードと申します。ボードヴィルより参りました」
 戦場の響きが一際増し、執事は青ざめた顔でスクード達を招き入れた。
「ボ、ボードヴィルでは、一体今、何が」
「西海軍の進軍です」
 スクードは微塵の迷いも無く、はっきりと告げた。
「ボードヴィルの前面が戦場になっていますが、いつこちらまで被害が及ぶか判りません」
「そんな事に……」
「我々はヒースウッド中将とルシファー様の命で、こちらにおいでのラナエ様をお迎えにあがりました」
「コーネリアス様の」
 執事に頷き、スクードが早口に告げる。
 スクードとその部下達――彼等はワッツの部隊の兵だ。ボードヴィルに偵察に入り、そこでイリヤとヴィルトールに会った。
 ラナエを館から連れ出そうという彼等の行動は、当然、ヒースウッドやルシファーの指示などではない。
「ラナエ様をより安全な場所へ避難させよとの仰せです。出立の準備と、馬車の用意もお願いできますか。それと申し訳ありませんが、我々の馬も――ボードヴィルからは馬を出せませんでした」
「しょ、承知致しました」
 スクードの切迫した様子に頷き、執事は扉の側にいた下男へと馬車の支度を指示しすると、先に立って歩き出した。
 つい四半刻前に始まった戦闘の音が、このヒースウッド伯爵邸の住民達をすっかり目覚めさせていた。邸内は壁の燭台に火が灯され、廊下は明るい。
 執事達は何をすべきか、不安を募らせていた所だった。館の主であるヒースウッド伯爵は王都に呼ばれたきりで音沙汰がない。弟のコーネリアス・ヒースウッドも、それこそボードヴィルに詰めている。
 コーネリアスからの指示があると聞き、そして正規軍兵士の姿を見て、執事はようやく地に足が付いた思いで息を零したのだった。
「こちらでございます」
 執事はスクード達を案内し、大階段を昇って行く。館の奥からはざわめきが聞こえてくる。階段を登った二階の奥の部屋の前で、執事は立ち止まった。
「このお部屋です」
 真鍮の鍵の束を取り出し、その中の一つを鍵穴に差し込む。
 鍵の噛むカチリという音が聞こえ、扉は内側へ向かって開かれた。室内は灯りを落としているせいで暗い。
「――」
 スクード達は素早く目を合わせ、まずスクードが一歩足を踏み入れた。
「……ラナエ様」
 そっと呼ばわってみたが、返事は無かった。
 執事が壁に掛けられた燭台に火を灯すと、揺れるその灯りに室内はふぅっと明るくなった。
 横長に広い室内は一つの乱れもなく整っている。誰かが使っているとは思えないほどだ。寝台が右奥に、壁に頭を付けて置かれている。上部の小さな半円の天蓋から、艶やかな乳白色の布が四隅へと流れて覆っていた。
「失礼致します――」
 布をからげると、若い娘が横たわり眠っていた。歳の頃は十代後半で、昼に見たイリヤと同じ位だろう。
(この娘が――)
 横たわる姿は腹部の膨らみが目立つが、薄明かりにも穏やかな面が窺え、落ち着いた呼吸を繰り返している。
 イリヤの話通りだと、スクードは昼のボードヴィルの一室を思い返した。
 この娘が、一つの鍵だ。
(とにかく、まずはこの女性をここから出さなくては)
 この部屋は、近衛師団の隊士達が命を落としたという、その場所だろうか。額にじわりと冷たい汗が滲む。
「ラナエ様」
 改めて近くで声をかけてみても、ラナエの眠りは深いようだった。執事が説明するように言い添えた。
「ラナエ様は、お身体に御不調があり、我々がお預かりした時からほとんど眠っておいでです」
「眠って? ずっと、ですか?」
「ルシファー様が、大事を取ってと……お聞きになっておられないのですか?」
 スクードは咄嗟に言葉を探した。
「いえ……、詳しい事は」
 そんな事も知らないで大丈夫か、という思いが目の中に覗いた気がするが、執事はそれ以上疑問には思わなかったようだ。少なくとも表面上は。
「馬車も、そのように仕立てますので」
「では、このままお連れします――マウイ」
 スクードが部下へ命じると、一番体格のいいマウイが進み出て、眠っているラナエの身体を慎重に寝台から抱え上げた。身重の身体を抱えたマウイの腕に力がこもる。
(ここまでは、順調だ)
 スクードは額に滲む汗を拭いたい思いをこらえた。イリヤから聞いたような、ルシファーによる妨害は、今のところ何も無い。彼等はそれを一番恐れていた。
 スクードは足早に廊下へと出て、先ほど昇って来た大階段へと向かった。ボードヴィルでの戦闘のせいだろう、邸内には落ち着かない空気が漂い、廊下の奥を慌ただしく行き過ぎる姿も見える。
 一階の玄関広間へ降り広間を突っ切る。執事が扉に手を掛け、開いた。
 ボードヴィルからの喧騒が流れ込む。時折混じる金属を打ち合わす音が不安を煽るようだ。ただ、玄関前に二頭立ての馬車が既に用意されているのが見えた。
 スクードは息を吐き、玄関から踏み出しかけた。
「お待ちください。伯爵へは、どのように」
 館の主人へ挨拶もない事を不審がられたか、とスクードは言葉を探した。
「ヒースウッド伯爵へは、お会いして直接ご説明申し上げるのが本来ですが、事は急を要します。この時間にお起こしするのも失礼に当たりますので、」
「伯爵は、現在、王都におられます」
 執事は不安そうだった面に、更に疑念の表情を浮かべた。
「……コーネリアス様から何もお聞きになっておられないのですか?」
 しまった、とスクードは唇を噛んだ。部下達も互いに緊張した視線を交わす。
「そのような大事な事を、コーネリアス様は仰らなかったのですか?」
「いえ、それは」
 執事の目に不審の光が宿る。彼はちらちらとスクード達の背後の広間へ目をやり、明らかに人を探している。
「ラナエ様は大切なお客様です。このようにお身体の不調もある中で、無責任な事はできません。何か、コーネリアス様からの指示だと判るものをお持ちではないですか」
 こめかみの辺りで血管がどくどくと脈を打っている。
「書状なり」
「……城内の混乱もあり、書状などは」
「では、この家の誰に・・伝えるようにと仰いましたか」
「――」
 執事の目は最早スクード達への不審が強く、内心を表すように細められている。
 一呼吸置き、執事は声を上げ、人を呼んだ。
「コーネリアス様に確認致します。申し訳ございませんが、それまでお待ちいただけますか」
「し――かし、今は急いでボードヴィルからラナエ様を遠ざけるのが先決と」
「どんなにお急ぎでも、あなた方が確かな使者だと確認できない内は、出立はお待ちいただきます」
 強硬に出て行くか、とスクードはすぐそこに停車している馬車を見た。
 しかしそれでは、すぐに追っ手が掛けられてしまう。この館の者達を斬るつもりもスクード達には無かった。
「少将」
「少し待て――」
 広間を誰か駆けてくる。
 もう一度、スクードが馬車との距離を測った時――、館の外から響いていた戦場の喧騒が、ふいに鎮まった。
 執事もスクードも、静寂につられて辺りを見回した。
館のどこかで、悲鳴が上がった。
「何だ?!」
 スクードのすぐ後ろに立っていた部下が、目を見開いたかと思うと、震える声を絞った。
「し、少将……」
 振り返った先の部下――オズマは、スクードを通り越した玄関の外を見ている。
 スクードが咄嗟に確認したのはそこに停車している馬車だった。だが馬車はまだ変わらずそこにあり、異常は無い。
「どうした」
 館の階上で、同じような悲鳴や騒めきが広がって行く。階上で問題が起こったのかと、スクードは大階段の上を見透かした。
「少将――少将、違います――空を」
 オズマは顔を歪めながら、指差した。
「空?」
「ボ、ボード、ヴィルに……蛇、蛇が……何なんだ……」
「蛇? 一体何の事だ」
 指が示す方向の空を見上げる。ボードヴィルのちょうど真上の辺りだ。スクードは目を凝らし、そして眉を顰めた。
 そこには、夜目にも黒々とした影が浮かんでいた。
 ボードヴィルの更に向こうからか、空に長くくゆる影。余りの大きさに、現実のものとは思えない。
 ただ確かに、オズマの言う通り、それは蛇の姿をしていた。
「――何だ……」
 魔物、という言葉が頭の中に浮かぶ。
 だがあの周辺にそんなものが棲んでいるとは聞いた事がなかった。
 魔物の生息地はもっと北――黒森か、それとも――
 西海だ。
(ならあれは)
 ボードヴィルから騒めきが風に乗って届く。
 そこに恐怖と混乱の響きがあった。
 巨大な蛇の影が動く。
 夜の大気を押し分けるように感じられた。
「――ここを出る! その娘を馬車へ! 急げ!」
 スクードは執事の肩を掴み、自分の脇から部下達を外へと通しながら、混乱している執事の目を見た。
「あなた方も避難すべきです」
「あ、あれは、一体」
「判りません。しかし、ボードヴィルに更に問題が生じたのは間違いない。館の者達全員、近くの村かどこか、とにかくここから離れた場所へ避難しなさい」
 スクードは一旦言葉を切り、息を吐いた。
あれ・・は、ここまで簡単に到達する」
「少将!」
 馬車の用意を整えた部下が呼ばわり、スクードは身を翻した。
 空を見上げる。
 影は夜に弧を描き、戦場へと頭を下ろしていく。
 あの下がどうなっているのか、寒気を覚えた。








 ルシファーは目の前に作り出していた鏡から瞳を上げた。
 鏡の中で、スクード達の馬車がヒースウッド伯爵邸から遠ざかって行く。
 細い指を鏡の表面に伸ばし、微かに触れた指先は波紋を広げるように鏡の表面を揺らした。
 そのまま指先を止めたルシファーの耳に、城外の喧騒が波のように届いた。恐怖と混乱の響きだ。
「――仕方ないわね」
 どちらにしろ、いつまでもあのまま置いておくのは限界だった。
 指先が表面から離れると同時に、馬車を移していた鏡は空気に溶けるように渦を残し消えた。








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2016.9.22
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