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第4章 きりふり山の冒険

15 霧を染める赤


 

「え……」
 誰もいない。
 ぐるりと見回す。
 霧が濃くまとわりついているせいか。
 足音も声も聞こえない。
 ここにいるのはラウルと、オルビーィス、ヴァースだけ。
「――グ、グイドさん! セレスティ!?」
 息を止め耳を澄ませたが答えは無い。
「リズ、ヴィリ――」
 辺りは真っ白で、いるのは自分一人。
「レイノルド! おーい! 聞こえたら返事してくれ!」
 強い風が吹いた。
 霧が重く動く。
 雷鳴が遠く鳴る。
 どこかで――、それは雷鳴よりももっと近い場所で、轟く音が聞こえた。
 雷鳴は一度だけだったが、轟く音はずっと響いている。
(何だ? 水の音――川? いや)
 滝。
 いつの間に、とまた思う。先程までセレスティ達と歩いていた時は、滝の音など聞こえていなかった。
 どこかに滝があるのなら、立ち込める霧で辺りが確認しにくい分、うっかり滝壺に足を滑らせないように気をつけなくては。
(うう、みんなどこにいるんだろう)
 フルゴルなら目印になって見つけてもらいやすい思ったが、レイノルドに貸していた。
(でも目眩しもできるし、レイが持ってるなら安心だ)
 レイノルドが使えばその光で、彼等の位置が分かるかもしれない。分かるはず。
(使ってくれるといいけど)
 自分一人がはぐれたのだろうか。もしかしてみんなばらばらに?
 探しているだろうか。
「――ええと、ゲネ」
『ご主人、前――』
 ヴァースの声は低く、囁くほどだ。
 こんな警告の仕方をする時は――
 相手を刺激したくない時。
(近いん、だ)
 ヴァースを引き抜く。
 そっと、なるべく足音を立てないように膝をやや屈め、歩く。
 肌を撫でるひんやりとした霧が不安を纏いつかせるようだ。早く合流したかった。
 ゆらりと。
 右前方に影が揺れた。
 はっと顔を向ける。
 人影。
「そこに、誰か――」
 ラウルは駆け出し
『ご主人!』
 鋭い声に、つんのめった。
「え」
 ヴァースを見て、視線を正面へ戻す。
 人影はもう、そこにいた。
 いや、それは人影・・と、言えるかどうか――
 顔はラウルの、三尺(約90cm)も上にあった。ラウル自身六尺(180cm)近いから、九尺はある。
 血走ったような目と、目が合った。
 一本一本が針金に似た土色の毛が全身を厚く覆っている。
 剥き出した牙が見え、次に生臭い息が鼻先へ漂った。低く湧き起こるような唸り声。
 オルビーィスがラウルの肩に伏せる。
 ラウルはオルビーィスを遠ざけようと左肩を斜めに引いた。
「く、熊――」
 それとも猿。
 どちらともつかない。
 ただ、全身に張り巡らされた筋肉は人間の鍛えられるそれを軽く凌駕し、腕の一振りで容易く骨が砕かれると、そう思った。
 唸り声。
 獲物を狙い据えられたその双眼には、ラウルが理解できる光はない。
『ご主人――腹から顎へ、おれ様を思い切り切り上げたら――』
 ヴァースが囁く。
 ラウルはヴァースの柄を両手で握り締めた。
『逃げろ!』
 ヴァースが振動する。
 指示通り振ろうとした、その時だ。
 立ちはだかっていた魔獣の頭が、消えた。
「えっ」
 ラウルはヴァースを握ったまま、二歩、後ろへよろめいた。
「何が――」
 文字通り、首から上が丸まると消えている。
 ラウルはまだヴァースを振ってもいない。
 認識は瞬きの間だった。
 頭のあった位置に、残った身体――首から、血が吹き出した。
 霧を紅く染める。
 ヴァースが大きな声で何か言っている。
 もう一つの瞬きの間に、目の前の魔獣はぐらりと倒れた。
 ラウルの方へ。
 咄嗟に避けたラウルは、そのまま足をもつれさせて尻もちをついた。
 すぐ横へ、魔獣の躯が倒れる。
 手の甲に生暖かいものが当たり、ラウルは迫り上がる声を無理矢理堪えた。
 臓物――こぼれ出た内臓だ。
 それから広がっていく血溜まり。
 魔獣は背中を背骨ごと割られていた。
「何」
 何が。
 死んだはずの魔獣の身体がずるりと動く。
 霧の奥の、何者かが魔獣の足を掴み、引き摺っているのだ。
 ヴァースが叫んでいる。
『逃げろ!』
 蛇怪の時くらい必死だ。あの時以上に。
 それはそうだ。
 たった今、ラウルなどひと撫でで殺せそうな魔獣が、それこそひと撫でで、首を失い内臓を撒き散らした。
 ならそれをしたのは、この魔獣以上のものでしかない。
『逃げろ!』
「うん、に、逃げたいよ」
 でも、腰が抜けててね? ははは
『ご主人!』
 右腕がぐんと振り上がる。肩が外れるかと思った。
 振り上がったヴァースの刃、剣の側身が硬いものを捉える。そのまま固定された。
 牙。
 ずらりと並んだ牙が、剣身をがっちりと捕らえている。
 女の顔。
 背筋が凍る。
(蛇怪――?!)
 違う。
 だが違うとわかっても安堵などある訳がなく、眼にした異容に身体は一層強張った。
 長く鱗の連なった首は同じだ。
 その先の躯は、蛇ではなく獣。
 書物で見たことのある、獅子という生き物に近い。
 胸には人に似た二対の乳房、背に分厚い翼。
 細く布を擦るような音に目を向ければ、長い尾の先端で、蛇の頭がしゅるしゅると舌を震わせているのが見えた。
「なん……」
 何だ、これは。
 ヴァースの柄を握る手が震えている。
 人面獣の顎がヴァースの剣身を捕らえているせいで、腕を突き出したまま動けない。
 そして動いたら、その瞬間に腕ごと頭を持っていかれると、そう思った。
 先ほどの魔獣のように。
 均衡を破ったのは。
 肩に伏せていたオルビーィスが、身を細かに震わせたかと思うと、飛び出した。
 ラウルの肩に爪の痕が残る。
「オル……」
 人面獣の首に唸りを上げて喰らいつく。
 それはラウルが、初めて眼にする獰猛な姿だった。
 ラウルの肩でくつろぎ、手のひらの感触に目を細める様とは全く異なる。
 怒り――
 オルビーィスの顎は人面獣の首よりもなお頼りなく、だが鱗を貫いて突き立つ。
 人面獣は咥えていたヴァースを放し、首を仰け反らせた。
「ヴァ、ヴァ、ヴァースッ、無事か!?」
『何てことねー! それより』
 オルビーィスだ。
 人面獣の太い前脚が振り上がる。振り回した長い爪が闇雲に空を割き、地面を穿った。
 女の顔が苦悶に歪んでいる。
「オルー!」
 ラウルはヴァースを構え、暴れる人面獣とオルビーィスの姿を忙しなく目で追った。
 その都度ヴァースの切先を向けるが、踏み込みどころがわからない。
 オルビーィスは我を忘れ、爪を突き立て唸り、喰らいついている。
 このままではいけないと、その考えが唐突にラウルを打った。
 駄目だ。
「オルー! 戻れ!」
 オルビーィスはぴくりと反応し――
 その瞬間、人面獣は激しく身をゆすった。
 喰らい付いていたオルビーィスの牙が外れて放り出される。
 駆け寄ろうとしたラウルの目の前で、振り下ろされた人面獣の爪が、オルビーィスの腹を、裂いた。
「オルー!!」
 全身の血が一気に下がった気がした。
 オルビーィスは弾かれ、ラウルの右斜め前へ、霧の中に消える。
 負傷の状態もわからない。
「オルー!」
 追いかけようとしたラウルの前を人面獣が塞いだ。
 咄嗟に飛び退き、ヴァースを構え、突っ込んだ。
「どけっ!」












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2023.8.6
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