18 巣(その2)
「ラウル――おいラウル!」
頬を叩かれて目が覚めた。
「なっ」
何が?!
頬がじんわり後から痛い。
「ラウル!」
もう一度振り下ろされる気配に、ラウルは咄嗟に首を捻って避けた。
目の前で拳が空を切る。
振り下ろしたのはレイノルドだ。体重こそかけていないものの、転がったラウルを跨いでいる。
「レイ――」
「チッ」
え。
今、舌打ちした?
「今、舌打ちした?」
「してない」
いやいやしたよね? しっかり聞こえたもんね?
何かすごい眉顰めてるしね?
「気付いて良かった。立て」
ラウルは首を起こし、呻いた。
ズキズキと身体のあちこちが痛む。
なぜ今この状況なのか、記憶をたぐった。
そう。
「決闘――」
「何だ?」
「俺、君と決闘を――?」
レイノルドも肩に怪我をしている。
「避けたつもりなのに――」
「その通りだ。知ってる」
「え」
レイノルドは手を伸ばし、ラウルの右肩を掴むとぐいと引いた。痛い。
「だが今はそれどころじゃない。立て」
「え」
咆哮が響いた。
ほんの少し離れた場所。
混乱しかけた意識が、すぐに現実を取り戻す。
ここはきりふり山だ。
ラウルだけではなく、セレスティ、リズリーアとヴィルリーア、グイド、それからレイノルド。
ヴァース、フルゴル、ノウム。
「みんなは!?」
オルビーィスは。
飛び起き、走った痛みにまた顔を歪める。見れば左肩と右腕上腕に深い傷を負っている。
確か足も尾の蛇に咬まれたはずだ。ズキズキと重苦しい痛みと熱を感じるが、見たくないので確認はしなかった。
周囲は霧に包まれ、人面獣の姿は見えない。
さっきの場所はもっと上――ラウル達が滑り落ちてきた、斜面の上だ。何かがぶつかるような物音と人の声。グイドの声だとわかる。
腹の底を震わせるような咆哮が響いた。
「戻らなきゃ。レイ、君は」
「問題ない」
そう言ったレイノルドも傷を負っている。右肩は服が三筋に裂け、血が袖口から滴っていた。
「ごめ――」
半ばで口を引き結び、ラウルは立ち上がった。頭の上あたりにあったヴァースを掴む。
フルゴルはと見れば、もうレイノルドが掴んでいた。
また咆哮。先ほどとは異なる位置から上がった。
「戻るぞ」
踏み出したレイノルドが身体を傾がせ、ラウルは右肩を入れて支えた。ずしりとかかった体重が、すぐ軽くなる。
「余計なことしなくていい」
言われたがラウルはもう一度、レイノルドの身体を支えた。
「君は無茶するから。小さい頃も無理に登った木から落っこちて怪我したりして」
「兄貴面するな」
「前は素直で可愛かったのに、これも成長だねぇ」
「聞いてんのか?」
数歩歩いた時、丸い光が前方の霧の中に灯った。
鈴が鳴る。
澄んだ、軽やかなその音。
もう一度。
しゃらん。
『――来れ、来れ、夜の帳にその腕を開くもの』
『眠りよ、彼のものをその腕に抱け』
杖の先端に揺れる鈴が、澄んだ、歌声を思わせる音色を揺らす。
『深き眠りをここへ』
リズリーアは杖で頭上に円を描いた。
朝露が降り注ぐように、杖から振り撒かれた淡い光の粒が、リズリーア達を囲む人面獣の群れへ注ぐ。
朝露に香る花を思わせる芳しい風が流れる。
七頭いた人面獣は全て、その場に蹲るように倒れた。
両手で力一杯杖を握りしめていたリズリーアは、一呼吸置いて、そっと周囲を見まわした。
「――はあぁ」
全身の力を抜いて、その場にへたり込む。
「効いた――っ」
「リズちゃん、すごいよ」
興奮した様子で飛びつくヴィルリーアを受け止め、
「ヴィリの風切りがあったから」
ぎゅうっと抱きしめて、リズリーアは視線を巡らせた。
ヴィルリーアが『風切り』を唱えて人面獣の足を止め、グイドが二体、セレスティも一体、牽制に動いた。
それを利用してリズリーアは、長い呪言を唱えられたのだ。
「おじさん、セレスティ、怪我は」
「俺は無い」
「私も、幸いかすり傷程度で済んでいます」
グイドは言った通り負傷はなく、矢も既に矢筒と手元に戻っている。セレスティはところどころ血を滲ませてはいるものの、目立った負傷はなかった。
「良かった。ラウル達は」
斜面の方へ首を巡らせかけ、先に声がかかった。
「みんな――!」
霧を掻き分けるように、ラウルとレイノルドが斜面を登ってくるところだ。
「ラウル! レイノルド! 無事だった――じゃない、怪我! 結構ひどい!」
リズリーアは駆け寄り、「骨折は? 無い? 良かった座って!」
二人を座らせて治癒の法術を素早く口ずさんだ。
暖かな光が二人を包む間も、グイドがラウルの前に立った。厳しい目に見下ろされ、ラウルは治癒を受けながらその場で姿勢を正した。
叱責は甘んじて受けなければ。
冷静になれば愚かな行為だと、つくづく恥ずかしい。
「ラウル――」
「待ってください、グイド殿」
グイドを左腕でやんわり制し、セレスティがラウルの前に立つ。
「ラウル」
セレスティの声も初めて聞くほど厳しい。
ラウルはセレスティの青い瞳を見上げた。
「貴方の先ほどの行為は決して褒められません。特に我々は、皆一人ひとりが同じ目的のもと、一人ひとりが意志を持って共に行動しているからこそ。貴方の行動はその私達を信用していないと、そう言われているように感じさせてしまう」
「そんなつもりはないです!」
ラウルは慌てて首を振った。
「絶対」
セレスティを、グイドを、リズリーアとヴィルリーアを見つめ、ラウルは深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。みなさんを、侮辱することになってしまった」
「お前は視野が狭いんだ。昔から」
レイノルドへ返す言葉も無い。
「あたしは、ラウルはおバカだと思うし」
「リ、リズちゃん」
黒い法衣の頭巾はすっかり背中に落として愛らしい面を持ち上げ、リズリーアはほっそりした両手を腰に当てた。
「あたしもやっぱりちょっと怒ってるけど、でも、無事に戻ってきてくれたから、それでいいよ」
「僕も、し、心配、しました……っ」
頭巾の下で頬が赤く染まる。
「まあそういうことだ」
グイドが呆れを含んで見下ろす。
「ごめ――」
ラウルは彼等の前に深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ラウル」
リズリーアが頭巾に入れていたオルビーィスを抱き抱え、ラウルへと、そっと差し出した。
「オルビーィスはラウルが連れて行ってあげなきゃ」
「――うん。そうだ」
オルビーィスを抱き上げ、力を失ったその躯を抱きしめる。
「そうだね」
親許に帰してあげたかった。
それが心残りだ。
「どうする、ラウル。お前とレイノルドの傷も完全に治ったとは言えないだろう」
問われ、ラウルはグイドを見上げ、それから白い鱗へと瞳を落とした。
動かないオルビーィスの鱗を撫でる。
セレスティが背に当てた手の、暖かさ。
布越しに伝わる温度に、彼等が生きていることを実感する。そのセレスティも傷を負っている。
顔を上げ、ラウルは六人へ、それぞれ視線を巡らせた。
「すぐに下山しましょう。もうこれ以上、危険なことはできません」
人面獣達が眠っている間に、ここを離れなければ。追って来れないところまで。
そう決めたらもう停滞してる暇はない。
ラウル達は、まずこの霧を抜けることを目指し、斜面を降り始めた。
道もなく方角は明確ではなかったが、登っている時は太陽が山の右側にあり近くに渓谷はなかった。
太陽を左に見ながら渓谷を背にするように進む。
滝の音が周囲に轟き、霧は中々薄くならず、手足に絡みつくように思える。一行は黙々と、つまづきやすい足元に注意を凝らしながら歩いた。
降り始めて四半刻ほどは経っただろうか。そんなに長く歩いてはいない。
(けど)
ラウルは――ラウルだけではなくおそらく全員が、焦りと不安を覚えていただろう。
霧は全く薄くならない。
そして、轟く滝の音は、すぐ背後にあるように響いている。
(進んでるのか、これ――)
同じ場所をぐるぐると歩いているような。
先頭を行くセレスティの歩調も、時折踏み出すのを迷うように乱れる。
「――あの、グイドさん」
セレスティのすぐ後ろを歩くグイドの背へ、ラウルは恐る恐る声をかけた。
「俺達、降りてますかね……」
グイドがぴたりと立ち止まる。
「あっ、いや、貴方の案内に疑問があるとかではなくっ」
振り返ったグイドは、左腕をすっと上げた。
「グイドさん?」
グイドの険しい目がラウルを射竦める。
構えた弓――番えた一本の矢を。
「えっグイドさ」
いや、ラウルをではなく――
「俺達をここへ誘い込んだ、目的は何だ」
一番最後を歩いていたゲネロースウルムへ。
矢を向けられていることなど気にもせず、微笑んで立っている。
「誘い込んだ――? 違うよ。これが効果的な道順だ。お前達の目的を果たす為のね。まあまだ、踏むべき手順があるのだが」
「命が対価の道順か。そもそも俺達の目的? 違うな」
「グイドさ」
「お前自身の目的の為だ」
そのままゲネロースウルムを射るかと思えたが、グイドは矢筒から二本の矢を取り出し、最初の矢を番えたまま小指と人差し指の腹に挟むと、再び弓を持ち上げた。
ラウルの右手の下で、ヴァースが振動する。
「セレスティ、レイノルド、ラウル、剣を構えろ。まだ来る」
ゲネロースウルムは微笑んでいる。
グイドは忌々しそうに視線を外し、双眸を細めた。
「ここは巣だ――」
降りようとしていた方向、霧の奥で、小石を踏む音が聞こえた。
足音。一つではない。
振り返る前に右側で。
左も。
それから、後方――
「囲まれています」
「きょ、強化を……」
『鋼鉄』を唱えようとしたヴィルリーアをグイドが止める。
「あと何度も使えないだろう。攻撃系に徹してくれ」
ヴィルリーアははっとして、頷いた。
「――は、はい」
「ヴィリ、あと幾つ」
ヴィルリーアと背中合わせに立ち、リズリーアが尋ねる。
「た、多分、光の矢と、風切り、一回ずつくらい……」
少ない。
リズリーアは精一杯の笑みを広げ、両手を握った。
「じゅ、充分だよ! あたしは治癒ならあと七回くらい使えるし、光球とか、障壁、あとまだ眠り寄せも使えるもん。ヴィリと合わせれば、充分戦えるよ」
音は霧の向こうから、次第に、確実に、近付いてくる。
ヴァースの柄の振動が、静まった。
『来るぞ、ご主人――』
次の瞬間、霧が一斉に咆哮を上げた。
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