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第1章 鍛冶師と小竜

1 きりふり山の白竜


 
 つい先ほどまで綺麗に青く晴れていた空には、にわかに黒雲が垂れ込め、雷鳴がその合間を切り裂き轟いていた。
 雲の上に浮かぶが如き山の頂は、硬く積もり重なった雪が岩肌を覆い、草木はほんの僅かも無い。
 長く続く山脈の北端、足元の深い森の中に潜り込むように位置するこの山は頭抜けて高く、遠く南へ向けて連なる山々はどれも並び得なかった。
 急峻な斜面の中腹から下は深い霧に覆われ、麓の様子は見えない。霧は中腹から麓まで一年を通して覆い、滅多に晴れることがなかった。麓に広がる深い森がこの霧を生み出している。
 きりふり山、と山は呼ばれていた。
 そのきりふり山の尖った山頂の、大きな岩の影は少し広めの洞窟のような造りになっていた。洞窟と言っても深くはなく、頭上に天然の庇が張り出した岩場と呼ぶに近い。
 常に寒気や風雨に晒され生物が憩えるとはとても思えないその岩床に、大小様々な形の石でぐるりと丸い縁が作られ、木の皮や枯葉が円の中に敷き詰められていた。大人が三人腕を繋いで円を作ったくらいの大きさがある。
 中央に寄せるように、三つ。
 置かれているのは卵。
 やや青い殻には水に油を落とした様相の、灰色の筋が模様を描いている。
 卵のすぐ傍で黒く大きな影が動く。たった今まで卵を温めていた岩場の主だ。
 三ヶ月に及ぶ抱卵期間の終わりも迫っており、自分が食べることも後回しに温め続けて来た卵が、今日にも孵る頃合いだった。
 孵った後の子育ての為には体力をつける必要があり、この最後の時期に一度だけ、親は巣を離れる。
 卵の一つが微かに揺れた。こつこつと、中から殻を突いている音。
 親は自分の足元にある卵に長い首を寄せ、その音に喉を鳴らして語りかけた。
 早く生まれておいで。お前たちの顔を見せておくれ。
 どんなに可愛かろう。
 畳んでいた翼を広げる。
 透き通るような白色の鱗が広い翼の皮膜を縁取っている。
 同色の、見るからに硬質な鱗は躯に、長い首、長い尾に鎧に似て被い連なる。
 ――竜。
 尾までの体長二間(約6m)ほど、広げた翼は三間を超える。
 巣を抱えるのは雌だ。
 母竜は長い首を持ち上げた。巣から離れ難いが、体力を補う為には餌を取りにいかなければならない。
 岩場の縁へと数歩進むと、急峻な斜面に覆い被さる雷鳴の走る空へ、母竜は滑るように飛空した。
 俄かに冷たい風が岩屋に吹き込み、三つの卵はその風を感じたのか、小さく揺れた。
 コツコツ、一番奥の卵が中から殻を叩く。巣の中でコトコトと揺れる。
 もう二つの卵はまだ中で微睡んでいるようだ。
 コツコツと叩く音を立て、返る声が無いと分かると、殻の向こうから微かに「ぴぃ」と鳴いた。
 しばらく、時折殻を叩く音以外なく――
 大気を打つ翼の音がした。
 風が吹き込み、巣を組む小枝を揺らす。
 もう一度、翼の音。
 卵の内側から叩く音が迎えるように鳴り、だがふと、静かになった。
 空気が張り詰めたのが分かる。
 息をひそめる静寂が岩屋に満ちた。
 重なる翼の音と共に岩屋の入り口に現われたのは、母竜ではなかった。
 全長一間(約3m)ほどの大型の鳥が二羽。
 いや――鳥ではなく。
 躰は獅子、胸の二対の乳房は人のものだ。首は長く鱗がびっしりと連なっている。その先についた頭は、悍ましいものだった。
 人の顔。うっすらと笑みを浮かべている。
 ぶ厚い翼が空気を掻き混ぜ音を立てる。
 長い尾の先端には、蛇の頭がしゅるしゅると舌を震わせていた。
 人面の獣が喉を鳴らし、落ち窪んだ双眸を岩屋の奥に向けた。
 卵を捉えた双眸が光を帯びる。剥き出した鋭い牙の隙間から涎が滴った。
 二匹は主人が不在の岩屋に悠然と踏み込み、太い脚の鉤爪を、卵に掛けた。
 軋む音がして――鉤爪の先が、卵の殻に食い込む。
 最早殻を破るのを待つだけだった幼竜が、中で警戒の鳴き声を上げる。
 その声に触発されたかのように、人面の顎が耳の脇まで割れて蝦蟇口の如く開き、手前の卵を一つ、まるまる飲み込んだ。
 もう一頭も牙を剥き出し、割れた顎の中に卵を飲み込む。
 残る卵はあと一つ。
 二匹はそれぞれ飲み込んだ卵で満足することは無く、大柄の一頭が残る一つに近付いた。突き立てた牙が、硬い殻に穴を穿った。
 穴の奥に、小さな丸い瞳が覗く。
 ぱちりと瞬き、突如開いた穴と流れ込む冷たい空気、そして迫る鋭い牙を見た。
 大気を揺する咆哮が響いた。
 長く鋭い鉤爪が手前にいた人面獣の肩口に食い込み、腹部まで引き裂くと同時に岩屋から引き摺り出す。
 人面獣の腹から潰れた卵が岩屋の床に落ちる。
 駆けつけた母竜は怒りに満ちた咆哮を上げ、引き裂いた一頭を岩屋の外へ放り出すと、もう一頭の首元へ、ずらりと鋭い牙の並ぶ顎を開き、食らい付いた。
 人面獣の喉から、たった今飲み込んだばかりの卵が競り上がるように吐き出される。
 人面獣が嵐の如く身を揺する。
 喉に食らい付く竜の顎から逃れるその動作で、鞭となってしなった尾が一つ無事に残っていた卵を弾いた。
 卵がくるくると回りながら岩床を滑る。母竜からは人面獣の影になり見えていない。
 外へ放り出された人面獣が肩から裂かれた半身をぶら下げながら、母竜の尾に噛み付く。母竜が尾に噛み付く人面獣を仕留めようと身を捻る。
 卵はその戦いの足元を滑り続け、母竜が気付く前に、空へと飛び出した。牙で開けられた穴から、幼い瞳がまんまるに見開かれたまま。
 卵は一度斜面に落ち、そのまま斜面を雪と混じりながら転がり落ちていく。
 高さ一里(三千m)を越えるきりふり山の斜面を、どこまでも、追いかけるものもとどめるものも無く。
 遠退いていく岩屋を、二頭の魔獣と戦う母の姿を、懸命に見つめる瞳。
 激しい咆哮、噛み合う牙の音。打ち鳴らされる首、尾。
 空へ、二頭の人面の魔獣が放り出された。
 一呼吸後――白い光条がその後を追い、岩屋から放たれる。
 空へ広がり人面獣を飲み込んだ光条が、大気に細く消える。
 二頭の躯は白く凍り付いていた。
 大気中の塵が凍り、薄い陽光を僅かに弾いている。
 斜面に落ち、大小バラバラに砕けた欠片が雪面に散らばる。
 その横に、親指の先ほどの輝く球が落ちた。竜が吐く息が凝った宝玉だ。虹色を纏うそれは大気に触れ、ゆっくりと解けていく。
 母竜は凍る息の名残を吐き出すのも惜しく、傷付いた躯を岩屋の奥に巡らせた。
 見る影もなく壊された巣の石や枝に混じって、卵の殻が散らばっている。
 もう姿を見せるのを待つばかりだった幼い竜が二匹、小さな躯をぐったりと投げ出して横たわっている。
 母竜が鼻先を寄せ呼びかけても起き上がる気配はない。
 触れた鼻先に生命が感じられないことも、母竜にはもう判っていた。
 二匹――
 あと一つは。
 母竜は岩屋から飛び出した。
 傷付き破れた翼で斜面の途中、砕けた人面獣の身体へと降り立ち、その欠片の中に我が子がいないかを探す。
 ――いない
 いない。
 あとの一つも、ただ呑まれてしまったのか。他の人面獣に既に喰われてしまったのか。
 母竜は長い首を空へ逸らし、短く高く鳴いて呼びかけた。
 何度となく呼びかけるそれに、返る返事は無い。
 見渡す荒涼とした斜面には生物の姿も気配すらもない。
 ――おお、なんという……
 もう今日にも、殻を破って生まれ出ただろうに。
 どれほどその時を心待ちにしていたことか――
 傷付き、何より失意に満ちた重い身体を再び巣に戻し、母竜は長い喉で息絶えている二匹の我が子を長い首で掻き寄せた。
 青に赤い虹彩を揺らす瞳に怒りを滲ませる。
 ――魔物共
 ――巣を探し出し、もろとも根絶やしにしてくれる
 母竜は再び、傷付いた喉で咆哮を上げた。
 怒りと悲しみの咆哮が響く範囲には、ただ一羽の鳥さえ恐れて近付かなかった。








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2023.2.12
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